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#戦乙女
眠狂四郎
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ヒデナガ敗走の報を聞くと、カツイエは
遠くミノの方角を見据え、低くつぶやいた。
「――やりましたな、ノブタダ様」
それだけ言うと、ためらいなく立ち上がる。
間を置かず、全軍に追撃を命じた。
ヒデナガの逃げ込んだナガハマ城をたちまち包囲すると、
自らは精鋭の騎馬千を率い、
ナカセンドウを西へ――
セキガハラへと向かった。
ヒデナガ敗走の報は、ほどなくヒデヨシ陣営にも届く。
「……もはや、これまで」
軍師カンベエは静かに言うと、ヨシツグを呼び寄せた。
その声には、わずかな焦りもなかった。
「殿を――落とせ」
ヨシツグは一瞬だけ目を伏せ、うなずく。
ただちにヒデヨシを戦場から離脱させる手はずを整えた。
「御武運を」
「うむ……」
短いやり取りののち、ヒデヨシは闇へと消える。
その背を見送ると、カンベエはヨシハルに向き直った。
「殿軍は任せた」
すでに戦場は、崩れ始めていた。
味方の旗は次々と引き、
統制を失った兵たちが、蜘蛛の子を散らすように退いていく。
敗色は、もはや覆いようもなく――
ただ静かに、しかし確実に、戦場全体を呑み込んでいった。
ヒデヨシ軍に、もはや退路はなかった。
前面にはカツイエ軍。
後面からはノブタダ軍が迫る。
崩れた陣は立て直す術もなく、
兵は次々と刈り取られていった。
ヒデヨシは、わずかな供回りとともに
街道を外れ、闇の中へと逃れた。
目指すは――ヤマザキ城。
しかし、その道中。
サメガイにて、
思わぬ敵に遭遇する。
――土民。
飢えと混乱に荒れた村人たちが、
落ち武者を狙い、襲いかかってきた。
暗闇の中、刃が交錯する。
叫び声も、悲鳴も、すぐに闇に呑まれた。
そのとき――
ヒデヨシの脇に、生暖かいものが流れた。
血だった。
やがて土民の一人が松明を掲げる。
照らし出されたその顔は――
すでに、焦点を失っていた。
ヒデヨシは、ぶつぶつと何かをつぶやいている。
「……オオザカに……」
かすれた声。
「でっかい城、建てて……」
一瞬、息を継ぐ。
「……いや、もう……無理か……」
松明の火が、わずかに揺れた。
「ナニワのことは……
夢の、また夢だな……」
ヒデヨシは、大樹に背を預けたまま――
動かなくなった。
静寂。
ただ、風の音だけが残る。
ナガハマ城は、紅蓮の炎に包まれていた。
長浜城の天守は崩れ、
黒煙が空を覆う。
ヒデナガは――その中で、自刃して果てた。
オオガキ城へ踏み込んだノブタダは、
言葉を失った。
大垣城の一室。
そこには、カンベエをはじめ、
数名の将が整然と並んでいた。
すでに、こと切れている。
切腹――。
血は流れ、畳を染めていたが、
その姿はあまりにも静かだった。
まるで、戦そのものが終わったことを
受け入れているかのように。
ノブタダはしばらく、その場に立ち尽くした。
何も言わず、ただ見つめる。
勝ったはずだった。
だが――
その実感は、どこにもなかった。
やがてカツイエと合流し、
オオガキ城にて、束の間の休息を取る。
兵たちの顔には疲労と安堵、
そして消えぬ緊張が入り混じっていた。
戦は終わっていない――
誰もが、それを感じていた。
やがてノブタダは、城中に集められた兵たちを前に立つ。
静まり返る中、ゆっくりと口を開いた。
「――これより、アヅチへ向かう」
ざわめきが走る。
「この戦、まだ終わってはおらぬ」
その声は、強くもあり、どこか重かった。
「天下の行く末――
ここで定めねばならぬ」
兵たちは顔を上げる。
勝利の先にあるものが、
ただの安堵ではないことを――
そのとき、誰もが理解した。
カツイエと再会したノブタダは、戦の終わりを見据え、静かに言った。
「後は――イエヤス殿をアヅチに呼び、
この先のことを定めることになるかのう」
「……イエヤスは、従いましょうか」
カツイエの問いに、ノブタダはわずかに目を細める。
「イエヤス殿は、父の盟友より臣従した
外様ダイミョーの筆頭じゃ」
一拍、置く。
「遅れた天下統一――
その力となってもらわねばならぬ」
「アヅチに入れば、いよいよ政(まつりごと)にございますな」
カツイエが応じた、そのときだった。
「申し上げます!」
駆け込んできた使者が、息も絶え絶えに声を張る。
「キヨスのノブカツ様――
兵を挙げ、イセへ侵攻。
カズマス様と交戦中とのこと!」
「なに……?」
さらに、別の使者が続けざまに叫ぶ。
「第三軍団、イエヤス様――
兵を挙げ、オワリへ入られました!
