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痛風、老眼、息切れ。
中年の不調が、きれいに揃った。
冒険者の全盛期は二十四歳。三十を過ぎれば「おっさん扱い」だ。
老齢の塔。
三十五歳以上のみが入るとされ、最奥には「いかなる病も癒す薬」があると噂される。
そしてダリウスたちは、ミラのためにその噂に賭けるしかなかった。
老齢の塔・一階層。ゴブリンの群れの中で。
ゴブリンの叫びが洞内に反響する。湿った風が頬を舐め、焦げた血の匂いが鼻に刺さった。松明の炎が揺れ、壁の影が細かく跳ねた。
四人の冒険者が背を合わせ、包囲の輪の中で踏みとどまっていた。
「オットー! この数は無理だ、前に出ろ! 盾になれ!」
剣士ダリウスの声が張りつめる。
しかし、返ってきたのは悲鳴。
「ぐぁあ!! わりぃな……痛風が出やがった。 しばらく右足は……動かん!」
丸い腹を揺らし、オットーは地面に膝をつく。足首を押さえ、奥歯を噛みしめた。額から汗が噴き、顎を伝って落ちる。
「痛風!? ぜぇ……ぜぇ……酒は一日二杯までだったろ……!」
ダリウスは罵声を喉で止め、剣を振るった。
刃がゴブリンの鉄爪を弾き、火花が散る。握った柄が汗でわずかに滑り、握り直した指に力がこもった。
「ぜぇ……ぜぇ……エドガー! 魔法はどうした!」
「少し待ってください……」
エドガーは魔導書を開く。指で行を追い、首を前に突き出した。まぶたがぴくりと跳ね、目尻に力が寄る。焦点が定まらない。
「想定通り、老眼です! 文字が滲んで見えません! 目薬をさすので、少し待ってください!」
「読むな! 感じろ!」
ツッコミは空しく消えた。ゴブリンの群れが、笑うようにじりじり距離を詰めてくる。
足音が増えた。鉄爪が擦れて甲高い音がする。
その修羅場に、不釣り合いな明るさが混ざった。
「出たね、中年の三重奏が」
金髪をなびかせ、少女ミラが笑っている。
十六歳。パーティで最年少。目の前の惨状を、舞台の一幕みたいに眺めていた。
「笑ってる場合か! 援護を——」
「わかった!」
剣士は息切れ、盾役は痛風、魔導士は老眼。
そして唯一の若者は、謎の笑顔で応援。
ミラが笑った。
その声が、胸の奥の錆をこすり落とすみたいに響いて——ダリウスの脳裏に、十年前の記憶がよみがえった。
*
この世界で、冒険者の人生は短い。
十六でデビュー、二十四で全盛期。
三十で引退し、遅くとも三十五で武器を置く。
ダリウスもその一人だった。三十で剣を納め、中の上の冒険者として静かに終えた。
夢に見たスローライフへ足を踏み入れた。
だが半年も経たないうちに、生活は軽くならなかった。むしろ重くなった。
朝。
目を開けても体が起きない。腕が布団に沈んだまま、天井の木目だけを見ている。
ようやく起き上がる頃には日が高い。
川で釣った魚を焼く。
皮がはぜ、脂が落ちる音がする。鼻先には匂いが届くのに、腹の底が動かない。
(……味がしない)
ひと噛みごとに、口の中に空白だけが増えていった。焼き加減を変えても、香草を添えても同じだ。箸が止まり、皿の上で冷めていく。
夜になれば、元冒険者たちが集まる酒場へ向かった。
年齢だけが増えた連中がいた。
かつての仲間、顔見知り、昔は輝いていた面々が、同じ机を囲んでいる。笑い声はある。だが乾いて、短い。
「俺が若い頃はよ……」
「いやいや、お前のあの一撃は伝説だったって……」
「そうそう、“あの頃の俺たち”は……」
全部、過去形。
同じ話が何度も戻ってくる。杯が空くたび、言葉も戻る。誰かが別の話題を振っても、結局は同じ場所に着地した。
ダリウスは笑って相づちを打った。頬を上げ、口角を上げ、目を細める。
自分の動きが、妙に慣れていて嫌だった。
(……俺も、ここに取り込まれていくんだな)
温い酒の匂い。湿った木の椅子。背中に貼りつく汗。
月咲やまな
#赤ずきん
帰り道が近づくほど、胸の奥が鈍くなる。足取りだけが軽く見えるのが、なお悪い。
ある夜。
酒場の帰り道、街灯の下でひとりの少年が立ち止まり、ダリウスを見上げた。
「おじさんの笑い方、なんか変だね」
気まずそうに母親が少年を抱えて連れ去っていった。
ダリウスはその場に立ち尽くし、頬の筋肉を指で押した。硬い。笑った後のはずなのに、動かない。
(……笑い方?)
