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 この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
 
 「……こっちだよ」
そう言って走り出したあの少女の背中を、俺たちはなぜか追いかけていた。
 さっきまで青かった空も、少しずつ橙色に染まりつつある。
 イロハの故郷だという森の景色は、ただの荒れ果てた山みたいに、木々は倒れ、焦げ臭い匂いに包まれて、生命の気配すらない。本当にこんな森に、昔は妖精と人間が住んでいたなんて信じられない。
 いや、それよりーー。
 あの女の子が誰なのかも、何を目的にしているのかも分からない。
 「かーごーめーかーごーめー♪
籠の中の鳥は
いついつ、でーやぁる?」
 少女は歌を口ずさみながら、なにかに呼ばれるように、俺たちの眼前を歩く。
 黒く長い三つ編みが、歩く度にヒラヒラと揺れる。
その動きでさえ、どういえばいいか分からない。そう、’’軽くて’’違和感があった。
自分でもよく分からないけど、それ以外の表現方法がない。
 「……あの子、門の場所を知ってるみたい」
 イロハがぽつりとつぶやく。
 その声に、俺はハッとする。
たしかに、あのとき……。
 あの子は、何かを知ってる。
 でも、俺は信じてはいなかった。
あんなに無垢な顔で、まっすぐな声で言われても――
それが真実だとは、どうしても思えなかった。
 絶対に、なにか起こる。
別の理由がある。もっと裏がある。
だって、こんな不思議な展開は、 漫画とかだったら、大体「嘘でした」ってオチだし。
 ……それでも。
なぜか目を逸らせなかった。
見失ってはいけない気がしていた。
この背中を、追わなきゃいけない気がしていた。
 イロハも、無言のまま隣を走っている。さっきから、何度もちらりと彼女の横顔を見たけど、目はまっすぐ前を向いていて……でも、どこか思いつめたような、そんな顔をしていた。
 さっき、イロハは泣いていた。泣き声はなかった。けど、イロハのエメラルドのように綺麗な瞳から、涙が溢れ出ていた。
 イロハと一緒にいたはずのフユリは、そこにはいなかった。
 俺が最後にフユリの姿を見たのは、イロハとフユリが手を繋いで森の奥へと駆け抜けてゆく姿。
 俺は二人を追いかけた。フユリの足は速くて、追いつくのには時間がかかった。
 ……で、追いついたと思ったら、イロハが一人、剣を持って立ち尽くしてて、フユリの姿は無かった。
 ただ、イロハの周囲に蝶のような、何かよく分からない光る生物が、舞っていたのは覚えてる。
 そして、イロハは泣いた。
 ――フユリを喪ったその場に、どうして蝶が舞っていたのか。
あの蝶は、一体、なんだったのか。
 これは憶測だけど。イロハは、フユリを斬ったんだ。
きっと、なにか理由があって。何がなんでも斬らなきゃならない状況だったんだ。
 でもイロハは斬りたくなかっただろう。だって、仲が良さそうだった。初めて見た瞬間からそう確信した。イロハは友達を自分の手で殺めたことを責めているんだ。
 ……聞きたい。「何があったんだ?」って。でも、聞けない。
 そんなこと聞いたら、きっと辛いだろうから。傷つけてしまうから。だから、きっと。
 今は、何も言わない方がいい。知らないふりをした方が。
俺だったら、それを望むから。
 そのときだった。
 「……あれ、見てください。」
 イロハが立ち止まり、指さした先に――それはあった。
 木々の隙間、地面の奥。まるで空間ごと切り取られたかのように、そこには異質な’’門’’が浮かんでいた。黒曜石のような漆黒。歪んで見える縁。
 少女はそこで立ち止まり、俺たちの方へと振り向いた。
 踊るように、挑発するように、ゆっくりと。
 少女の眼が、俺を捉える。その瞳は、紅く、淡く、まるで血のようだった。
 俺の苦手な、残酷な色。
 少女は大きく目を見開き、悪魔のような笑みを浮かべ、白い手は、俺を指さした。
 そして、こう歌う。
 「後ろの正面、だぁれ?」
 それが耳に届いた瞬間だった。
頭の奥に、何かが――ひび割れたような痛みが、走った。
 「……っ……!」
 耳の奥で、風でもない、声でもない“何か”がざわめいている。低く、ぬめつくような音。まるで世界の法則そのものが、軋んでいるような。
 ーー『嫌だぁ……!助けてよ!見捨てないで……!』
 『どこ……?どこなの?お母さん!お母さん!!』
 ……声が聞こえる。顔は見えない。遠い、遠い記憶を見ているみたいな感覚だ。
 助けを求める声、痛みにもがく声。まるで雑音のように、俺の中にぬるりと入ってくる。
 『どうして助けてくれないの……!あんたのせいで……あんたのせいで……!!』
 『きっと森がこんなのになったのも、あいつのせいよ!!』
 姿は無い。言葉が頭の中に響くだけだし、言葉が俺に向けられて攻撃されているわけじゃない。
 きっとこれは、想い。この森にかつていた人が、誰かに向かって求めてる。
 ’’助けてくれないの?’’