ノブカツ様と合流の模様!」
「……なんじゃと」
空気が、凍りついた。
ノブカツ――
ノブタダの弟にして、オワリ・イセを任された男。
そのノブカツが、兵を挙げた。
そして――イエヤスと手を結んだ。
つい先ほどまで、終わったはずの戦が――
形を変えて、再び動き出そうとしていた。
――話は、少し前にさかのぼる。
ハママツ城。
夜更けの城に、急使が駆け込んだ。
「申し上げます!
ノブタダ・カツイエ連合軍――
ヒデヨシ軍に勝利との報!」
「……まさか」
低く漏れた声。
「意外でしたな」
側に控えるマサノブが、主君の顔色をうかがいながら言う。
イエヤスは、わずかに目を伏せた。
「……一人で考える。下がれ」
「ははっ」
暗い一室。
灯りは、ほとんどない。
イエヤスは、ひとり座していた。
その手には――小さな位牌。
「ヘイハチを呼べ」
やがて近習に命じ、ヘイハチロウを呼び入れる。
人払いがなされ、部屋には二人だけが残った。
「……覚えておるか。三年前のこと」
低い声。
「――あの日のことを」
ヘイハチロウは、黙ってうなずく。
「ノブナガは……言いがかりともいえる理由で、
儂に息子を切腹させよと――こともなげに言い放った」
声は震えていない。
だが、その奥にあるものは、重かった。
「ノブヤスに、何の非もなかった」
沈黙。
「家中の誰一人――
味方する者も、助けようとする者も、
ノブナガと戦おうとする者も……おらなんだ」
ゆっくりと顔を上げる。
「みな、怖かったのだ」
「天下万民のため――
お家のため、家臣のため、領民のため……」
吐き捨てるように言う。
「……ばかばかしい」
その瞬間、堰を切ったように涙があふれた。
「なぜだ……
なぜ、そんなもののために――
儂の息子は、死なねばならなかったのだ」
「儂の刻は……あの日より止まっておる」
位牌を握る手に、力がこもる。
「なのに――
儂の息子は死に、
奴の息子は……今まさに天下人に駆け上がらんとしておる」
ヘイハチロウは、ただ黙してうつむく。
「ノブナガは……ノブヤスが邪魔だったのだ」
「己が子の前途を遮りかねぬ男としてな」
一拍。
「儂は、天下などどうでもよかった」
静かな声だった。
「ノブヤスさえ生きておれば――
ミカワの一土豪でも、よかったのだ」
ゆっくりと、顔を上げる。
その目に、もはや涙はなかった。
「……取り返す」
「ノブヤスが、生きていれば手にしていたものを」
「……すべてな」
「ノブカツを祀り上げ、
ノブタダを討て」
言葉は、冷え切っていた。
「ノブカツが異を唱えれば――
共に葬れ」
ヘイハチロウは、主君を見上げた。
幼き日、銭と引き換えに敵に売られ、
ともに生き延びてきた日々。
その苦しみも、悔しさも、すべて知っている。
だからこそ――
止める言葉を、持ちえなかった。
「……承知いたしました」
静かに頭を下げる。
「命に代えましても――
ノブタダの首、取りて
ノブヤス様の墓前に供えまする」
闇は、さらに深くなった。
この夜――
天下の理ではなく、
ただ一人の父の想いによって、
新たな戦が動き出した。
大乱のフィナーレ、その幕が――上がる。