家に戻り、鏡を見る。
映っていたのは、口元だけを持ち上げた男。目は笑っていない。
息が浅くなる。喉の奥がつかえ、吸うたびにひっかかった。
椅子に腰を落とし、手を膝に置く。指先が冷えていくのが分かった。
(このまま、あと半世紀……死ぬまで……?)
想像しただけで、胸が縮んだ。
「スローライフ」という言葉が、頭の中で空転する。音は派手なのに、中身がない。
ダリウスは椅子に座り込み、天井を見上げた。
静かな部屋で、鼓動だけが目立つ。速いのに、進んでいない。
——あぁ、もう駄目だと思った。
息はしている。飯も食う。酒場では笑う真似までしている。
それでも中身だけ、ずっと先に死んでいた。
そう思った瞬間、夜が長く見えた。朝が来る気がしなかった。
*
転機は、思いがけず訪れた。
親を亡くし、親戚の家を転々としてきた六歳の少女、ミラ。
「……腹は減ってるか?」
ダリウスは声を柔らかくしようとして、喉を鳴らした。言い慣れない。
目の前の小さな体は、背中がすこし丸い。指先が服の端を握り、ほどいては握り直している。
ミラはわずかに頷いた。
「うん」と言う代わりに、唇だけが動いた。
ダリウスは台所に立ち、久しぶりに人のための食事を作った。
味覚はない。味見はできない。だから鍋の縁を見て、火の加減を見て、沸き方を見て、手を止めずにかき混ぜた。
湯気の立つスープを二人分よそった。
鍋を置く手が、少しだけ軽かった。
食卓に並んだのは、質素なスープと焼いたパン。
二人で椅子に座ると、沈黙がまず来た。だが、その沈黙はさっきまでの空白とは違う。人の重さがある。
ダリウスはそっとミラを横目に見た。
「スープ、熱くないか?」
ミラはスプーンを持つ手を止め、俯いたまま小さな声で答えた。
「……うん」
ダリウスの肩がわずかに下がった。息が、ひとつ深く入った。
「……そうか」
他愛のないやり取り。
なのに、喉の奥が少しほどける。空洞が、ほんのわずか埋まった感覚がした。
*
食後、二人で近くの公園へ出かけた。
冬から春へ移り変わる匂いが漂い、ミラの薄い髪が揺れた。
ミラは砂場の前に立ったまま、足をもじもじさせる。
輪の中に入りたいのに、肩が固い。視線が地面から上がらない。
(無理に言うべきじゃないか……?)
ダリウスは一歩踏み出しかけて、止めた。
手を伸ばす代わりに、自分の腕を組む。見守るしかない、と腹を決めた。
そのとき、元気な声が響いた。
「一緒に遊ぼうぜ!」
同じ年頃の子供が、まっすぐミラに声をかけてくれた。
ミラはぱっと顔を上げる。
目が見開かれ、口がゆるむ。頬が一気に持ち上がり、笑いがこぼれた。
「うん!」
ミラは駆け出した。
砂を蹴る音が軽い。輪の中に飛び込み、肩の固さが消えていく。
ダリウスは立ち尽くしたまま、握っていた拳をほどいた。指が一本ずつ開く。背中の芯が抜け、重心が落ちた。
「……よかった」
ミラの笑い声が遠くで弾む。
それを聞いた瞬間、胸の内側に熱が戻った。昔、戦いの前に感じていた熱とは違う。静かで、確かな熱だった。
*
半年も経たないうちに、ミラの表情はどんどん変わっていった。
遠慮がちだった声が、次第に遠慮を忘れる。笑うとき、もう口元を隠さない。
「ダリウス、いつものスープ作って!」
ある夕方、ミラがエプロン姿のダリウスにまとわりついてくる。
「はいはい。おかえり、ミラ」
ダリウスは言い返すのを諦めて、肩をすくめるだけで受け止め、頭をくしゃっと撫でた。
ミラはテーブルの席について、パンを少しずつ齧りながら、足をぶらぶらさせている。
「今日はね、みんなと木登りしたんだよ」
「おお、そうか」
「私が校長先生役だから。努力賞と奨励賞を、厳正に授与したんだよ」
得意げに胸を張るミラに、ダリウスは吹き出した。喉が鳴って、肩が揺れた。
自分の笑い声が、ちゃんと部屋に響いた。
