コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
コンコンと、薄い扉を叩くが反応はない。和美は扉越しに清香に声をかける。
「ねえ、清ちゃん。どうしちゃったの? 学校にも来ないし、電話も取ってくれないし。ウチ、清ちゃんに会いたいよ」
返事はない。和美は背中で扉にもたれかかると、天井を見上げた。光る電球にピカピカと頭上から照らされて、彼女の体に影が落ちている。
「あれから、紗世ちゃんの様子もおかしくてさ、こんなとき清ちゃんが居てくれたら気が楽なのになって思ったの」
和美は一人で語り続ける。その目には色素の薄い前髪がかかり、表情はわからない。
「ねえ、清ちゃん。これからどうなっちゃうのかな?」
清香からの返事はない。廊下の奥に一つだけ取り付けられた窓には、外の景色が映っている。
窓の外には雪が降っていた。太陽を覆い隠して、分厚い雲が広がっている。雪は光を飲み込んで、渾々と降っていた。
雪はまだ、止まない。
歴戦のプロレスラーのような、体格の良い教官に案内されて、男は小さな個室に入室した。厚いガラスで二つに分けられた小部屋には、古びた椅子がポツンと置かれている。
男はその椅子に座るとガラス越しに少年と目を合わせた。金髪の少年、昌一は男の顔を見るなり大きく舌打ちした。
「何しに来やがった、松浦? だっけ。もうお前の顔なんて見たくねえんだけど」
昌一は野生に生きる獰猛な獣のように下から睨め上げる。松浦は全く動じずに、腕を組んだまま彼を睨み返した。
「今日は君に質問があって来たんだよ、平良くん。単刀直入に言おうか。飯島由乃を脅し、彼女を死に追いやったのは君か?」
重い沈黙が降り、誰も動く気配を見せない。やがて、雪が溶け出すようにゆっくりと、昌一は口を開いた。
「何だそれ、俺はやってない。そもそも、何で俺がアイツを脅す必要があるんだよ。ムカついたなら殴れば良い話だろ」
呆れたように昌一はふんぞり返った。上から松浦を馬鹿にするように見下ろしている。
松浦は無精髭を撫でながら昌一を見つめている。その目は鋭く、隠された奥底まで見透かすようだった。
「・・・・・・確かに、君はやっていないかもしれない。でも何か、知ってること、あるよね?」
松浦は昌一を刺激しないよう、猫撫で声でそう言った。昌一は天井を見上げ、遠い過去を想起しているようだ。少しして、視点は現在へと回帰する。
「そういや、俺、スマホ拾ったんだよな。マンションに向かう奴隷を追ってたら、なんかデッカい音がして、そこに行ったら変な塊とスマホが落ちてたんだよ。あれ、何だったんだろうな。気味悪くてスマホは捨てちまったわ」
「どこに捨てた!」
昌一が言い終わるや否や、上から押さえつけるような勢いで松浦は声を張り上げる。昌一はビクリと肩を震わせると、苛立たしげに頭を掻いた。
「知らね、花壇の辺りじゃね?」
昌一はぶっきらぼうにそう答えた。松浦は長い癖っ毛を掻き上げると、少し昔を思い出す。
由乃が死に、それと同時に姿を消した彼女のスマホ。由乃の遺書には、誰かに脅されたと思しき記述が残されていた。この二つに関連がないとは、到底考えられない。
「松浦刑事、そろそろお時間です」
ガタイの良い教官は、松浦にそう告げた。何とか時間を延ばせないかと彼は交渉を試みるが、規則ですから、と教官は眉を寄せて首を横に振った。
松浦は昌一に背中を向けると後ろ髪を引かれる思いで小部屋を出ようとする。その時、あっと短い言葉とともに、椅子が倒れる音が狭い部屋に響いた。
「思い出した。あの日、アイツを見たぜ。真昼間にフラフラと、様子が変だったから覚えてるわ」
立ち上がった昌一は松浦の方を見た。その瞳は松浦の更に奥、過去に向けられていてどこか虚ろだった。
「平良くん、君は誰に会ったんだ?」
ゴクリと生唾を飲み込むと、松浦はゆっくりとガラス板に歩み寄る。その表面に手を当てて、じっと彼の言葉を待った。
「俺は・・・・・・あの日・・・・・・」
