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月咲やまな
#赤ずきん
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昼下がりの陽光が、ダリウスの家の木窓をやわらかく照らしていた。
食事を終えたばかりのテーブルには、まだ温かいスープの香りが残っている。
その空気の中で、ダリウスだけが背筋を伸ばしていた。
「ミラ、話を聞いてほしい」
声は低い。掠れていないのに、重い。
ミラはスプーンを置き、首をかしげる。
「どうしたの、ダリウス?」
ダリウスは背もたれから身を離し、机に両手を置いた。指が木目を押す。
「——ダンジョンに、老齢の塔に挑もうと思う」
ミラの眉が落ちた。口元が結び直される。
「……それは、私のため? 危ないよ、そんなの……」
ダリウスは目を逸らさない。ミラの青い瞳を正面から受けた。
「いいんだ。俺はミラに救われた。だから今度は、俺が返す番だ」
ミラの視線が下がる。
金髪が肩から滑り、頬の線を隠した。
「ダリウス……私こそ、何も返せてないのに……」
スープの湯気が薄くなる。誰も器に触れない。
時計の針の音が、食卓の端で一つずつ鳴った。
やがてミラが顔を上げる。目が大きく開き、頬が上がった。
「——あっ!」
立ち上がる勢いで椅子が鳴る。ミラは胸を張った。
「じゃあ私もついて行くわ! それで解決ね!」
勝ち誇った笑み。頭の中で何かが噛み合った顔だ。
ダリウスは瞬きが遅れた。
「……ミラさんや」
声が柔らかくなる。叱るというより、熱を冷ます口調だった。
「老齢の塔は三十五歳以上じゃないと入れないんだよ」
ミラは引かない。
むしろ、そこからが本番と言わんばかりに前のめりになった。
「見てて!!まず塔を X と置き、ダリウスの年齢が Y だわ……
それから左辺の和を分解して……ここをこう……」
ミラは黒板にチョークを走らせる。粉がぱらぱら落ちた。
数字と文字と記号が跳ね、収拾がつかない。
Y>35 ⇒ X解放条件
Σ(冒険者年齢)/n ≥ 35
∵35≒π×10+5
√ミラ+ダリウス²=愛
ゆえに、入れる(確信)
ミラは真顔だった。瞳は濡れたみたいに光り、手元だけが忙しい。
最後にチョークを掲げる。
「——つまり!
パーティの平均値か中央値でも入れる可能性があるわ!」
沈黙。
ダリウスはこめかみを押さえ、額を指で擦った。首を振りながら、息が漏れる。笑い声になった。
ミラは一度言い出したら止まらない。
どうせパーティは必要だ。ならば、現実の方を先に詰める。
「ならまずは、あいつだな」
「え? あいつ?」
ミラが首を傾げる。
ダリウスは目尻だけがふっと緩み、視線が一瞬だけ遠くへ逃げた。
「あぁ。戦闘において魔法職は欠かせない。
それに——35歳以上で、腕の立つ魔法使いとなれば……」
ミラの顔がぱっと明るくなる。発想が先に走った。
「わかったわ!
マジカルおじさん を探すのね!!」
「いや、そんな呼び名では……」
ダリウスの制止は届かなかった。ミラはもう次の場面に立っていた。
*
北の国、セラフィム。
空は白く、昼でも薄暗い。屋根には雪が重くのしかかり、時折、塊が落ちて鈍い音を立てた。
軒先にはつららが連なり、潮の匂いが鼻を刺す。冷たい風の向こうに港が見えた。
ミラとダリウスは首にマフラーを巻き、凍った道を滑らないように歩いた。
足裏が慎重になる。歩幅が小さくなる。吐く息だけが白い。
三日間、聞き込みを続けた結果、目的の家が見つかった。
「すみません!