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
「えへへ、先生が言ってたのを真似したの」
鍋の湯気が天井へ上がる。野菜の匂いが広がり、ミラの声がそれに混ざる。
それだけで、部屋の輪郭がはっきりした。
*
ある夜、ふと、ダリウスは洗面所の鏡の前に立ち尽くしていた。
湯気の残る鏡を手で拭う。
くたびれた中年男の顔。目尻のシワ。少し増えた白髪。
そして、いつのまにか貼りついていた「あの笑い方」が、もうそこにない。
頬の力が抜けた。息が鼻から静かに抜ける。
(……俺は、ミラを救ったと思ってた)
(親戚をたらい回しにされて、行き場がなくなってたあの子を、俺が引き受けたから、少しはマシな場所になったんだって……)
鏡の中の男は、目線を外した。
自分の言い分を、自分が一番信用していない。
(違うな)
(傲慢だ、うぬぼれだ、なんてご大層な善意だ)
喉が鳴り、息が一段深く落ちた。
(逆だ、逆なんだ、救われたのは……俺の方だ)
ただ時間をすり潰していた日々。
何かを守っているふりをして、実は何も守れていなかった自分。
そこへ転がり込んできた、小さな命。
不器用なスープを「おいしい」と笑ってくれる存在。
ダリウスは洗面台の縁を掴んだ。指に力が入る。
胸の奥が、痛いくらい動いた。
*
次の日から、ダリウスは冒険者ギルドに通い始めた。
雑用でも、荷物持ちでも構わなかった。ミラのために、少しでも稼げるなら、それでいい。
久しぶりの戦闘。
身体は軋んだ。足も、肩も、昔のようには動かない。
それでも、血が指先まで戻ってくる。剣の柄が手に収まり、握るたびに生々しい感触が返ってきた。
生きている、と体が言っていた。
*
十年が過ぎた。
ダリウスは四十を超え、ミラは十六歳になった。明るく、少し天然な少女へ育った。
ある日、丘へ向かう道すがら、ミラがふいに立ち止まり、自分の右手をじっと見つめた。
「……あれ? なんか、ちょっとだけ力が入りづらい……気のせいかな?」
ダリウスは思わずその手を取る。
触れた指先は温かい。だが、温かさの奥に、うまく言えない違和感が残った。
「気のせいかも。ごめん、ごめん」
ミラはそう言って笑い、ぱっと手を離すと先へ駆け出していく。
ダリウスは手のひらを一度握り直した。指先に残った温度が、なかなか消えない。
ミラが丘の斜面を駆け上がりながら、振り返って大きく手を振った。
「ダリウス、早くー!」
「ぜ、ぜえ……! ま、待ってくれ……!」
ダリウスは足をもつれさせながら、必死に登ってくる。
ミラは首をかしげ、呟いた。
「ダリウス、いま……子ヤギが“初めてのお散歩”してる感じだったよ?」
「……っ!」
ダリウスは一瞬だけ胸を押さえたが、すぐ照れたように笑い返した。
「歳だよ歳……。」
ようやく追いつく。肩で息をしながら、ミラの横に並ぶ。
丘の向こうに広がっていたのは。
「……!」
「すごいっ! 花畑!」
ミラは両手を広げ、胸いっぱいに息を吸った。笑い声が高く弾み、足が勝手に前へ出る。
色とりどりの花が陽を受けて揺れ、草が擦れる音が帯になって流れていく。
ダリウスは立ち止まり、目を細めた。
胸の奥が熱くなり、口角が自然に上がる。
(……大げさじゃなくて、今日でいい。今日がいい)
ミラが笑いながら花を摘もうとした、その手が次の瞬間、白く硬く、音を立てて止まった。
「……冷たい」
その一言は、花を揺らしていた風だけが急に遠くした。
指先から手首へ、じわじわと白が広がっていく。花の色が急に遠く見え、足元の土の匂いすら薄くなる。
治療師の言葉が耳に落ちてきた。
「石化症。進行性です。あと五年……もてば良い方でしょう」
*
病院を出ても、景色が目に入ってこない。
石畳を踏む音だけが、二人の間に落ちる。一定の間隔で、淡々と。