 ’’どうして?’’
 ’’あなたのせい’’
 そう、言葉を浴びせるだけ。
 俺には関係ない。その’’誰か’’に、向けられている言葉。
 俺は、痛くも痒くもないはずなのに。
 なのに。
 「うるさい……!」
 多くの人々に囲まれて罵倒されている気分で。
 俺の中にある記憶が、えぐり出されて、似てるんだ。あの時と同じだ。なんなら、今もこうだ。
ずっと、囚われたままで、みんなみんな……俺が。
 胸の左側が、痛い。チクリと針を何本も刺されているみたい。
 これは……まるで籠の中に囚われた’’鳥’’だ。
 あぁ、なんだ、なんなんだよ。俺が何をしたって言うんだよ。
 ……知らないのに。俺は知らない。
 そう、これは違う。助けを求めてるんじゃない。
 憎んでるんだ、恨んでるんだ。だからこうして、頭の中で……。でもどうして、どうして俺を?
 俺は、’’誰か’’じゃないのに。
 痛みはじわじわと広がり、脳の輪郭をなぞるように脈打つ。視界がぐらつき、色がにじむ。
物の境界線でさえ、曖昧になってゆく。
 ……なんだ、これ……くる、しい。
 息がうまく吸えない。胸が、内側から押しつぶされるように苦しい。
 あ……れ、呼吸って、どうやって……。
 そして――足元がふっと抜け落ちた。
 ぐしゃ、と濡れた音を立てて、俺の手が地面を掴む。土の匂い。冷たい感触。けれど、それすらどこか遠く、現実味がなかった。
 なんだ……なんなんだ。俺に何が起きているんだ。
 周りの音でさえ、聞こえなくなっていく。
水の中で溺れている感覚に似てる。
 ああ……苦しい……。
 「……ーー。」
 「ーー!」
 ん……?何か……なにか聞こえる。誰かの……声?
 俺はゆっくり、顔を上げた。するとーー。
 「あのっ!!」
 震えた声が、ようやく俺の耳に伝わった。
イロハが、俺の背中に優しく手を当て、俺の顔を見つめていた。
 「聞こえますか、呼吸、一緒にしましょう。」
 ああ、イロハの声。なんだか、落ち着く。
 「吸って……吐いて……」
 俺は、イロハの掛け声に合わせて、ゆっくり、呼吸をした。
 イロハが、俺の背中を優しく撫でた。その手は、いつもと違って、少しだけ暖かい……。
懐かしい……昔、誰かに……こんな風に……。
 「……そうです。上手です。」
 呼吸が整ってきた。息が、出来る、苦しくない。
 「っ、……だいぶ、落ち着いて、来た。」
 「……大丈夫、ですか?」
 俺は顔に張りつけたような、偽りの笑みを浮かべた。
「……うん……大丈夫。」
 ああ、最悪だ。他人にこんな姿を見せるなんて。
俺は、俺のままでいたいのに。
 俺は息を整えながら、門のほうを見やった。視界はまだ揺れていたけど、それでも、あれだけははっきりと見えた。
 「それより、これが、“門”……?」
 俺が声を漏らすと、少女はにっこりと笑った。
口元は笑っていた。けれどその瞳は、獲物を捕えるように鋭く、ゾッとするほど不気味。
 俺は思わず息を呑んだ。
 「時が来れば、また会えるよ。その日まで――せいぜい、頑張ってね?」
 そう少女は言ったあと、少女の周りに、蝶のような、漆黒の羽根が舞い始め、その闇に呑まれるようにふわふわと、消えていく。
 「なっ……!」
 一瞬俺は、目の前の少女が神様かと、錯覚した。
 そんな馬鹿な考えが頭によぎる程、その少女が今目の前に立っていることが嘘のようだった。
 その時。
 イロハは少女を睨みつけた。そして、
 「あなた、何者なの?」
 と、尋ねた。
 この子は、’’恐れ’’という感覚がないのか?
