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放課後の教室は、日中よりも静かだった。誰もいないわけじゃないけど、他人の会話は水の中の音のように遠い。
遥は窓際の席で、風に揺れるカーテンをぼんやりと見つめていた。
何も考えていないようで、けれど思考の底では何かが常にうねっている。
それは“考えたくない”けれど“考え続けている”もの。
ふいに、頭のすぐ後ろで人の気配がした。
「……髪、長くなったな」
低く、静かな声。
振り返るまでもなく、日下部だった。
遥が返事をしないままいると、不意に——
そっと、彼の指先が、遥の髪をすくうように触れた。
その瞬間、空気が変わった。
脳が、反射的に警報を鳴らす。
喉が詰まりそうになり、視界が一瞬にして曇る。
「——ッ」
目の奥が焼けるように痛い。
『見せ物にしてやるよ』
『女でも男でもないモノ』
『その反応、イけるわ』
過去の声が一瞬にして蘇る。
誰かの手、誰かの息、誰かの笑い声——。
身体の奥で、古傷が無理やり開かれるような感覚。
遥はとっさに、日下部の手を払いのけた。
強くではなかった。けれど、明確に拒絶の意志を込めて。
日下部は少し驚いたように、しかしすぐに手を引っ込めた。
「……ごめん、嫌だった?」
その声に怒りはなかった。
ただ、戸惑いと、少しの困惑。
責めるような色は一切なかったことが、逆に遥の胸をざらつかせた。
「……ちがう。わかんないだけ」
遥はうつむいた。声が震えているのに気づかれたくなかった。
「誰かに、優しく触れられたことなんて、ほとんどないから」
静かな教室に、その言葉は浮かんで、沈んだ。
日下部は何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。
遥はカーテンの向こうに沈む夕陽を見ていた。
それ以上、何も言えなかった。
何も言ってほしくなかった。
でも、あの一瞬の「触れられた」感覚が、
なぜかまだ、髪に残っている気がして——
遥はそれを、自分で壊すように、指先でそっと髪を引きちぎった。