ガチャリと音を立てて重い鉄製の扉が閉じた。外には肌を突き刺す寒さが満ちて、松浦のガタの出始めた体を蝕む。
灰色の空から、白い雪がチラチラと舞い落ちる。まるで由乃の死を覆い隠してしまうように。
松浦は煙草を一本取り出すと、銀製のライターで火をつける。フワッと、ライターを中心に温もりが広がり、その中に朧げな妹の影を見た。雪は彼女の体温に触れて、水滴へと変わっていく。
一台の黒い車が、雪の中、煙草の白煙を目印に近付いていた。雪に反射するハイビームがキラキラと、天然のミラーボールのように乱反射する。やがてそれはゆっくりと松浦の前に停車した。
「石嶺、犯人がわかったぞ」
吐き出した白煙と共に松浦は車に乗り込む。石嶺は大きい体を揺らし、全身で驚きを表すと、何も言わずにカーステレオの音量を下げた。
シートベルトをすると、松浦は煙草の先を灰皿に押し付ける。ジュッと音を立てて火が消えた。
「俺は、捜査の途中から、昌一を犯人だと決めつけて、その可能性を見ないフリしてしまった」
煙草から、温度が消えた。フワリと松浦を包んでいた温もりが、じんわりと冷めていく。
降り積もる雪をワイパーが押し除けて、車はゆっくりと前進し始める。窓に映るのは、由乃の死を隠して広がる、一面の雪景色だ。松浦は重い口を開く。
「自分の事情で視野を狭めて、真犯人を見落として、刑事失格だな、俺は」
昌一は、とある男によく似ていた。あの日、警察署にて初めて顔を合わせた男、妹を死に追いやったあの男に。
由乃の死に隠された秘密を解き明かすことで、妹を守れなかったことに対する贖罪が出来ると思っていた。そう思ったから、犯人の昌一を逮捕するのに躍起になっていたのに、彼はどうやら犯人ではなかったようだ。
昌一を逮捕した日、松浦はひどく高揚していた。昌一を犯人だと断定して、彼の目撃情報が多い辺りを重点的にパトロールしていたら、ちょうど暴力を振るうその現場に遭遇したのだ。かつて守れなかったものと重ねて、今度はそれを守れた気になり、胸に何か込み上げるものがあった。
それが今、別の形に変わって溢れ出す。
「俺は、俺が情けない・・・・・・」
交差点で、ウインカーがカチカチと点滅する音だけが車内に満ちている。その間にも雪は渾々と振り続けていて、今夜は積もりそうだ。
信号が青になると同時に、車は雪道を進み出す。窓の外に広がる街並みは、雪に遮られて、その影すら見えなかった。
「自分は先輩のことを情けないなんて思わないですよ。むしろ、素晴らしい人だと思います」
石嶺は普段とは違う、落ち着いた声でそう言った。車はやがてグランドヒルズ唯崎を通過する。松浦はそちらにチラリと視線をやるが、その姿は見えなかった。
「先輩は妹さんのことを飯島由乃の件と重ねてしまった。それの何が悪いんですか? 確かに、先輩の思い込みで犯人を逃したのは悪いことだと思います。でも、先輩のおかげで、和美ちゃんも、清香ちゃんも、救われたと思いますよ。それに・・・・・・」
ポケットから銀色のライターを取り出すと、それを見つめる。ライターには、あの頃から随分と老けてしまった自分が映っている。
確か、妹にも似たようなことを言われたっけ。ライターに向けられた視線はその向こう側にある、遠い過去を見据えていた。
「兄さん、何落ち込んでるの? 普段煙草吸わないくせに、今日はまたカッコつけちゃって」
開け放たれたバルコニーで、柵にもたれかかりながら煙草を吸う俺の隣に、妹はやって来た。触れ合った肩に温もりを感じる。
ブカブカの指先まですっぽり覆えるパーカーを着て、ゴム紐で前髪を結び、おでこを出した格好で妹はくしゅんと小さなくしゃみをした。
鼻を啜り、マグカップに注がれたココアを小さなスプーンで混ぜながら、彼女はフーフーと息を吹きかけている。
「うるせぇ、煙草始めたんだよ、先輩に勧められてな。心に拠り所が有るのと無いのとじゃ、全然違うらしいんだよ」
俺はつい先日の事件のことを思い出していた。年端も行かない少女が、謎の男数名に暴力を振るわれる事件だ。男たちはその様子を動画に撮って、被害者少女とともにそのデータを家まで運んで来る。何とも胸糞悪い事件だ。犯人はまだ、捕まっていない。