 すると少女は、
 「未来の中心、ってところかな……。んふふ、教えるのはまだ早いよ。偽善者さん?」
 そう言って、少女は消えた。
俺たちの前に、不穏な空気を残して。
 「……なんだ、あいつ……」
 可笑しい。
まるで、人じゃないみたいな。
自分が世界の中心、とでも思っていそうな。ーー世界の全てを知っている。そんな空気が漂っていた。
俺はあいつを見たことがある。
一度、俺の目の前に現れて、俺に’’門’’という言葉を残していった。
俺たちがこの森に来るきっかけとなった存在。
 あいつはやっぱり、導いている。俺たちを。
 それにひとつ、気になることがある。
 偽善者。
 偽善者って……誰のことを言ったんだ?俺か?それとも……。
 俺はイロハの顔を見た。イロハは真っ直ぐ、目の前にある門を見つめていた。
 ……いや、まさか。イロハが偽善者だなんて。
 俺は首を左右に振り、ようやく、立ち上がった。
 ひとつ、大きなため息をついたあと。もう一度、イロハの顔を見下ろした。
 「……大丈夫?」
 「……ええ。それより、早く行きましょう。」
 「え、もう?心の準備が……。」
 イロハは俺を見上げた。見上げるだけで何も言わなかったけど、その瞳に覚悟が宿っていることだけは伝わった。
 俺は、少し沈黙の後。息を呑んだ。
 「……うん。行こうか。」
 そう言って、一歩踏み出した。
 「……どうすれば、門は開くのでしょうか」
 「うーん、普通に押せば開くんじゃない?」
 軽い気持ちで扉に触れてみる。
冷たい。撫でてみても、特に仕掛けはなさそうだ。
 その時、不意に――ふわり。
誰かの白い手が、俺の手に重なった。
 「ん?」
 横目をやると、イロハが俺の手にそっと触れて、上目づかいでこちらを見ていた。
 「開けます」
 その声とともに、門はゆっくりと音もなく開かれていく。
 ……と、同時に。
 門の奥から、想像を絶する烈風が吹きつけた。
冷たく、鋭く、皮膚を切り裂くような風。
足が地面から離れそうになる。
 「っ、風……つよ……!」
 「ええ」
 横目でイロハを覗き見ると、涼し気な顔でただぼーっと浮かんでいるだけだった。
長く白い髪がぐっちゃぐちゃに乱れるのを手で少し抑える以外は、何もせず。まるで当たり前のように存在している。
 おいおい、なんでお前は普通に立ってられるんだよ。やっぱり可笑しいって、この子……!
 風に煽られながら、俺は目を細めて門の奥を覗き込む。
 ――その瞬間、空気が変わった。
 音が、消えた。
鳥の声も、風のうなりも、木々のざわめきも――すべてが、無音に。
 まるで、時間そのものが停止したかのような、静寂。
 足元に広がるのは、見たことのない、灰色がかった草原。まるで、白黒の写真のような、色のない世界。
空は昼でも夜でもない、境界を失った“白”。そこに、時間の概念すら置き忘れられてしまったような気配が漂っていた。
 そして空間を漂う、ふわふわとした光の粒。
あれは……なんだ?
 「なんだよ、これ……。」
 「これが、入口。……あ。」
 イロハが、何かに吸い寄せられるように、足を動かす。何かを思い出したような、そんな幼い目で。
 「どうしたんだよ、イロハさん。」
 「この景色、私一度訪れたことが、あります。」
 「え?」
 訪れたことあるって……イロハこの前まで「門なんてものは知らない。」って言ってたのに。
 イロハは空を、じっと見上げる。
その目に映るのは、かつての記憶――否、忘れていた光景か。
 「わぁ……。」
 「……ハハッ。ほんと、なんなんだよ。急に子どもみたいな顔してさ。」
 あまりに無邪気なその横顔に、思わず笑みがこぼれた。
 そして、訪れる静寂。
 俺はようやく、さっきから気になっている’’あれ’’について訪ねてみる。
 「……あのさ、気になってることがあるんだけど。」
 「どうしましたか?」
 「さっきから浮いてる光の粒……あれ、何?」
 俺が指さす方向をなぞる様にイロハは視線を動かす。
 その瞬間、イロハの表情が凍りついた。
 ん?あれ?
俺なんか、マズイこと言った?
 そして、動きが完全に停止する。目を伏せて、剣の鍔(つば)を撫でる。
 無音、何も無い。気まずい空気が漂う。
 イロハはようやく、口を開いた。
 「あれは、人の’’魂’’。私、少し思い出しました。この門は一度お母様と訪れた。その時もこのように、眠った人の魂が浮いていました。でも。」
 イロハはそこで言葉を止め、ゆっくりと顔を上げた。 その視線が俺を射抜くようにまっすぐ向けられる。
 「人の魂は普通、私を含め、観測者にしか見えないものなのです。なのに。」
 イロハの言葉が、冷たい水のように胸に染みた。
 ……観測者にしか、見えない。
 「……俺、見えてる?」
 「はい、可笑しいです。」
 え……?ちょっと待ってよ。どういうこと?なんで俺は見えてんの?観測者じゃないのに。
 ️でも俺は、四月一日(わたぬき)さんにいずれ『選ばれてしまう。』って言われてた。つまり、俺は今、選ばれた……ってこと?