マジカルおじさんの家、知りませんか!?」
通りがかりの老人がぎょっとして立ち止まる。肩が跳ねた。
「マジ……カル……?」
困惑というより、混乱だった。老人の目の焦点が乱れる。
「はい! 実は——こうこうこうで……!」
ミラは前のめりになり、手を大きく動かして説明を始める。
老人は半歩後ずさる。額には汗。
ダリウスは後ろで苦笑し、深く頭を下げた。
「すみません、妙な呼び方をしてしまって……
魔法使いのエドガーという男を探しているんですが——」
老人は息を吐き、「ああ、あの家だ」と奥の細い道を指差した。
ミラはスキップし、雪を蹴り飛ばしながら走っていく。
ダリウスはその背中を追い、頬が緩むのを止められなかった。
「……さて、エドガー。元気にしてるといいんだが」
雪は降り続けていた。肩に積もり、払うたびに冷たさが残る。
*
雪に埋もれた古い家が、凍った風の中にぽつんと立っていた。
煙突から煙は上がっていない。窓は曇り、庭には足跡ひとつない。
ミラの足取りが遅くなり、ダリウスも無意識に声を落とした。
「ここ、か……?」
ダリウスは門を押した。ぎぃ、と重たい音が鳴る。
錆の匂いが立つ。
「エドガーー? エドガー、いるか?」
返事はない。
雪が屋根からどさっと落ちる音だけが響く。
しばらくして、玄関の扉がゆっくり開いた。
「……誰ですか? ——ダリウス、ですか?」
細い影が姿を現した。
茶色のまっすぐな長髪。顔色は悪く、頬がこけている。だが、目だけは鋭いままだった。
「久しいですね……どうぞ、中へ」
家の中は薄暗い。ランプの光が本棚に線を引く。
床から天井まで本、本、本。古い紙の匂いに、埃が混ざる。
膨大な量なのに、並びは妙に整っていた。背表紙の位置まで揃っている。
「……少し痩せたか?」
ダリウスの口が先に動いた。言ってから唇を噛む。
「本の代わりに食事を削ってるんですよ」
エドガーは口角だけ上げ、すぐ引っ込めた。視線が本棚へ逃げる。
ダリウスは老齢の塔のこと、ミラの病気のこと、仲間を集めていること。全部を話した。
言葉が途切れるたびに、ランプの芯が小さく鳴った。
エドガーは最後まで遮らずに聞いていた。
そして、ふっと笑う。
「馬鹿馬鹿しい。
私はもう45歳、あなたは40歳。
引退して何年経ってると思ってるんです?」
表情は崩れない。言葉は辛辣だ。
けれど声の奥が揺れた。笑いではない、別の呼吸が混ざっている。
「頼む。エドガー、お前の魔法が必要なんだ」
「私は……無理です。父もいますし」
ぶつかっては戻り、またぶつかる。
言い返すたびに、エドガーの指先が本の背をなぞり、強く押した。
不意に廊下で物音がした。
「飯は……まだかのう?」
ふらりと現れたのは、エドガーの父だった。
白髪は乱れ、目線は宙を泳ぎ、足元はおぼつかない。壁に手をつき、遅れて体がついてくる。
「父さん、さっき昼ご飯食べたでしょう?」
エドガーは微笑んだ。
慣れた調子で、声だけを柔らかくする。
目の下の影は濃いままだった。
老人はミラをじいっと見つめた。
数秒、口が開きっぱなしになる。
「婆さん……あの世から戻ってきたのか……?」
「私はバーさんじゃないわ。ミラさんよ」
ミラはきょとんとしながら口を半開きにして瞬きを二回し、それから首をこてんと傾けた。
エドガーは頭を抱えた。指が髪に食い込む。
それでも口元だけは、わずかに緩んでいた。
「……お願いです、帰っていただけませんか?」
エドガーは静かに言った。
声に棘はない。代わりに、疲れが平らに滲む。逃げ場のない静けさがそこにあった。
*
北の国セラフィム、港近くの小さな酒場。