捜査として病院を訪れたとき、顔を合わせた少女らの両親が、泣き腫らした顔でただひたすらに、犯人を必ず捕まえてください、と頭を下げる姿が脳裏に焼きついて離れなかった。
「こんな仕事してるとな、心が荒んじまうんだよ。吸うか飲むかだな」
そっか、と妹はどこか物悲しげに呟くとココアを飲む。甘い香りが辺りに漂っていた。
「そういえば、今度の日曜日空いてる? てか空けててね。遊びに連れてってよ」
砂糖を入れすぎたコーヒーのように甘ったるい猫撫で声で妹は言った。頭一個分小さな背丈で、じっと上目遣いに見つめてくる。
「俺が休むことで被害に遭う人がいるかもしれないし、ちょっと難しいかもな」
咥えていた煙草を離すと、ふうっと満天の星に向かって吐き出した。ええっと隣で大袈裟に声を上げる妹を一瞥すると、構わずもう一口煙草を吸う。
「最近、受験勉強が本格的に始まってさぁ、大変なんだよ。真面目で正義感の強い、優しい兄さんならきっと、遊園地とかに連れて行ってくれるんだろうなぁ、楽しみだなぁ」
ねっとりと絡みつくような言葉を発する妹に根負けして、俺は日曜日に休みを取ることにした。その旨を先輩に電話で伝えると、たまには妹孝行してやれよ、と何だか乗り気な様子で、どこか違和感があったが、俺は気のせいだと思い込んだ。
妹はピョンピョンと狭いバルコニーを小さく跳ね回る。それがうざったくて小言を漏らしそうになるが、両親を亡くし、唯一残った肉親でさえあまり家に帰らない、寂しい生活を送らせているのだ。たまにははしゃがせてあげようと思った。
妹にとって最大の不幸は、俺の妹だったことだろう。昔から一人で寂しい想いばかりさせてきた。そして、これからも、消えない寂寥感を抱きしめて、妹は永い眠りにつくのだ。
土曜日が終わり、二十四時を少し回る頃、ようやく俺は家に帰った。今日は、ヤツらの目撃情報があったため、緊急で現場に赴いたのだ。こんな日に限って、先輩は休みを取っていて、俺一人が現場に出たため、こんなに遅くなってしまった。
玄関の鍵を回したとき、いつもと違う手応えがあった。いつもならこの時間は鍵がかかっているはずの扉が開いていたのだ。俺はそっと玄関に足を踏み入れる。
リビングに入ると、電気は消えていて、ソファに横たわる黒い影が見えた。ホッとため息をついて俺は人影に近づく。
「びっくりした、鍵くらいかけろよ。それに、ここで寝ると風邪引くぞ。明日遊びに・・・・・・」
小さな肩に手を置いたとき、肌に伝わったのは、先日バルコニーで触れた妹の温もりではなく、ブワッと鳥肌が立つような冷たい温度だった。急いでスマホを取り出し、ライトをつける。光に照らし出されたのは、痣だらけの妹だった。
力の抜けた手からスマホが落下する。ゴンと音を立てて床を跳ね、画面に薄いヒビが入った。
落ちたスマホは、当てもなく部屋を照らしている。微かに見えた妹の腕は赤く染まって、床を目がチカチカするほど彩っていた。
ずいぶんと遅れてやって来た先輩に声をかけられて、やっとのことで顔を上げる。彼の顔は、色濃い憐憫に塗れていた。
結果から言うと、犯人はあの後、すぐに逮捕された。家の中に俺と妹のものではない髪の毛が発見されたからだ。妹は死の直前までそれを握っていたようで、俺は鑑識がやって来るまで、そのことに気づかなかった。
犯人は、妹と同じ高校に在籍する、十七歳の不良たちだった。彼らは悪びれる様子もなく、その上、さも誇らしげに語った。
『最初は、タバコを吸ってるのを注意されたから始めたんだよ、パンチングゲーム。それを動画に撮ってさ、松浦だっけ? アイツが泣いて謝るのを見てたら、だんだん楽しくなってきちゃって、アイツ一人じゃ物足りなくなったから、色んなヤツで楽しんだんだわ。みんな、”どうして”、とか、”助けて”、とか言うからさー、本当に笑っちゃって。あ、刑事さんも見る? 俺らのビデオ。捕まっちゃったけど、まあ、最後に遊べたのが松浦で良かったかもな。アイツが一番面白えの。両親がとっくに死んでるから、兄さん、兄さんって泣くんだけど、アイツの兄ちゃん警察だからさ、妹なんかより他に守るべき人たちがいて、結局最後まで助けられないんだよ。本当に面白かったわー。まさか、自分で手首を切るなんて思わなかったけど、いらない正義を気取るから、死んじゃうんだぞって感じかな』