 「なんでだよ……?なんで俺は選ばれたの?」
 でも、目の前にあるこの景色が、そのすべてを否応なく証明していた。
 「私のせい、ですね。」
 「?」
 イロハは痛みの滲む声色で、そう呟いたあと、足を動かし始めた。
俺もその後を追うように、足を踏み出した。
 くしゃ、くしゃ、と。草を踏みつぶす音だけが、俺の耳に届く。
 風も吹かない、ただ、魂が宙を浮いている。
 それにしても、何も起きない。魂が浮いてる以外は、なんにも……。
 いや、なんにも起きない方が、いいんだけど……。
 俺が茫然と景色を眺めていると――不意に、イロハは呟いた。
 「観測、機関。私は、何かを。」
 記憶を辿るように、おぼつかない声だった。
 ああ、この子も観測機関の事知ってたんだ。
 「観測機関が、どうした?」
 そう尋ねるとイロハは、小さく口を開けたまま、黙り込んでしまった。
 「?」
 イロハは言い訳でも探すように、視線を俺に合わせないように動かした。そして。
 「どうして、観測機関を知っているんですか?……あの組織は、普通の人は知らないはず。」
 「ああ、四月一日さんに聞いたんだよ。あの人、元々観測機関の人だったって。」
 「……そう。あの観測者たちの……。」
 そう言ってイロハは黙り込んでしまった。
また、なにか良くないことでも言っちゃったか?
そのまま、無言で歩いていると。
 「あ。」
 遠い遠い景色から、微かに水の流れる音が聞こえてくる。目を細めて睨んでみると、大きな川と、橋が霧の間から少しずつ輪郭を表してくる。
「なにか、聞こえる。」
 俺は、その川の方へと足を踏み出そうとした。
 そのときだった。
 イロハの剣が、微かに震え、淡く、淡く光り始めた。
 「……え?」
 振り返ると、イロハの顔もまた、ほんの少しだけ強張っている。
 「なに?」
 その光は、彼女の手元から、空間全体に染み出すように広がっていき――
 気づけば、草原は淡い光に包まれて、優しいそよ風が吹き始めた。
 イロハの剣は、白い羽織に覆われていつもは見えないが、今は羽織が風に吹かれて、その姿があらわになっている。
 爽やかな、風の感覚。微かに香る、花の匂い。
 ガラスのように光る粒子はやがて、地面に着地する前に溶けて消える。
 そして。
 「……それ以上、行ってはダメよ。」
 その声が聞こえた瞬間、風が止み、光も収まった。
 その声は、あまりにも懐かしくて、冷たくて、優しくて――
 俺がほんの一瞬目を閉じ、開けた時。
目の前に立っていたのは、一人の女性だった。
いや、立っていると言うより、浮いている。
下半身が透けている。
イロハと同じ、白い羽織。桃色を基調とした着物。 彼女の銀白の髪は風に揺れ、紫の瞳はまっすぐイロハを見つめている。
 「久しぶり。イロハ。」
 ーーその女性は、イロハにそっくりだった。
 「……おかあ、さま?」
 イロハの声は、震えていた。イロハがお母様と呼ぶその女性は、静かに微笑んだ。
 「前にも言ったでしょう?この異界の川の近くには行ってはダメだと。行っては最後ーー。」
 「生者には戻れない。そうですよね?」
 イロハが女性の言葉を遮るように言った。
 俺は、その光景が信じられなかった。
イロハは冷静に言葉を交わしているのに、俺はただ立ち尽くすだけ。
現実を理解しようとする脳が、まるで働いてくれない。
 ……今、起きていることは夢?
うん、だってイロハのお母さんは、イロハの剣に魂を封じ込められているはずだ。
今ここで会話なんて、できるはずがない。きっと、夢だ。
 ――いや、待てよ?
今いるのは「死後の世界の入口」。
死んだ人が姿を現しても、別におかしくはないのかもしれない。
 そんな考えを何度繰り返して、答えを探しても、靄の中に手を伸ばすような感覚だった。
 「お母様の魂は、今この剣の中のはず。どうして人の姿で私たちの目の前にいるの?」
 イロハがまるで俺の心でも呼んだかのように、女性に尋ねる。
 すると女性は、腕を組み、右手を顎に当てて回答に困るような仕草を見せた。うーん、と唸り声を漏らしながら、こう答えた。
 「……あなたを止めないといけなかった。その想いが、この姿を形作ったのでしょうね。」
 と、ほわほわとした声色でゆっくり語るその姿に、俺はこの人がイロハの母親だと言うことを信じることが出来ない。脳が拒絶してるみたいだ。
 「それより、私の方から質問しても良いかしら。」
 「……はい。」
 「どうして、こんな子供と一緒にいるの?」