しばらく歩いたところで、ミラがふいに足を止めた。
道端の小さな公園。錆びたブランコが二つ、夕暮れの中で揺れている。
「……乗ってもいい?」
ミラは顔を上げずに問う。
ダリウスが頷くと、ミラはぎこちない足取りでブランコに腰を下ろした。
ミラは笑っていた。
けれど、鎖を握る指先だけ、何度も握っては確かめるみたいに力が入っていた。
石になっていくのが怖いのか、まだ動くことを確認したいのか、ダリウスには分からなかった。
怖がっているのはミラの方なのに、その手を見ていると、自分の怠慢を突きつけられている気がした。
「ねぇ、ダリウス」
ミラは視線を宙に浮かせたまま、呟くように言った。
「石になっちゃったらさ……ダリウスのスープ、もう『熱い』って言えないのかな」
夕焼けが、固まりかけた横顔を赤く染める。
冗談の形をしているのに、声は軽くなかった。
ダリウスの喉がひくりと鳴る。
言葉を探して口を開き、閉じた。舌が動かない。息だけが漏れる。
やがてミラは、ゆっくりとブランコから降りた。
何事もなかったふりをして隣へ歩み寄り、いつもの調子を真似るように笑ってみせる。
「行こっか」
ミラは空を見上げて笑い、妙に饒舌で誤魔化そうとする。
その笑顔は十年前、公園で友達に誘われたときと同じ形をしていた。けれど、目の奥が揺れていた。
*
夕食。ランプの光が揺れ、家の中を照らす。
「ダリウス。スープ、熱くなかった?」
優しく問いかける声。
十年前、ダリウスが言ったあの言葉を、そっと返すように。
ダリウスはぎこちなく笑った。頬が引きつり、笑みが形にならない。
「……あぁ」
テーブルの木目をなぞる指が止まる。
ミラの手首だけが硬くなった。肩が小刻みに跳ね、息を吸う前に一度つかえる。
ランプの芯がぱち、と鳴った。
「……ねぇ、ダリウス」
「なんだ?」
「残り少ない時間……最後まで笑っていてほしいな」
空気が止まる。
ダリウスは思わず立ち止まり、うつむいた。喉仏が上下して止まり、息が鼻に引っかかった。
「ミラ……俺は……俺は……」
言おうとしても、言葉が喉で崩れ落ちた。
口角を上げようとして頬がつり、息が途中で詰まる。
「……笑って……ほしいのに……」
口角を持ち上げようとした瞬間、嗚咽が先に喉を裂いた。
笑顔の形だけが顔に残って、目だけがどうしても泣いていた。
そんなことすらできない自分が、たまらなく惨めだった。
ミラはその顔を見て、目を丸くした。
そして同じように涙を流しながら、くすりと笑った。
「……ダリウスは……笑顔が下手だね」
二人の影が夕陽に伸びる。間が空いて、また伸びる。泣き止む気配はないのに、足元だけは同じ場所に揃っていた。
*
翌日、ダリウスは街の図書館へ向かった。
古文書を漁り、地図を調べ、伝承を読み漁る。指が紙の端で黒くなるまでページを繰った。目が痛くなっても止めなかった。
そして、一つの記述に行き当たる。
五十年前に発見された“老齢の塔”。
齢三十五を超えし者のみが入ることを許され、塔の最奥に辿り着いた者には、いかなる病も癒す薬が授けられる。
五十年前の探検隊の記録にはそう記されていた。
ただ、その真偽を確かめた者は、まだ一人もいない。
ページを閉じ、ダリウスは立ち上がった。椅子が床を擦る。
胸の奥に残っていた震えを、足の裏で押さえつけるように一歩踏む。
「次は俺の番だ。ミラは俺が助ける」
(……一人じゃ無理だ。あの塔に挑むなら、誰かの力を借りるしかない)
老齢の塔に挑むには、仲間が必要だ。
脳裏をよぎるのは、かつて肩を並べて戦った魔法職の男の顔。老いぼれた今でも、あの一撃だけは誰にも真似できないと信じている。
痛風・老眼・息切れの中年パーティに、もう一人の中年が加わる。
ただし彼は、とある病で、魔導書の文字がほとんど見えていないのだった。