「セドリック。実はお嬢さまに、今朝――〝その時〟が訪れました」
セドリックの眉がわずかに動く。
「……ああ、それで屋敷全体が良い香りに包まれているのですね」
先程より鮮明になった薬湯の香りは、今やこんな廊下の端の方まで届いている。
年の功で、その意味するところをすぐに理解したセドリックが目尻を下げて優しい顔をする。
「そうですか。……それは、まことに喜ばしい報せです」
「はい。王城へも知らせねばなりませんし、旦那様へのご報告をお願いできますか?」
「もちろんですよ、ブリジット。すぐにでも旦那様の元へ出向きましょう」
そこまで言って、不意に言葉を止めると、セドリックが小さく吐息を落とした。
「ですが旦那様のご性分を思えば、すでに察しておられるやもしれませんね……」
セドリックの穏やかな声に、ブリジットも小さく頷いた。
そうしてナディエルに頼まれていたことを付け加えねば、と強く思ったブリジットである。
「あの、そのことでお願いなのですが……お嬢さまご自身が落ち着かれて、お言葉を発せられるまでは――旦那さまにはあまりお騒がせにならぬよう、お申し添えくださいませ」
「ああ、確かにデリケートな問題ですからな。私も浮かれ過ぎてお嬢様の前で顔に出さないよう注意いたします」
「セドリックに限ってそんな心配、ないでしょうに」
クスクス笑いながらも、ブリジットはこの老執事に任せておけば大丈夫だと思えた。
***
ランディリックがリリアンナの初潮に関する報せを受けたのは、それから間もなくのことだった。
朝食前の静かな時間帯――。
いつもならまだ寝室で身支度を整えている頃だが、隣室からの慌ただしい気配と、昨夜感じた〝馨しい予兆〟に落ち着かなくなり、ランディリックは早々に執務室へ移っていた。
机に向かい、見るとはなしに書類へ目を通していたとき――扉を叩く音がした。
(やはり……)
そう思いながら、ランディリックは顔を上げる。
「旦那さま、少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
常ならぬ時間に執務室へ籠もる主君に、セドリックは何も問わず、ただ静かにお辞儀をして立っていた。
「ああ、構わない」
短い返答に頷いた老執事は、滑らかな足取りで執務室へ入り、背後の扉を静かに閉める。
「旦那さま。実は今朝――リリアンナお嬢さまにお変わりがございました」
その声音には、慎みとともに温かな響きが宿っていた。
「……とうとう、か」
「はい。ナディエルからブリジットへ、そして私のもとへと報せがありました。お嬢さまが、今朝初潮をお迎えになられたそうです」
ランディリックの指先が、手にしていた書類から離れる。
セドリックが扉を開けた瞬間、鼻先をくすぐったのは、ほんのりと漂う香草と林檎の香り。
寝室にいるときから、ランディリックは浴室でナディエルがリリアンナのために薬湯を用意している気配を感じ取っていた。
――あれは、慣れぬ体調変化に戸惑う主人のために、リリアンナの侍女が尽力していた気配だ。
昨夜、扉の向こうから感じた〝えも言われぬ甘い血の匂い〟が、今朝になって確信へと変わる。
ランディリックの胸の奥に、抑えがたい熱が静かに広がっていった。
その激情にも似た思いが、あの子に対して〝良からぬ衝動〟を引き起こしそうで――怖かった。
だから今朝はこうして、香りの主と距離を取ったのだ。
「……そうか。王都への報告は、僕からしよう」
「承知いたしました」
セドリックが一礼し、ふと思い出したように付け加える。
「……それから、これはわたくしども男性陣に、女性陣からの伝言でございます」
「……?」
「お嬢さまの方からお話があるまでは、私どもから体調の件を口にしないように――とのことです」
セドリックの真摯な声音に、ランディリックはゆっくりと背もたれに身を預けた。
「ああ、気を付けよう」
窓の外では、ミチュポムの白い花が春の風に揺れている。
林檎の花の香りに混じって、薬湯の香りと――彼にしか嗅ぎ取れないリリアンナの〝血の芳香〟が、ライオール邸の静かな朝を包み込んでいた。
コメント
1件
女の子の日のこと、王様?に知らせないといけないってすごくしんどい制度だなぁ。女の子としては。