 女性はそう言いながら、俺の方を指さして、横目で俺を睨んだ。冷たくて、全てを知られてしまいそうなその瞳に、思わず背筋が凍った。
 「え……?俺?」
 俺はつい、自分で自分を指さした。この時の俺の顔がどんな顔かは知るこっちゃないが、多分馬鹿な顔をしているんだろう。
 「……どうして?」
 イロハはただ立ち尽くして、その問いに答えようとはしなかった。きっと自分でも、分からないんだろう。
 俺は思い返す。あの日、初めて会った日のこと。自分がこの子の後ろをついて行っているのは、自分の意思だ。俺がこの世を知りたい、ミヨが死んだ原因でもある、この世界の歪みを。だから、イロハについて行ってもいいか尋ねたんだ。
 そしたらイロハはほほ笑み浮かべて、
 『ええ、あなたが望むなら。』
 と言ってくれた。だから俺はついて行った。
 でも、その道が正解だったのかは、分からない。
 女性は半ば呆れたように、息を吐いた。
 ため息ひとつ漏らす音が、空気を裂いた。
 「別にこの人といるのがダメとは言っていないわ。ただ、あなたについて行ったことによって、この人は今巻き込まれているのよ。」
 イロハは顔を伏せて、小さく、
「ごめんなさい」と言った。
その声はどこまでも、贖罪の色が滲んでいて。
 俺はその様子に耐えられなかった。そもそも今俺が『選ばれし者』とか、そんな意味不明なことになったのは、俺がこの道を望んだからであって、
イロハのせいでは無いのだ。
 なのに今、どうしてそんな風に謝るんだ。前もそうだったじゃないか。突然謝って、一人で悩んでいる。そんなのは、俺は。望んでない。
 ……怖かった。でも、黙っている方がもっと嫌だった。だから俺は口を開いた。
 「あの。」
 イロハのお母さんの顔が、こちらに向けられる。同時に、イロハも顔を見上げてこちらを見つめている。
 「別に、謝られる理由なんてないよ。あの日、俺は自分で決めたんだ。……君と行くって。 だから……そんな顔、しないでくれ。」
 言葉にするまで、こんなにも心が渇いていたなんて気づかなかった。
ずっと胸の奥でひっかかっていた棘が、やっと、少しだけ抜けた気がした。
 俺は、イロハに近寄った。そして、柴犬でも撫でるかのように、イロハの頭をくしゃくしゃにして見せた。
「……ふぇ?」
 イロハのぽかんとした顔に、俺は思わず笑ってしまった。
いろんなことがあったけど、今この瞬間だけは、何もかもがどうでもよくなって。
くしゃくしゃになったイロハの髪を見ながら、ようやく、心のどこかが少しだけ温かくなるのを感じた。
 その空気の中で、イロハのお母さんはじっとこちらを見ていた。
鋭い視線だったはずなのに、どこかでその鋭さが、ほんのわずかに、和らいでいるようにも見えた。
 「……ずいぶん、変わったのね。イロハ。」
 ぽつりと漏れたその声には、責めも、嘆きもない。
むしろ、遠い誰かを思い出すような、淡く滲んだ響きだった。
 イロハは驚いたように顔を上げる。
だけど、お母さんはそれ以上何も言わずに、ふっと背を向けた。
 「責任なんて、最初から誰にも負えないわ。
ただ──選んだことに覚悟を持つこと。それだけよ。」
 「……覚悟。」
 俺が小さく呟いた言葉に、背を向けたままの彼女が、再び口を開く。
 「あなたに、覚悟はあるの? 篠塚レン。」
 静かな声が、俺の名前をはっきりと呼んだ。
 「あなたの中にある“喪失”という感情から抜け出して……それでもなお、人々を守るという意志が、本当にあるのかしら。」
 胸の奥が、ぐっと締めつけられる。
“喪失”──その言葉が、心の一番痛む場所に触れた。
 家族を失った記憶。
それを受け入れろというのか。
過去の後悔と決別しろと。
それが“覚悟”だと──?
 「それは……」
 言葉が詰まる。
どうしても、すぐには答えが出なかった。
 彼女は黙ったまま、静かにこちらを見つめていた。
 そして、口を開いた。俺の鼓動が速くなる。何を言われるか。怖い。存在ごと否定されてしまいそうな予感がする。
 「あなたたちは罪を知ったとき、選ばなければならないわ──赦すのか、逃げるのか」
 予想の斜め上の言葉に、俺は小さく口を開けてしまった。
 「……え?」
 イロハは拳を握りしめ、お母さんに言った。
 「罪とは何?この人と旅を始めたこと?それともーー。」
 「違うわ。」
 イロハのお母さんは、言葉を遮るように、圧のある視線を俺たちに向けた。
 そして、深呼吸をした。
 「罪って、そんな単純なものじゃないわ。」
 「それでは、なんですか?」
 イロハのお母さんは、ひとつ、悪戯な笑みを浮かべた。
