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「暗くなったら、絶対に山に入るでねえ」
実家で暮らしていた頃、婆ちゃんが口を酸っぱくして言っていたのがこの言葉でした。実際はもっと訛りの強い言い方だったんですけど、多分こっちの出身じゃないと通じないと思うんで、直訳すると「とにかく夕方以降山には入るな」そういうことを言っていました。
自分の実家は、すぐ裏手が山に通じる入り口みたいになっていたんですけど、町そのものが山に囲まれてたんで、どの家も山や森に近かったんですよ。
町の中で特に山に近かったのが自分の家で、婆ちゃんからの忠告があろうとなかろうと、昼間でも鬱蒼とした雰囲気に、友人ともども、とてもじゃないですが夕方以降の山に入る気なんて起きませんでした。
よく山に纏わる怖い話ないの? なんて言われますけど、夕方以降の山はもう怪異の世界なんですよ。だから、山側のカーテンは夕方には全部閉めていたんですよね。
あ、いや待てよ。一回だけ。一回だけ気味の悪い経験したことがありましたわ。ただ、正体も何も分からないんで、消化不良だなんて言わないでくださいよ。
あれは夜の七時くらいだったでしょうか。とっぷりと日も暮れて、山側のカーテンは既に全部閉め切られた状態でした。山に近い場所は夏でも涼しく感じるので、晩秋の今は薄手の長袖ではもう寒いくらいだったように思います。
自分は風呂場から自室に戻る途中で、いくら湯浴みで体が温まっているとはいえ、肌寒い廊下を足早に通り過ぎようとしていたところでした。
『なああぁん。みぃ。なああぁん』
そんな折にカーテンの閉まった山側から、なんともか細い声が聞こえてきたんです。窓も閉まっていたから、近いのか遠いのかもよく分からなくて、思わず歩みを止めてしまったんです。
「赤ちゃんじゃないよな。猫、か?」
正体の分からない声程不気味に感じることはありませんが、仮に赤子だったらえらいことだと思い、カーテンを開けて外の様子を探ってみることにしたんです。
そしたら、最早これが一番驚いたかもしれないんですけど、普段足が悪くてゆったりとした動きしかできないと思っていた婆ちゃんが、廊下の向こうから物凄い勢いで走ってきたんです。
ちょっと! 此処笑うとこじゃないんですって。本当あの時は凄いびっくりして。そもそも老人が正面から走ってくる、それだけでも結構怖いじゃないですか。
それであまりのことに固まっていたら、少しだけ開かれたカーテンの端をむんずと掴んで、強引に閉め切ったんですよ。婆ちゃんはあの訛りの強い言い方で「今日は絶対にカーテンを開けるな」って言い放って、いつものようにゆったりとした動きで部屋に戻ろうとしてましてね。
だから思わず、分かったって納得しちゃったんですけど、その時だったかな。
カリ……、
って、壁に爪を当てているような音が聞こえたんです。ちょうど自分の目の前くらいで。湯浴みで温かくなった体が一瞬で冷え切り、毛が逆立つような感覚に見舞われたんです。
カリ……、カリカリカリ……、
明らかにカーテンの向こう側に何か、少なくとも赤子や猫ではないものがいると分かった瞬間、無意識に数歩後退っていました。婆ちゃんは相変わらず自分の顔をじっと見て、開けるなよって目で訴えているんです。
「婆ちゃん……」
「山怪みたいもんだ。寂しくなって山から降りてきたんだろ。いいからはよ寝れ」
もう無言で何度も首肯し、ゆったりと歩く婆ちゃんの後ろを年甲斐もなくベッタリと着いていったんです。婆ちゃんは自分を部屋の前まで送ってくれて、あとはもういつも通り。廊下をぺたぺた歩いて自室へと戻っていきました。
その後ですか?
最初にも言いましたけど、オチというオチはないんですよ。正体もわからないですし、かといってあの時カーテンや窓を開ける勇気なんてあるわけないじゃないですか。
まあ、そうですね。次の日の朝、なんかの足跡と異様な獣臭さが残っていたくらいですかね。すぐに霧散しちゃいましたけど。
あれ以降はそういうこと起きていないんで、あの山怪とやらも寂しくなくなったんじゃないですか? 山ではよく遭難事件が起きるものですからね。
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#短編
水底 ずい
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コメント
1件
うわあ、すごく良かったです……。おばあちゃんが足が悪いのに走ってくるシーン、あそこ一番震えました。あの緊迫感と、カリカリって音だけで何も見せない怖さがじわじわきますね。オチがないっていうのも、逆にリアルで、ずっと心に残るお話でした。また違う怪談も読んでみたいです🌷