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封書は、店の台の上に置いてあった。
火曜の昼過ぎ、ことはが工房から出てくると、母が封を切らずに差し出した。氷川百貨店本店、催事企画部。宛名は柊屋、柊正市様。
中は一枚だった。「冬の銘菓めぐり」出店候補からの除外について。選考の結果、貴店は候補から外れました。理由の欄には、規模、とだけ書いてある。
「お父さんが、春に申し込んだのよ」
母は台の端を拭きながら言った。
「本店の催事に出るのが、昔からの夢だったの。候補に入ったって手紙が来たとき、病室で何度も読み返してたわ」
ことはは紙を畳んで、封筒に戻した。規模。柊屋は間口の狭い店で、職人は源さんと自分の二人だ。規模が足りないのは本当だった。
本当のことを、本当でない人が言っている。ことははそう思った。催事の担当は麗華だと、土曜に本人の口から聞いている。聞いたことがない、とも言った。候補の中にあった店を。
「ことは、どうするの」
「行ってくる」
「氷川さんに言ったほうが」
「言わない。頼めば一言で済むと思う。済んだあとに残るのは、氷川の名で催事に出た和菓子屋。そうなったら、柊屋じゃなくなる。氷川の妻の実家が残るだけ」
母は、拭く手を止めて、何も言わなかった。
ことはは工房に戻って、今朝の豆大福を箱に詰めた。十二個。藍色の包み紙で一つずつ包んで、箸で並べて、蓋をした。源さんが手を止めて見ていたが、何も言わなかった。
コートは、日曜の朝に芹沢へ渡した。遼には何も言われなかった。
◇
本店の裏手に、催事企画部の事務所はあった。
売り場の華やかさと別の建物のように、灰色の机が並んでいる。ことはは入口で名前を言い、十分待たされてから、奥の席へ通された。
麗華は座ったまま顔を上げた。ワインの色の服。土曜より大きなイヤリング。その後ろに若い男の社員が一人立っていて、ことはと目が合うと、すぐに逃らした。
「柊屋さん。わざわざ?」
「お手紙をいただきました。候補から外れたと」
ことはは箱を机の上に置いた。
「うちの豆大福です。規模ではなく、味で見ていただけませんか」
麗華は箱を見た。蓋に手を掛けなかった。
「規模が足りないの。書いてあったでしょう」
「はい。でも」
「遼さんの奥様だからって、レベルを下げられないでしょう。老舗が並ぶ中に、下町の小さい店を入れたら、ほかの店に申し訳ないわ」
麗華は箱を、指の先で机の脇に押した。箱は机の端まで滑って、止まった。
「それとも、こう言えばいいのかしら。専務の奥様のお店は、特別に入れました、って」
ことはは箱を見た。昨日、源さんが置いた豆で、今朝、自分が包んだ豆大福だった。
「……特別は、いりません」
「じゃあ、話は終わりね」
麗華は立ち上がった。
「お待ちになる? 会議のあとで、遼さんに迎えに来てもらえばいいじゃない。役員の廊下に椅子があるから。蓮田、案内して」
後ろの男が、はい、と小さく言った。
ことはは箱を机に残したまま、男のあとについて事務所を出た。持って帰る気にはなれなかった。置いて帰る気にも。
◇
役員の廊下の椅子は、固かった。
三時。四時。会議室の扉は閉まったままで、ことはは膝の上に鞄を置いて座っていた。遼には連絡していない。待たされているのは分かっている。夫に頼らなければ何もできない妻を、麗華は役員の廊下で見せたいのだろう。
ここで帰れば、麗華の思うとおりに逃げたことになる。だったら、待てばいい。
五時を少し過ぎて、扉が開いた。
スーツの男たちが出てきた。年配の男が多い。その中に遼がいた。ことはは立った。遼はことはを見て、一度だけ止まった。止まっただけで、何も言わなかった。
「遼さん」
麗華の声がした。廊下の向こうから、ヒールの音と一緒に来た。会議の報告でもあるのか、書類の束を胸に抱えている。後ろに蓮田が立っている。
「お疲れさま。奥様がずっと待って――」
「麗華」
遼は麗華の前で止まった。
「冬の銘菓めぐりの看板は、柊屋の豆大福にする。催事部で手配しろ」