 「それを、あなたたちが見つけるんでしょう?」
 「っ……。」
 そのとき。
 母の姿が、光の粒と共に少しずつ輪郭を失ってゆく。
 それなのに当の本人は
「あら。もう時間かしら。」と、心に余裕があるみたいで。
 「そうね、最後にひとつ。」
「?」
「街に行きなさい。今、黒い影が迫っている。
篠塚レン──あなたも、イロハと共にそれを止めるの。 想いが届けば、きっと剣は応える。あなたの力も、目覚めるはずよ。」
 「……は?」
 「……私は行くわ。さよなら、私の“誇り”。」
 それだけを告げて、イロハの母は微笑んだ。
やがて、光の粒に包まれながら、静かにその輪郭を溶かしていった。
まるで、春の雪が静かに消えるように──。
 俺たちは顔を見合わせ、小さく頷き合った。
 「行こう。街に……黒い影が来る前に。」
 「はい。」
 森の出口に向かって、俺たちは駆け出した。
街に着く頃には、もう夜だった。
空を見上げれば、月は半分ほど欠けていて、まるでこれから起こることを予告しているように見えた。
一体俺たちは、どれだけの時間を森に費やしたんだろう。
 街はいつも通り、人工の灯りに溢れていた。
ビルが立ち並び、横断歩道には仕事帰りと思しきスーツ姿の男性や、手を繋いで歩く親子の姿がある。
その光景は、何も変わらない日常を映しているはずなのに――どこか遠い世界に見えた。
 俺は無意識に、ぽつりと言葉を漏らす。
「……いつも、通り。」
 隣に立つイロハは、剣の持ち手に手を添えていた。
いつ何が起きても対応できるように――まるで、この平穏を信用していないかのように。
 「世界は平和に見えて、実は平和ではないのです。未来は日に日に歪んでいます。だから、人は消えてゆく。……フユリも。」
 「どうして、歪みができるんだろうな。その隙間に何かを埋めれば……無くなったりしないかな。」
 「それが出来れば、苦労はしません。」
 俺はイロハの方を見た。彼女は相変わらず無表情で、その青緑色の眼は、妙に光って見えた。
 そして、また月へと視線を移す。真っ黒な闇の中、静かに光を放つ月。
「未来、なぁ……」
 手が届きそうな錯覚に駆られて、空に手を伸ばした。
その瞬間、視界の端に奇妙な揺らめきが生まれる。
 ――光、だ。
 くにゃくにゃと曲がった、数え切れないほどの光の線。
白銀にも似たその輝きは、夜の闇を押しのけるように浮かび、次の瞬間には俺の周囲をゆっくりと旋回し始めた。
空気がひやりと冷たくなり、遠くで耳鳴りのような音がかすかに響く。
まるで、「選べ」と命令するかのように。
 ふと隣を見ると、イロハが息をのんでこちらを見ていた。
「……複数の未来の選択肢……?やはりあなたはーー。」
 「え、なにそれ……」
 口にした瞬間だった。
光の線の奥――闇の中から、小さな声が漏れた。
 『……たすけて……ッ!』
 「!」
 耳に届いたのは、女性のかすれた悲鳴。
次の瞬間、遠くの路地の方角から、同じ声がはっきりと響く。
 「行きますよ!」
イロハの瞳が鋭く光る。
「話している場合ではありません!」
街の喧騒から少し外れた細い路地の奥から、かすかな悲鳴が聞こえた。
レンとイロハはその声に導かれるように、足早に進んでいく。路地の影に隠れた建物の合間から、不気味な黒い影が立ちはだかっていた。
 骨のように細く長い腕。霧のように形を変える体。
まさに虚霊──この世ならざる存在。
 虚霊はうめき声を漏らしながら、路地の奥で膝をつき震える女性をじっと見据えていた。女性の表情は恐怖と絶望に支配されている。
 イロハは剣の柄に手をかけ、レンを一瞥する。
 「大丈夫。できるだけ早く終わらせます。」
 その声は短く鋭く、迷いを断ち切るようだった。
月明かりに照らされ、抜き放たれた刃が金色の光を放つ。虚霊の視線がゆっくりとイロハに移った瞬間、霧のような体が不気味にくねり、攻撃の気配を放つ。
 レンの視界の端で、白く揺れる無数の光の糸がまた現れる。
しかし現実の虚霊との落差に、体は動かない。
 「鎮魂剣・月煌──桜花の舞。」
 イロハの剣が夜を裂く。筆が和紙を走るような音。舞い散る薄紅の花びらの幻影。
流れる一閃ごとに虚霊の体は切り裂かれ、桜色の軌跡が夜気を染める。最後の一太刀とともに、刻まれた傷が一斉に裂け、黒い影は霧散した。
 「……終わり。」
 イロハは息を整え、剣を下ろす。
レンは女性に駆け寄り、手を差し伸べた。
 「大丈夫ですか?」
 「は、はい……」
 女性が震える手を伸ばしかけた、その時──。
 ……静寂。
