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「坊ちゃまは五時前にお出になりました。法要は、本家でお会いになるそうです」
芹沢はことはの帯を締めながら言った。土曜の朝、七時。鏡の中のことはは黒い着物を着ている。
「五時前……お仕事ですか」
「わたくしは、存じません」
芹沢は帯の結び目を叩いて、鏡の向こうで頭を下げた。
「本家には、旦那様の博正様と、お嬢様の麗華様がおいでです。坊ちゃまの叔父様と、従妹でいらっしゃいます。博正様は、いまの社長で」
「……はい」
「それだけ、覚えておいでになれば」
今日は店に出ない。氷川宗一郎の一周忌の法要があって、ことはは氷川遼の妻としてそこに座る。昨日の夜、遼は書斎の戸口からそれだけを言った。朝、母に電話をすると、「源さんが来てるから平気よ」と言われた。源さんは今日も、出ると言っていない日だった。
「ことはさん。本家では、何を言われても」
芹沢は言いかけて、口を閉じた。
「……何を言われても、ですか」
「お召し物は、よくお似合いです」
芹沢はそう言い直した。
◇
本家は、坂の上の家よりさらに大きかった。
座敷の正面に遺影がある。白い髭の老人が、少し笑って写っている。氷川宗一郎。この人が百貨店を建てた。遼の祖父。ことはが知っているのはそれだけだった。
遼は玄関で待っている。黒い喪服で、ことはを見て、何も言わずに座敷へ歩き出す。ことははその半歩後ろを歩いた。親族の目が集まるのが、顔を上げなくても分かる。
「遼さん」
声は後ろから来た。
振り向くと、若い女が立っていた。黒い着物に真珠。長い髪を巻いて、顔を少し上げて、ことはを頭から足まで見た。
「その方?」
「麗華。妻のことはだ」
「あなたが?」
女は笑った。
「和菓子屋の娘ですって? 遼さん、ご冗談を」
遼は何も言わなかった。ことはの隣に立っているだけだった。ことはは一度だけ遼を見て、それから女のほうを向いた。
「柊屋のことはです。よろしくお願いいたします」
頭を下げた。畳の目が見えるまで下げた。悔しいかどうかは、今は数えないことにした。
「柊屋。聞いたことないわ」
「下町の、小さい店ですから」
「十一月に本店で冬の銘菓めぐりっていう催事があるの。わたしが担当なんだけど、うちの催事はそういうレベルじゃないのよね。老舗ばかりだから」
「麗華」
低い声が座敷の奥から来た。
白髪の男が立っていた。笑っていない。目だけがことはに来て、一度止まって、離れた。
「お父様」
麗華は口を閉じた。男はそれ以上何も言わず、遺影の前へ戻って行った。氷川博正。遼の叔父で、氷川の社長。朝、芹沢から聞いた名前だった。麗華はその娘で、遼の従妹。
麗華はもう一度ことはを見て、遼を見た。
「おじい様が生きていらしたら、どう言ったかしらね」
それだけ言って、行った。真珠が、座敷の灯りを一度だけ返した。
遼は腕時計を見ていた。
◇
法要の間、ことはは遼の隣に座っていた。読経の声と、線香の匂い。遼が横を見る気配はなかった。ことはも見なかった。人前では妻として振る舞え。妻は、夫の隣に座っていればいい。
焼香の番が来る。ことはは立って遺影の前に進み、店の先代の法要で父に教わった手順のとおりに香をつまんで、頭を下げた。顔を上げると、遺影の老人と目が合う。
席に戻ると、向かいの列から麗華が見ている。ことはの手元から、着物の裾まで。何も言わずに、隣の年配の女に何かを囁いて、二人で小さく笑った。
法要のあとは、座敷で食事が出る。ことはは遼の隣で箸を持ち、出されたものを残さず食べた。味は覚えていない。遼は半分も食べずに箸を置き、親族の男たちと短く話して、ことはのほうは見なかった。
帰りの車に乗ったのは、四時を過ぎてからだった。