廊下の音が、消えた。
ことはは、立ったまま動けなかった。麗華の顔を見た。麗華は笑ったままだった。笑ったまま、目だけが動かなくなっていた。
「……遼さん、それは。お父様が」
「叔父さんも席にいた。反対はなかった」
「でも、規模が」
「看板は一店でいい。規模は関係ない。味で決めた」
味で決めた。ことはは、麗華の机の端に残してきた箱のことを思った。蓋は開けられていなかった。それなら、誰が味を見たのか。
遼は麗華を見たまま、続けた。
#御曹司
うめぼっち

633
鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
「手配は明日中に。――後ろのお前が、担当しろ」
蓮田が、はい、と今度ははっきり言った。麗華の後ろで、頭を下げている。
麗華は何も言わない。書類を抱え直して、ことはのほうを一度見る。土曜と同じ目だった。それから、ヒールの音を立てて廊下を戻って行く。音は、来たときより速い。
遼が、ことはのほうを向いた。
「……遼さん」
声が出るか分からなかったが、出た。
遼は、ことはを見下ろして言った。
「客として来たなら帰れ。店に戻れ」
そのまま、役員たちの中へ戻って行く。氷川の名で、看板になった。頼まなかったのに、そうなった。ことはは廊下に立っていた。
「奥様」
横で、藍色が目に入った。
柊屋の箱だった。催事部の机の端に置いて来たはずの、あの箱。それを持つ大きな手。黒いスーツ。それから、表情のない顔。背の高い男が、箱を持って立っていた。
「秘書の宇野と申します。車をお回しします。専務のお言いつけです」
「……電車で帰れます」
「お言いつけですので」
宇野は一拍置いて、箱を持ち直した。
「こちらは、お預かりします」
「それは――」
「お預かりします」
宇野はもう一度同じことを言って、頭を下げた。箱は、宇野の手の中にあった。
◇
屋敷に戻ったのは七時だった。
遼はまだ帰っていない。食堂で一人で夕食を食べ、食べ終えたところで、芹沢が濡れた手を拭きながら来た。
「ことはさん。申し訳ないのですが、書斎から、礼状の束を取ってきていただけますか。坊ちゃまが机にしまったままで。明日の朝までに整えておきたいのですが、わたくしは今、手が」
芹沢の手は、洗い物で赤くなっていた。
「どこにありますか」
「机の、左の引き出しです。一番上の」
ことはは廊下を歩いた。書斎の扉は閉まっている。開けると、本の匂いがした。
古い机と、壁の書棚。机の上に紙はなく、きれいに片付いている。この部屋で遼が何をしているのかを、ことはは知らない。
椅子に座った人の左の、一番上の引き出しを開けた。礼状の束が入っている。束を取り出して、引き出しを閉めた。
閉めてから、手が止まった。
本の匂いの部屋で、別の匂いがした。
小豆の匂い。炊いた餡の、甘い匂い。ことはの爪の際にいつも残っている匂いが、この部屋のどこかから、している。
ことはは、礼状の束を机に置いた。
匂いは、机の右側から来ていた。右の、一番上の引き出し。
手を掛けて、引いた。
引き出しの中は、藍色だった。
藍色に、白く抜かれた柊の葉。柊屋の包み紙だった。一枚ではない。何十枚もある。一枚ずつ、きれいに畳んで、きれいに重ねてある。引き出しの底から、縁まで。
ことはは一番上の一枚を、指でつまんだ。
畳み目がまっすぐだった。店で包んだとき、自分の指がつけた折り目が、そのまま残っている。
一番上の一枚から、小豆の匂いがした。ことはの鼻が、本の匂いの中から拾った、今朝の匂いだった。
コメント
1件
おお、第3話読み終えた…!これはガチで沁みたわ。 まず、遼が会議の場で「看板は柊屋の豆大福にする」って断言したシーン、痺れた。頼ってないのに届いた“氷川の名”じゃない形での救いって感じで。 でも何より鳥肌立ったのは、最後の書斎の引き出しだよ。藍色の包み紙が何十枚も、きれいに重ねられてたって…遼がずっとことはの仕事を見てたってことだよね。台詞ゼロであれだけの愛情表現できるのズルいわ。 「今朝の匂い」って終わり方、めっちゃ好き。