 ゔぁぁあ……。
背後から、耳に焼き付いたはずの呻き声が蘇る。
 イロハは声のする方へと顔を向ける。その方向はレンと女性がいる所。二人は手を取り合おうとしている最中。
 その背後には──。
 「っ、後ろっ!避けて!」
 イロハの叫びにレンが振り返る。
 そこには──先程消えたはずの虚霊が、傷ひとつない姿で立っていた。
 「!!」
 細い腕が風を切る。レンは咄嗟に女性を突き飛ばし、その一撃をかわす。しかし避けきれなかった衝撃で路地の壁が砕け、粉塵が舞い上がった。
 イロハが再び構え、斬りかかる。
 「今、ここで消えて。」
 刃が闇を裂くたび、虚霊の体は霧散する──はずだった。
だが、その霧が縫い直されるように再生し、更に斬る度に一体増えていく。
 「くっ……!」
 二体、四体、六体──。
まるで斬撃そのものを糧にしているかのように、影は膨れあがる。
 レンはただその光景を見つめるしかなかった。胸の奥で、焦りが爆発しそうに膨らんでいく。
 ーーこのまま、眺めてるだけだなんて……。
 脳裏に焼き付いた光景が蘇る。
暗い夜道、妹ミヨの手を取れなかったあの瞬間。必死で呼びかけても、影の中に消えていく背中。何もできなかった自分。
 その記憶と今の光景が重なる。
また、大切な人を──。
 だがその間も、虚霊の分裂は止まらない。
一体を斬れば、その切れ目からもう二体、三体と霧が立ち上がり、断末魔を上げる。
 「ゔあぁぁぁぁあ!!」
 イロハは舞うように剣を振るい続けるが、数の圧力が少しずつ彼女の動きを奪っていく。
肩で息をし、呼吸が荒くなっていくのが遠目にもわかる。
 「……こんなこと、今まで無かったのに……!」
 一瞬、黒い爪が彼女の頬をかすめ、細い切り傷が赤く滲む。
 「いっ……!」
 それを見た瞬間、レンの心臓が跳ねた。
視界が揺れ、白い光の糸が再び現れる。
糸は虚霊とイロハ、そして自分を結び、未来の断片を映し出す。
 ──倒れ伏すイロハ。伸ばされた虚霊の腕。地に落ちる赤。
 「……!?なんだよ……これ!」
 未来か、幻覚か、それとも──。
音が遠のき、世界の色が褪せていく。
残っているのは光の糸の白と、胸を締めつける衝動だけ。
 彼の胸の奥で何かが裂ける。
恐怖は消えてはいない──だが、それ以上に守りたい想いが溢れていた。
『今、選ばなきゃ……イロハが──』
 その刹那、足元から光が噴き上がる。
無数の糸が束ねられ、渦を巻きながら形を成す。眩い光が凝縮し、やがてそれは細身の剣へと変わった。
 「え……?」
 レンはその柄を握りしめる。
温もりと同時に、胸の奥に流れ込む確かな力。
今度こそ、離さない──。
 
 レンの手に握られた光の剣は、まるで呼吸をしているかのように脈打っていた。
柄から伝わる鼓動が、彼の心臓と同じリズムを刻む。
恐怖は消えていない。だが、その奥に燃える衝動がすべてを上書きする。
 「……どいて!」
 虚霊が再び腕を振り上げ、鋭い爪が夜気を切り裂く。
レンは地を蹴った。身体が軽い──いや、糸で引かれるように、自然に動いている。
 彼は運動は得意な方では無いはずだがーー。
 刃が虚霊の腕をかすめる。霧の体から光の火花が散った。
 「……っ!」
 イロハが驚きの声を漏らす間もなく、虚霊の群れがレンへと迫る。
四方八方から伸びる黒い腕。
しかし彼の視界には、無数の白い糸が交差していた。
それらは虚霊の動きを先に描き、進むべき道筋を示している。
 見える……全部……!
 レンは糸の示す通りに踏み込み、すれ違いざまに一体を貫く。
光の刃が虚霊の胸を裂き、黒い霧は断末魔を上げて消えた。
 「!?……その剣!」
 彼女の声を背に、レンは次の虚霊に飛び掛る。
 踏み込みと同時に剣を横薙ぎ──霧を断つ感触と共に、影は消える。
 足場を蹴り返し、振り向きざまに背後の一体を突き、続く一体の攻撃を滑るように避ける。
全て、糸が教えてくれていた。
 残り二体。
 イロハも負けじと、剣を握りかえした。
 「私も、動かなければ……。」
 ふわり、と地面を踏み跳躍した。
そして一体の虚霊に急接近し、虚霊の腹部に剣を突き刺した。
 彼女は考えたのだ。斬って増えるのなら、刺して動きを封じれば良い、と。
 イロハはレンの方に視線を送った。
 ーー今のうちに斬って。
 ーー言われなくとも!
 二人は言葉を交わさずとも、視線で何を求め、何をすべきかは理解していた。
 「うああああっ!」
 レンの渾身の突きが、最後の二体の虚霊の頭部を貫き、光が爆ぜる。
 ぐあああぁぁぁ!!