十月の夕方の座敷は冷えていて、玄関で親族を見送る間に、指先が冷たくなっていた。ことはは膝の上で手を重ねた。こすらなかった。こすると、火曜の朝のことを思い出す。
車が本家の門を出て、最初の信号で止まった。
遼がコートを脱いだ。
脱いで、前を見たまま、ことはの膝に落とした。黒いコートだった。
「……氷川さん」
「寒いなら言え」
「言いません」
「なら、勝手にしろ」
ことはは、コートを持ち上げて運転席のほうへ差し出した。遼は受け取らない。片手でハンドルを握ったまま、もう片手で暖房の目盛りを上げる。火曜の朝と同じ目盛りの位置で、手が止まった。
コートは重い。ことはは膝の上に戻して、その上に両手を置いた。指先が、少しずつ色を戻していく。
「人前では何も言わなかった」
自分の声が、思ったより低く出た。
「言う必要がない」
「……はい」
「麗華に何を言われても、お前は頭を下げていればいい。それで済む」
済む、とことはは思った。済むのだろう。この人にとっては。
信号で車が止まった。遼が口を開いた。
「叔父さんが止めた」
「はい」
「あれは、お前のためじゃない。氷川の名のためだ」
「分かっています」
遼はそれ以上何も言わなかった。ことはは、分かっています、と言った自分の声を、もう一度頭の中で聞いた。分かっている。叔父も、麗華も、遼も。
膝の上のコートの重さの上で、契約書の字を思い出した。妻は、夫に恋をしないこと。コートは、恋ではない。寒そうな妻を人前に出せないだけだ。
「店に、寄ってもいいですか」
「……角までだ」
車は、商店街のほうへ曲がった。坂の上の家は、まだ遠い。
◇
店の戸を開けると、源さんが工房から顔を出した。
「喪服か。帰って着替えろ」
「源さん、今日も来てくれて」
「正市さんが戻るまで、おれが豆を見る」
源さんは鍋に戻った。正市さんが戻るまで、と言った。ことはは工房の戸口に立ったまま、源さんの大きな背中を見ていた。
ことはは工房に入って、源さんの隣に立った。今日の餡が小鍋に残っている。源さんが箸の先をつけて舐め、黙って、ことはに箸を渡した。ことはも舐めた。塩がいつもより少し立っていて、それがよかった。
「いいです」
「明日はもう少し、豆を置く」
「はい」
それだけの話をして、ことはは工房を出た。喪服の袖に、小豆の匂いがついていた。
「あら、ことは。着物のまま」
母が店先から出てきて、ことはの腕の中を見た。
「それ、何」
「……氷川さんの、コート」
「ふうん」
母はそれ以上聞かなかった。聞かないまま、思い出したように言った。
「朝一さん、今日は早かったわよ」
ことはは顔を上げた。
「シャッター上げる前から、もう立ってて。六時半になったらすぐ入ってきて、いつもの一つ」
「どんな人なの。わたし、顔を見たことがない」
「背の高い人よ。帽子を目深にかぶって、黒いコート。二百三十円、お釣りが出ないようにぴったり置いて、一つだけ持って行くの。嗋らないわねえ。何年も来てるのに、声を聞いたのは二度か三度」
母は笑って、台を拭きに戻った。
ことはは、腕に抱えたコートを見た。黒い、重い、線香の匂いの残るコートを。
コメント
1件
うわあ、じわじわくるお話ですね……。本家での法要、麗華さんのあからさまな態度に、読んでるこっちまで息が詰まりました。でも、帰りの車で遼さんがコートを落としてくれた場面、あれはすごく印象的でした。冷えた指先をこすらなかったことはさんが、そのコートの重さに「恋ではない」と整理するところ、ぐっときましたね。それでも最後に源さんの小豆の匂いでほっと息がつける。この温度差がたまりません。 次、朝一さんの正体も気になるし、この関係がどう変わっていくのかすごく気になります!
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