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六月上旬。退院してから一カ月が経とうとしていた。
実家で過ごしている為、園香の生活は平穏そのものだ。
怪我も順調に回復しており、松葉杖なしで歩けるようになっているが、記憶は相変わらず戻っていない。
夫の瑞記からは定期的に連絡が来る。
園香からも週に三回くらいはメッセージを送っていた。内容は近況報告のようなもので、深いものではない。
それでも上っ面のメッセージさえ送らなくなったら瑞記との縁が切れてしまいそうな気がして、作業的に送っていた。
瑞記の方も同じような感覚なのだろう。
いかにも社交辞令といった文面は読んでも全然楽しくなくて、恋愛をしているときの心が弾むような想いや、切なさは何もない。
ただ彼の動向はある程度把握することが出来た。
瑞記は相変わらず忙しくしているようで、先日も希咲と九州まで出張に行ったそうだ。
なんでもクライアントの紹介で、向こうの会社の商品パッケージを手掛けることになったのだとか。
張り切っている様子が伝わって来た。
園香に名木沢希咲を紹介したことで、瑞記の行動は堂々としたものになっていた。
希咲とふたりで出張に行くということも園香に遠慮せず報告して来るが、ふたりで行動する時間があまりに多い。正直言ってもやもやしている。
けれど瑞記にいちいちその気持ちを伝えることはしなくなった。
園香と瑞記は価値観がかなり違う。だから園香が不快に感じる気持ちを彼は簡単に理解してくれない。
問い詰めるのは夫婦仲が悪くなるだけだと学習したのだ。
(それに名木沢さんは結婚していると言っていたし、間違いを起こしたりはしないでしょう)
瑞記と彼女の関係は傍から見ると近すぎるように感じるが、さすがに不倫関係まではいかないと思っている。
(あんなに立派な夫がいるんだもの)
瑞記と気が合い仲良くしていても、一線は超えないはず。
実家に戻ってから、園香は希咲の夫だと言う、KAGURAのCEOについて調べてみた。
彼は有名人なので、ネットで検索すると情報は簡単に集まった。
名木沢清隆(なぎさわきよたか)、三十五歳
母親が神楽財閥創業者の孫で、父親とふたりの兄は神楽グループ企業の役職に就いている。
清隆本人は大学を卒業後二年程海外留学をして、帰国後に当時神楽グループでは遅れを取っていたロボット産業に関心を持ち就職。積極的に人材引き抜きなどの組織改革を行い、KAGURAを瞬く間に成長させた。
インターネット上で調べられる情報を見る限り、希咲の夫は非常に有能なエリートだ。
神楽財閥の一族なら政略結婚だったのかと思ったが、結婚についてはプライベートな内容だからか、既婚とだけ記されていて希咲についての詳細は一切ない。彼女の生い立ちは不明だった。
(名木沢清隆さんか……彼は妻が瑞記と常に一緒にいる現状が嫌じゃないのかな)
希咲が自由に行動しているところから、問題にはなっていないようだが、園香にはそれが疑問だった。
(かなり家庭を蔑ろにしていそうなのに……私と違って器が大きい人で、妻の自由を認めているのかな)
ネットで見つけた写真を眺めながら、園香は頬杖を突いた。
名木沢清隆は写真で見ても驚くくらい眉目秀麗な人物だった。
ビジネスマンにしてはラフな雰囲気のショートヘア。前髪は自然に流して形のよい額を見せている。小さな顔に、きりりとした眉とやや目じりが上がった目。すっきり通った鼻筋に薄めの唇が収まっている。
経歴と肩書、そして容姿。どれをとっても完璧に思える男性だ。
性格を知る術はないけれど、きっと自信に溢れた堂々としたタイプだろう。それだけの実績があるのだから。
希咲の夫の想像以上のハイスペックさに驚く一方で、瑞記とは本当にビジネスパートナーだと納得出来た。
本当に仕事が楽しくて、熱心になっているのだろう。瑞記にも希咲にも園香を蔑ろにしているつもりはきっとないのだ。
だったら園香が感じるモヤモヤは自分の中で解消するしかない。
(瑞記と名木沢さんのことばかり考えるのは辞めよう)
彼らのことで心を乱されるよりも、自分自身のことを考えた方がいい。
「お父さん、私怪我が治ったら仕事に復帰したいと思ってるんだけど」
夕食の席で、園香は父に切り出した。
「え、でも家庭を優先させたいから辞めたんだろ?」
父は箸を置いて、困惑の表情を浮かべる。母も同様に園香を見ていた。
「辞めた時の気持は覚えてないんだけど、今は外で働きたいと思ってる。瑞記は仕事で不在がちだから家事といってもそれ程ないし、手持ち無沙汰で家にいるよりも働きたくて。元の部署じゃなくて、バイトのような感じでもいいんだけど復帰したいと思ってるの」
他の仕事でもかまわないが、園香はソラオカ家具店が好きだった。出来れば今後も関わりたい。
「そうか……」
「あなた、私も賛成だわ。園香は瑞記くんのことも新居に移ってから出来た知り合いの記憶もないんだもの。そんな状況で家で家事だけをしているよりも、外に出て働いた方がいいと思うの。うちの会社で働いたら安心できるし話を進めて」
園香の言葉に父は慎重な態度を見せたが、母はかなり乗り気だった。
「……分かった。横浜に関連会社がある。向こうの家に戻ってからの通勤を考えるとそこがいいだろう」
「ありがとう。どんな仕事でも頑張るから」
園香はほっとして笑みを浮かべる。今後の生活に希望が見えた気がした。