 虚霊は叫び声を上げる。空気が揺れ、地面が地震のように上下左右に呻く。
 そして、 霧が夜風に溶け、静寂が戻った。
 レンは肩で息をしながら剣を見下ろす。
その刃は淡く輝き、まるで「まだ終わりじゃない」と告げているかのようだった。
 「……助かった。」
 彼の声には安堵と驚きが混じっていた。
レンは剣を握り締めたまま、虚霊が消えた空間を見つめる。
 この力が……もしあの時もあれば……
 彼の中にある後悔は今も尚、消えてはいなかった。
 そして不意に、すぅ……と光をおびながら、剣は消えてゆく。
 「あ……。」
 霧が完全に晴れ、路地は月明かりと静寂に包まれた。
レンの手の中で輝いていた剣が、ゆっくりと光を薄め、やがて粒子になって空へ溶けていく。
残ったのは、冷たい夜気と、まだ速いままの鼓動だけ。
 「……今の、何ですか?」
 イロハが静かに問いかける。
その眼差しは鋭いが、責める色はない。ただ純粋な疑問と、少しの驚きが宿っていた。
 「わからない……ただ……気づいたら、この剣が……」
 レンは空を見上げながら答えた。
言葉を探すように途切れ途切れになる。
さっきの感覚──糸が見えて、体が勝手に動いて、虚霊を倒せたあの瞬間。
まるで自分じゃない何かが、背中を押してくれたような感覚が残っている。
 イロハはレンの腕や顔に怪我がないか確かめながら、少しだけ口元を緩めた。
 「……助けてもらったのは事実です。ありがとうございます。」
 レンは小さく息をつき、視線を路地の奥にやった。
震えていた女性は、まだ壁際で座り込んでいる。
彼はそっと手を差し伸べ、安心させるように笑った。
 「もう安心してください。」
 「あなた達は、一体……。」
 「え、えっと〜」
 大変面倒だ。
ただの一般人であるこの女性に、’’虚霊と言う奴がなんやかんや’’と説明したところで、余計頭を混線させるだけだ。
 レンは頭の中にある自身の知識を探し探して、咄嗟に口を開く。
 「えっと、ただのコスプレイヤーでして!剣を持ってキャラの真似するの好きなんですよ、あはは……。」
 「?私たちはそんなやつじゃーー。」
 「ちょっと静かに?」
 彼の言葉が理解できないイロハは、首を傾げて正直に自己紹介をしようとしたが、レンは彼女の口元に人差し指を立てて遮った。
 レンはなんとも見苦しい嘘をつくが、女性もイロハも、目が点になってしまった。
 「と、とにかく、警察にはこのこと言わないでくださいね。後がめんどくさいので。」
 「は、はぁ〜……。」
 と、呆れたように両眼を瞬かせた女性は、そのままちょこんと一例をしたあと、歩き出し、やがて街の灯に消えた。
 レンはその後ろ姿を見ながら、ひとつ考えていた。
 ……これが、俺の力?
なら、過去は守れなくとも、’’今’’は守れるかもしれない。その覚悟が、あるなら。
 胸の奥で、何かが静かに燃え始めていた。
 路地の奥に漂っていた霧は、完全に消え去っていた。
 夜風が吹き抜け、粉塵を運び去る。まるでさっきまでの惨劇が幻だったかのように、街の灯りが遠くで瞬いていた。
 イロハは剣を鞘に納め、レンに向き直る。
「……先程の剣、もう一度出せますか?」
「いや……わからない。あれは……勝手に……」
言葉を探すレンの手は、まだかすかに震えていた。
恐怖か、興奮か、自分でも判別がつかない。
 イロハは小さく頷き、少しだけ視線を落とす。
 「お母様は、’’想いが届けば、剣は応える’’と言いました。あなたが何かを願う時のみ、あの剣は出現するのかも知れません。あなたはやはり、選ばれし者」
 「いや、俺は観測者っていう言葉のも、この世界が歪む理由さえ詳しくは知らないんだけどな。」
 と、レンは冷や汗が伝う頬を黒い上着の袖で拭きながら、イロハのことを見下ろした。
 「……ごめんなさい。」
 イロハは突然、そう呟いた。
レンは目を丸くし、そして綻んだ。
 「だ〜か〜ら、謝るなよ。」
 「でもあなたはこれから、沢山苦しむことになる。いっその事、私といるのはやめた方が。」
 レンは一瞬、凍りついた。両眼をゆっくり閉じ、開く。
 目を細め、今度は呆れを孕んだ綻びを見せた。
 「いや、俺はついて行くさ。それがたとえ、死に続く道だとしても。」
 「どうして?」
 イロハが問うと、レンは口元を押えて、目線を逸らした。
 「……笑わない?」
 「はい。」
 イロハは真剣な眼差しでそう答えると、レンは赤く染まった顔を左手で覆いながら、答えた。
 「ちょっと雰囲気が、ミヨに似てるから、どうしても守りたく……なる。」
 と、もごもご自信なさげに答える彼を見て、イロハは無意識に「ふふっ」と、笑い声を漏らしてしまっていた。
 微笑の声が漏れてしまったその時、イロハは口元を慌てて手で抑えた。
 「あ……。」
 「もう。」
 二人は先程までの喧騒が嘘のように、小さな綻びに包まれながら路地を抜け、街の光の中へと歩み出した。
虚霊が、再び呻き声を上げることはなかった──少なくとも、今夜は。
第七の月夜「月下の眠り」へ続く。