六月中旬。園香は予定よりも少し遅れて夫婦のマンションに住まいを移した。
瑞記には引っ越し日に休めるか分からないと言われていたため、両親が車で送ってくれることになった。
しかしそう瑞記に伝えると彼は急に休みを取ったと言い出して、結局一日中家に居て荷物の運び込みや細々したものの買い出しに付き合ってくれた。
それは妻を心配してと言うより、両親の目が有ったからだろう。瑞記は特に父の反応に神経質になっているように見えた。
結婚しているとは思えないほど自由に振舞っている一方で、人の目を気にする人なのだと意外に感じた。
ただ両親が帰宅した途端に、自室に引きこもってしまった辺りは予想通りだった。
そんな風に、夫婦の生活はややぎくしゃくした形で再スタートを切ったものの、それなりに平和な数日が過ぎていった。
ところが同居三日目の朝食の席で平穏は崩れた。
園香の話を聞いていた瑞記が、突然不快だと言うように顔をしかめたのだ。
「働くってどういうことだよ?」
「どうって、言葉の通りだけど。七月一日から横浜の展示場で働くから」
そう伝えただけなのになぜ不機嫌になるのだろう。
怪訝に感じていると、瑞記は園香を睨みながら、苛立ちを吐き出すように息を吐いた。
「大怪我をして記憶まで無くしてるのに仕事に行くって何を考えてるんだよ?」
瑞記は相当イライラしているようだった。
それまでは園香が用意した朝食を勢いよく食べていたと言うのに、食欲が失せたとでも言うかのように箸を放りなげて、ダイニングチェアーの背もたれに身体を預けている。
見ていて気分の良い態度ではなく園香は眉をひそめそうになったが、なんとか堪えて瑞記から目をそらした。
(私を心配して怒ってくれているのかもしれないもの)
それなのに自分までイライラしたら駄目だ。
(冷静にならないと)
「心配してくれてありがとう。でも怪我は大分よくなっていて健康上の問題はないから大丈夫」
「そうだとしても働く必要はないだろ? 僕が毎月きちんとお金を入れているんだし」
強い口調でそう言う瑞記は、どこか園香を見下すような目をしているように見えた。
確かに彼はお金を入れてくれている。実家から戻った日に今月分を振り込んだからと言われたので園香の個人口座を確認してみると、六万円が振り込まれていた。
それで食費と日用品と園香の小遣いを賄えと言うことらしい。
家賃や光熱費などは別途瑞記が支払っているらしく、暮らしていくのに困らないようにようにはしてくれていた。
けれど、園香はそのときとても憂鬱になったのだ。気分が塞ぐと言うのだろうか。今もまた同じような感覚に陥っている。
「お金を入れてくれるのはありがたいと思ってるけど、私が仕事をしたいのは経済的な理由だけじゃないから」
「どういうこと?」
瑞記はなぜここまで園香が働くことに反対するのだろう。普段は関心が無さそうなのに。
「社会活動をしたいというか……私はこの家に越して来てからの記憶がなくて近所に友人も知り合いもいないし、ひとりで引きこもっているよりも、外に出たいと思ったの」
「そんな理由で」
瑞記ははあと大きなため息を吐いた。いかにもうんざりしたその様子に、園香もさすがに苛立ちを抑えるのが難しくなってくる。
むっとした表情で黙り込むと、瑞記は園香の態度の変化に気付いたのかますます不愉快そうな顔になった。
「その話は保留にして。少し考えるから」
園香は驚き目を見開いた。
「どうして?」
「どうしてって、納得がいかないからだよ」
瑞記は園香と同じくらい驚きの表情を浮かべている。まるで園香の反論が信じられないとでも言うように。
「保留には出来ない。もう決定事項で展示場の方も私が入社する予定で調整しているから」
「は? なんだよそれ。もう決まってるなら僕にいちいち報告する必要なかっただろ?」
「必要はあるでしょ? 一緒に住んでいるんだし」
「そう思うなら確定する前に報告しろよ!」
瑞記はガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「どこに行くの?」
食事も中断したままになっているのに。
「仕事に決まってるだろ?」
「まだ話の途中なのに?」
「これ以上話しても仕方ないから。僕は園香が働くことに絶対反対だから」
はっきり言う彼からは、一切譲歩しないという意思が伝わって来た。
「……瑞記が反対しても仕事はするから。家事はしっかりやるし迷惑はかけないわ」
「は?」
瑞記は驚愕したように顔をひきつらせた。それからしばらくすると怒りが滲んだ目で園香を睨む。
「園香は変ったね」
「え?」
「記憶を無くしてからまるで別人だよ。以前は僕の意見を蔑ろにしたりはしなかった」
園香は言葉に詰まって視線を落とした。
蔑ろにしているつもりはなかったけれど、 瑞記の目には相当酷い態度に映っているようだ。
「どんな風に違うの?」
瑞記が面倒そうに片眉を上げた。
「そんなことわざわざ言わなくても…」
「言ってくれないと分からないよ!」
彼の言葉に被せてしまったが、園香もストレスが溜まっていた。
この言い争いだけでなく、瑞記との関係自体に無理があると感じている。いつも我慢している。
普段の瑞記の言葉は穏やかだが、全く心が伴っていない。
関係が上手いっておらず溝があるのかと思いきや、仕事についてはずけずけと踏み込んでくる。関心があるのかないのか分からなくなる。
瑞記は自分がどう感じているのか、本当のところを決して口にしないのだ。
「黙ってないで教えてよ。私はどう変わったの? それが気に入らないなら直すようにするけど、何も言ってくれなかったらどうしようもないでしょ?」
瑞記はしばらく黙ったままだったが、ついに園香を睨むようにしながら口を開く。
「以前の園香は、僕の言葉を何でも聞いてくれたんだよ。今みたいにいちいち逆らってこなかった」
園香が息を呑むのと、瑞記がダイニングから立ち去るのは同時だった。
(逆らない?……私が?)
何でも彼の言うことを聞いていたと言うのだろうか。
(信じられない。そんなの私らしくない)
だってそれはまるで意志のない人形のようではないか。
瑞記が昔も今も園香に徹底的な従順を望んでいるのだとしたら……。
(私は瑞記と夫婦ではいられない)
自分で決めた結婚なんだから、関係が悪くても簡単に諦めてはいけないと思っていた。
瑞記の言動に納得がいかなくても、なんとか納得しようとして来たけれど。
その決心はもう崩れてしまいそうだった。
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