事情聴取のときの録音を再生して、血が流れるまで唇を噛むと、俺は何度も自分の右足を殴りつけた。それだけでは収まらず、別室に隔離されているヤツらの所まで行き、 下卑た笑みを浮かべるヤツらを、俺は片っ端から、鼻の形が変わるまで殴りつけた。泣きながら許してと叫ぶガキを見て、たった一瞬だけど、心がスーッと晴れたのが、もう二時間も前のことだ。
「ごめんなぁ、松浦。本当にごめん。あのとき、俺が一緒にいればなぁ」
隣に座った先輩は、その日のことを話してくれた。
土曜日、先輩は俺の妹に頼まれて、一緒に買い物に行ったらしい。日曜日は兄の誕生日だから、最近事件で疲れた顔をしている兄に、何かプレゼントを贈りたいんだ、と笑顔を見せる妹が目に見えるように思い浮かんだ。
震える手で俺はそれを握りしめた。妹がくれた最初で最後の誕生日プレゼントは、銀製のライターだった。
疲れ切った兄さんの心の拠り所が、せめて、少しくらい豪華な物であってほしいから。
妹は、先輩と別れる直前、そう言ったらしい。俺には、どこか物悲しげに呟く妹の姿がありありと想像できてしまって、ひたすらに涙を流した。
そんなの必要ないから、妹さえ生きていてくれれば、それで良かったのに。
妹は、長い間暴力を振るわれた挙句、ずっと脅されていたらしい。これを警察に伝えれば、今度こそおまえを殺す、と。昔はむしろ、丈の短い動きやすい格好ばかり選んでいたのに、最近は全身を覆えるほどブカブカの洋服ばかり履いていた理由が、そのときやっとわかった。
他の少女たちも同じような手口で脅されていたことが、犯人が長い間見つからなかった原因だろう。
事件が闇に消えていく中、唯一声を上げたのが俺の妹だった。あの日、妹は前まで自分に暴力を振るって笑う不良たちを町で見つけたらしい。彼らが小さなバンに少女を連れ込もうとしているのを見て、ピントきたらしく、最初に警察に通報したのは彼女だった。
防犯カメラに、その姿が残っていた。電話を切ると、妹はお腹を抑えて、何かに耐えるように蹲っていた。やがて決心したように立ち上がると扉の閉じたバンに駆けて行く。それを最後に、妹の姿は見えなくなった。
妹にとって最大の不幸は、俺の妹として産まれたことだろう。俺は父似、妹は母似で、顔のつくりは正反対。何度か顔を合わせた先輩にまで、似ていないと言われるほどだ。だけど、奥底に潜む、揺るがない正義の心だけは、先輩も驚くほどよく似ていると語っていた。
そこさえ、そこさえ似ていなければ、妹は長生きして、人並みの幸せを享受し、笑って眠りにつけたかもしれない。そんなことを願ってみても、 もう決して戻ることはない彼女に、俺は今までの感情は全て嘘だったのではないかと思えるほど切実に、自身の擦り切れた残り滓のような心を、更に削って謝る。
ごめん、俺なんかのせいで。ごめん、守ってあげられなくて。ごめん、ごめん、ごめん。
咽び泣く俺のところに、竹原という男がやって来た。いかにも頭の固そうなメガネの男である。
彼は証拠品として押収した、妹のスマホを手に持っている。竹原は憐れみのこもった一瞥をくれると、それに残されたボイスメモを再生した。
『兄さん、聞こえてますか? 電話をすると、決心がつかなくなる気がするので、録音して伝えます。
兄さんはきっと、自分のせいだと、自分で自分を必要以上に責めてしまうと思います。でも、兄さんのせいではありません。これは、私が選択し、私が選んだ道です。私以外にも、被害にあった女の子たちがいて、その子は今も恐怖で怯えている。私が原因で始まった事件なのだから、その子たちの代わりに、私は声を上げるべきだと思ったけれど、私には怖くて出来なかった。家に戻ってからもずっと、頭の中からアイツらの笑った顔が消えなくてさ、泣いちゃいそうだったんだ。