夜の客足はまばらで、海風が時折ドアを揺らしていた。蝶番が鳴り、すぐ止む。
ダリウスとミラは温かいスープを前に、黙って座っていた。
カウンターではマスターがグラスを磨いている。布がガラスを擦る音が一定だった。
「……エドガー、いつからお父さんの介護を?」
ダリウスが低い声で言う。
「10年ほど前からだなぁ」
マスターは淡々と答えたが、語尾がわずかに落ちた。
「養老院に入れる案もあったらしい。
だがよ、エドガーは片親でな……
魔法大学まで育ててくれたのは父親一人だ」
マスターはグラスの曇りを丁寧に拭く。指先が止まらない。
「きっと……最後まで一緒にいたいんだろうよ」
ダリウスは手のひらで顔を覆った。唇が動きかけて、止まる。
息だけが鼻から出た。
「そうか……
俺は……エドガーに悪いことをしたな」
ミラはスプーンを置き、まっすぐダリウスを見る。背筋が伸びた。
「多分……違うよ」
「……ミラ?」
「だってね、家の中、魔導書だらけだったもん」
ミラは指で机をトントンと叩く。音が小さく跳ねる。
「冒険者を諦めたんなら、全部処分しちゃうと思うんだ」
ダリウスの手がスプーンの上で止まった。瞳が細くなる。
本棚の並びが蘇る。埃はあった。それでも、揃え直した跡があった。
諦めた人間の部屋ではなかった。
「……ミラ。お前……よく見てるな」
ダリウスは拳を作り、ほどく。肩を一度だけ回した。関節が鳴りそうで鳴らない。
「よし……
別のやり方で、もう一度行ってみるか」
「うん!」
ミラは嬉しそうに笑い、スープをすくった。
湯気がまた立つ。二人の間に、熱が戻った。
*
翌朝。
白い息が空に溶け、夜明け前の静けさをわずかに揺らした。
セラフィムの空は淡い橙に染まり、屋根の雪がきらきら反射している。
ダリウスは玄関前に立ち、扉を叩いた。
叩く前から口元に小さな笑みが浮かんでいた。
「また来たぞ。
——ちょっとダンジョンに散歩でもしないか?」
扉が開き、寝癖のついた髪のエドガーが顔を出す。
「……バカですかあなたは?」
呆れた声。だが視線が一瞬逃げた。まばたきが速い。
「それに父が——」
「私が看ておくよ!」
ミラが後ろから飛び出し、目をきらきら輝かせた。
胸を張り、ポケットからカードを取り出す。
「見て!
物忘れスタンプカードよ!
おじいさんがボケたタイミングでスタンプ押していくの!」
沈黙。
「な……何が大丈夫なんですか?」
エドガーは眉をひそめた。理解しようとして、脳が先に疲れている顔だ。
「い、いや……初級用ダンジョンに行くだけだ」
ダリウスが両手を前に出し、慌てて取りなす。
「あなたって人は……昔から……」
エドガーは口を開きかけて閉じた。言葉の跡だけが残る。
目の奥が微妙に揺れたままだった。
*
町を離れ、雪の積もる森へ入ると空気が変わった。
静けさが深く、足音がやけに大きい。踏みしめるたび雪が軋み、樹々の間を抜けた陽光が細く落ちる。
「久しぶりだな」
ダリウスの歩幅が勝手に速くなる。靴が雪を余計に削った。
体が前へ行きたがっている。
「俺が前で、お前が後ろだ」
「……怪我しても知りませんよ」
エドガーは無愛想に返した。
頬はほんのり赤く、声もわずかに弾む。
ダリウスは横目でエドガーの手元を見る。
「とか言ってさ……
さっきから魔導書、綺麗に拭いてたよな?」
「ほ、ほっておいてください!」
エドガーは耳まで赤くして、慌ててローブで顔を隠した。
二人の間の空気が少し緩む。
森の冷たさが頬を刺しても、それは崩れなかった。
*
ダンジョン一階層。
薄暗い通路に、湿った石と苔の匂いが漂っていた。
天井から水滴が落ちるたび、響きが静寂を揺らす。
