テラーノベル
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商店街の台帳の、本当の一行目は、失敗から始まった。
朝、文房具屋の前に机を出した。大学ノートが三冊。会長と、肉屋の主人と、八百屋の主人が、それぞれ一冊ずつ持って並ぶ。要が真ん中に立ち、つむぎが隣に立つ。
最初に来たのは、商店街の向かいに住む中年の男だった。顔は、つむぎが先週覚えていた。
「米を、五キロ。現金はない。月末に、働いた分で払う」
「働く先は」要が聞いた。
「御殿」
要は、一瞬止まった。御殿で働いて、御殿から食料をもらい、その食料ではなく、御殿の外の商店街で米を買う。筋は通っている。御殿の中では食えるが、家族には持ち帰れない。だから、外で買う。
「月末に、何で払うんですか」
「御殿が、働いた分を、米で払ってくれる。それを、持ってくる」
米で米を払う。要は、三人の店主を見た。三人とも、首を傾げていた。
「書いてみましょう」要は言った。
三冊のノートに、三人が書いた。日付。名前。米、五キロ。月末に、米で返す。つむぎが、男の顔をもう一度見て、小さくうなずいた。
男は米を受け取って、帰った。
「これで、いいのか」肉屋が言った。
「わかりません」要は正直に言った。「でも、三冊に同じことが書いてあって、彼の顔を彼女が覚えてる。彼が月末に来なければ、三冊と一人の記憶が、彼が来なかったことを覚えてる。それが、今できる全部です」
昼までに、十一人が来た。
六人は、米か味噌か油を、ツケで買った。三人は、現金で買って、ついでに顔を覚えてもらいに来た。二人は、冷やかしだった。
十二人目で、問題が起きた。
女だった。三十代。顔は、つむぎが知らなかった。
「先週、ここで米を買いました。ツケで。今日、払いに来ました」
要は、三冊のノートを見た。先週は、まだ台帳を始めていない。
「先週は、台帳がありませんでした」
「でも、買いました。会長さんが、いいよって」
会長が、女の顔を見た。
「……ごめんなさい。覚えてない」
女は、財布から千円札を三枚出した。
「払います。米、五キロ分」
要は、考えた。彼女は、嘘をついているかもしれない。払うことで、台帳に「払った人」として名前を残し、次にもっと大きなツケをする準備をしているのかもしれない。あるいは、本当に先週買って、本当に払いに来たのかもしれない。
わからない。三冊のノートには、何も書いていない。つむぎの記憶にも、ない。
「払います」女は、もう一度言った。
要は、つむぎを見た。つむぎは、女の顔を見ていた。
「覚えました」つむぎは言った。「払いに来た人、として」
要は、うなずいた。三冊のノートに、三人が書いた。日付。名前。先週分、米五キロ、三千円、支払い済み。備考、先週の記録なし。
女は、礼を言って帰った。
「よかったのか」八百屋が言った。
「わかりません」要は言った。「でも、払いに来た人を追い返す台帳は、誰も使いません。騙されたなら、三千円の損です。それで『払った人』の記録が一行できた。それでいい」
夕方、台帳を閉じた。
三冊のノート、十二行。
要は、一冊を開いて、一行目を見た。会長の字で、米、五キロ。隣の冊を開いた。肉屋の字で、同じこと。三冊目。八百屋の字で、同じこと。
三人の、別々の手で、同じことが書いてある。
要は、その三行を、長い間見ていた。
大剥離の夜、画面の中で、本物が千二十四通りに増えるのを見た。増えたのは、一つのサーバーの中で、一つの手が、書いたものだった。だから、どれが本物かわからなくなった。
ここには、三つの手がある。三つの手が、三つの紙に、同じことを書いた。一つを書き換えるには、三人を同時に騙すか、三冊を同時に盗まなければならない。それは、できないことではない。でも、速くはできない。
遅い。
要は初めて、遅いことを、誇らしいと思った。
「要さん」
つむぎが、ノートを覗き込んでいた。
「一行目、見て」
要は見た。会長の字で書かれた、日付と、名前と、米、五キロ。
「これ、最初の台帳だよ」つむぎは言った。「大剥離の後の、最初の」
要は、ペンを取った。三冊のノートの、表紙を開いて、裏に書いた。
『この台帳は、侵入される前提で作られている。一冊を信じるな。三冊を照らせ』
三冊に、同じことを書いた。
(第9話「妹の声」へ続く)
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コメント
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みぅです🤍🥀 第8話、すごく好きな回でした。要くんが「遅いことを誇らしいと思った」って言うところ、胸に来ましたね…。大剥離で複製された情報に苦しんだからこそ、人の手で書く「遅さ」の尊さに気づいたんだなって。先週分のツケを払いに来た女の人を受け入れるのも、「払いたい人を追い返す台帳は誰も使わない」っていう考えが優しくて。 三冊のノートに三人の手。「一冊を信じるな、三冊を照らせ」。この地味だけどしっかりした仕組みが、この世界の希望になってほしいです。続きが気になる…!