その空気を裂くように。
「ガァァアッ!!」
ホブゴブリンが棍棒を振り下ろしてきた。筋肉が膨れ上がり、目は血走っている。
「っと——!」
ダリウスは地面を蹴って後方へバックステップ。
棍棒が着地した石床が砕け、粉塵が上がる。
吸うたび、喉がひりついた。冷たい空気が刺さる。
昔なら軽い動きで済んだはずなのに、今は全身を使って避ける。足首がきしむ。
(くそ……老いは正直だな)
それでも足は止まらない。
ホブゴブリンが再び突進してくる。
ダリウスは棍棒の軌道に剣を当て、腕で受け流す。衝撃が肩まで突き上げ、体勢が少しだけ崩れる。
「エドガー! 魔法を頼む!」
「わかりました!——三十秒待ってください!」
後方から張りのある声。
「あぁ頼むぜ……相棒!」
ダリウスは背中越しにニヤリと笑う。
棍棒の風切り音。足音。白い息。
受け流し、回避し、食い止める。とにかく間合いを切り、体力を残す。
ミスが一つ出れば、その場で終わる。
だが背後には、魔法使いがいる。背中の皮膚がそれを覚えている。
「エドガー! そろそろだな!!」
ダリウスが背後へ声を張った、その瞬間。
振り返った視界に入ったのは、地面に魔導書を広げ、這いつくばるように顔を近づけたり遠ざけたりしているエドガーの姿だった。
「……何してんだ、お前」
棍棒を剣で受け止めながら、声が悲鳴になる。
エドガーは堂々としていた。むしろ当然の顔で振り返る。
「老眼が進んでましてね。読みにくいんです。あと——四十秒頼みますよ」
「四十!?」
ダリウスは棍棒の直撃を避け損ねかけ、身をひねる。膝が笑う。
「待ってくれ! 俺の体力が!!」
エドガーは肩をすくめた。
「仕方ありませんね……秘策があります」
腰のポーチから何かを取り出す所作だけは、やたら丁寧だった。
出てきたのは、虫眼鏡。
ダリウスは思わず剣を落としかけ、握り直した。
「虫眼鏡!?」
エドガーは気にせず、魔導書の上に虫眼鏡を構えた。
そして、ゆっくり詠唱を始める。
「フ……ォォ……ル・イ……ンフェ……ルノ……」
発音は完璧。リズムも崩れない。
ただし遅い。腹立つほど遅い。
「エドガー!! 俺、もう……! ちょっと……!!」
「老眼の詠唱には、情緒があるんですよ」
ダリウスの視界が揺れる。息が上がる。腕が痺れ、剣が重い。
棍棒の一撃を受け流すたび、骨の内側が鈍く鳴った。
そして、ようやく最後の言葉が響いた。
「——《業火の抱擁》!」
「ダリウス、下がってください!」
反射で飛び退く。
直後、エドガーの足元から爆炎が立ち上がった。
轟音。
炎の奔流がホブゴブリンを包み、影が一気に崩れた。
硝煙と焦げた臭いが通路に広がる。
静けさが戻る。
ダリウスは剣を杖代わりにして息を整えた。唾を飲み込み、喉の痛みを押し下げる。
「……相変わらず、出力だけは桁違いだな」
エドガーは虫眼鏡を懐に戻し、淡々と言った。
「歳を取ると、無駄撃ちはできませんからね。狙った一撃で終わらせるんです」
ダリウスは笑った。
「ったく、お前らしいよ」
苔の匂いの奥、静まり返った通路に、二人の笑い声だけが残った。
*
この世界で魔法を行使するには、まず“原書”と呼ばれる古代の魔導書を写し取る必要がある。
原書は世界に数えるほどしか存在せず、その一冊一冊が魔力の源泉とされている。
魔法使いはそこから自らの魔導書へ文様を模写し、呪文の式を再構成して使う。
ただし、どんな天才でも写しは写しだ。筆のかすれ、インクの滲み、意識の乱れ。わずかな誤差が発動の威力を削ぐ。
模写の精度が八十を超える者は百人に一人。
九十を超える者は一国に数人。
そして。
百に届いた男がいる。
エドガー・フェルン。
人々は彼をこう呼ぶ。
《原書写しの魔法使い》
*
夕暮れの森。戦いの熱が引き、息が白くなる。雪の上を踏むたび、靴底が小さく軋んだ。
木々の隙間からこぼれる橙の光が、二人の影を長く伸ばしている。
ホブゴブリンとの戦闘を終え、帰路についた二人の間には静かな安堵があった。
風は冷たいのに、歩調だけは揃っている。
ダリウスがふと口を開く。
「変わってないな、お前。……虫眼鏡を除いて、だけどな」
エドガーの頬が一瞬だけ上がり、すぐ真面目な顔に戻った。
「当然です。模写も、魔法も、私のやり方は変わりません」
そう言いながら、横顔はどこか柔らかい。瞳が落ち着いている。
次に口を開いたのはエドガーだった。
「……ただやはり」
前を向いたまま、小さく呟く。
「ん?」
「“時間”ですよ」
エドガーは口元だけで笑った。自嘲の形だけが残る。
「魔法の威力は落ちていません。
原書の式も、頭の中では昔どおりに並ぶ。
でも——読めない。行を追うのに、昔の倍以上の時間がかかる」
ダリウスは口を挟まない。足音だけが続く。
「さっきのホブゴブリン、あなたが前で稼いでくれた時間を、私はほとんど“読解時間”に使いました」
「戦闘じゃなくて、読書にか?」
「そうですとも」
冗談の形をしていたが、声は乾いていた。
「ダンジョンは、あんな温い相手ばかりじゃない。
今の速度のままじゃ、詠唱が終わる前に——誰かが先に倒れます」
ダリウスは足元の雪を軽く蹴った。白い粉がふわりと舞う。
それを見送ってから、短く言う。
「それでも——撃てたろ」
「撃てましたね」
エドガーはあっさり認めた。
「撃てたからこそ、余計に始末が悪い。
“昔ほどじゃないけど、まだやれる”という錯覚を、老いは一番うまく作る」
ダリウスの喉が小さく鳴った。返事が出ない。
しばらく雪を踏む音だけが続く。
やがてエドガーが長く息を吐く。
「……だからこそ、簡単には返事できません」
「さっきの誘いか」
「ええ」
エドガーは足を止め、ようやくダリウスへ向き直った。
「父を置いて塔に行く、という覚悟だけじゃないんです。
“今の自分の速度で行く”という覚悟も、一緒に問われている」
瞳が揺れている。怖さと未練と、薄い高揚が混ざる。
「正直に言いましょう。今日、久しぶりに魔法を撃って——楽しかった。
体が覚えているラインに、まだギリギリ、指先が乗る感覚もあった」
ダリウスはうなずいた。喉のつかえが少し落ちる。
「でも、楽しいだけで踏み込める場所じゃありません、“ダンジョン”は」
エドガーは首を振る。小さく、確実に。
「さっきの一発、あれを何十層分も繰り返す……」
ダリウスは黙ったまま、呼吸を整える。
手袋の中で指を曲げ伸ばしした。
「……それで、答えは?」
エドガーは、ほんの少しだけ口元を緩め答える。
「一つだけはっきりしました。
“諦める理由”に父を使うのは、もうやめにしないといけない」
ダリウスのまばたきが止まる。
「じゃあ——」
「……自分の足をどちらに進めるか、
どちらにしても、今夜ひと晩ぐらいは、もがかせてください」
ダリウスはゆっくりうなずく。
「エドガー……あぁ、もちろんだ。時間はいくらでもある」
言葉は短い。だが背中の力が抜けない。
待つ、と決めた体の立ち方だった。
枝が擦れ、風が抜ける。
夕陽が森を染め、二人の背中が並ぶ。歩き出すまでの間が、妙に長かった。
そして、その夜。
エドガーの家で起こった出来事が、十年続いた介護と迷いの意味をまとめて塗り替える。
ダリウスが「時間はいくらでもある」と信じていた答えが、ひと晩で出てしまうとも知らずに。