ごめんね、本当のこと言えなくて。でも、今日は遂に出来たんだよ。足は震えてたけど、兄さんみたいに、女の子を助けることが出来たんだよ。
前より数倍は殴られて、腫れ上がった瞼のせいで前が見えなくなったとき、アイツらは私に言ったんだ。オマエが死ねば、データを消して、こんなこと辞めてやるって。きっと、冗談のつもりだったんだろうけど、私にはこれしかないって思ったんだ。
たぶん、私が死んだところで、アイツらはあの遊びを辞めやしない。だから、殴られたとき、一人の髪の毛を引っこ抜きました。アイツらがあの遊びを辞めるんじゃなくて、警察があの遊びを止めれるように。それから、DNA鑑定が出来るはずです。これで必ず、アイツらを捕まえてください。私からの、最後のお願いです。
これから先、兄さんがいるおかげで救われる人がいると思います。私が残した物を持って、私と一緒に、その人たちを救ってください。
兄さん、今までありがとう。吸いすぎは、体に毒だから適度にね。遠い、遠い、星空の向こうに、私はいるから。ばいばい、またね』
そこで音声は途切れた。温かい液体が頬を伝って、ただただ何も言えない時間が続いた。
「一服、どうですか?」
竹原は淡々とした声の調子を崩さずに、俺に煙草を差し出した。それを受け取ると彼に並び立つ。
「火、要りますか?」
小さく首を横に振ると、握りしめていた銀製のライターを取り出す。カチッと硬い音がして、火が吹き出した。
辺りに柔らかい温もりが広がる。まるで体調を崩したときに優しく布団をかけられたかのような温もりだった。ゆらめく炎の奥に、プレゼントのセンス最高でしょ、と笑う妹の姿が見えたような気がして、黙ったままタバコを咥える。
もう、俺みたいな想いをする人を出さないように、俺は妹にとって自慢の兄になってやる。
タバコは嫌いだ。不味いし、妹が死んだことを強く思い出してしまうから。でも、だからこそ、辞めるわけにはいかない。 いつかその毒が体を巡り、俺を死に至らしめるまで。遠い遠い星空の向こうに、この白煙が届くまで。
「悪人は、一人残らず、逮捕してやる」
竹原は何も言わずに頷いた。二人分立ち上った煙は空高く登っていく。それはやがて、群青の先に旅立った妹まで届くだろう。
晴れわたった空には、一点の曇りすらない。燦燦と輝く太陽は、俺たちの進む道の先に、手を引いてくれているようだった。
群青の空に、煙だけが立ち上っていた。
「それに・・・・・・俺がいます。先輩は一人じゃありません、俺たちは二人で一つのバディなんですから。遠くを見るのに疲れたら、横を見てみてください。どんなに重い罪だろうと、一緒に背負える、仲間がいますから」
雪の中を切り裂くように、黒い車は町を駆ける。まるであの日見た太陽の輝きのように、石嶺が俺の手を引いた気がした。
いつの間にか、石嶺は俺の思っていたよりずっと、成長していたらしい。そろそろ潮時かな。嬉しいような、寂しいような、ごちゃ混ぜになった心で俺は彼を見た。
「・・・・・・そうだな、間違ってたわ。最後くらいしっかり犯人逮捕してやろう」
月も、出る時間を間違えたと勘違いするほどの大きな明るい声で、石嶺は返事をする。それが何だか馬鹿らしくなって、俺は笑った。
雪の中を黒い車は駆けて行く。彼らを乗せたそれは、いくら吹雪いたとしても、もうビクともしないだろう。
正義の味方を乗せた車は、白煙を残して、雪の中へと溶けていった。
紗世は、部屋の中、狭くなったベッドの上で、めいいっぱいに体を伸ばした。体のあちこちが痛む。
彼女はつい先日のことを思い出していた。由乃を追い詰めた犯人、昌一の逮捕。悲願を達成したはずなのに、どこか空虚な物を感じたまま、紗世は今日もひたすらに、ヘッドフォンで音楽を聞いていた。
かつて由乃が好きだと言っていたアーティストの歌だったが、紗世にはその良さがあまりわかっていない。ただ安っぽい歌詞に、ありふれたメロディーを連ねただけのそれはひどく退屈に思えた。
スマホを使い始めてからあまり日が経っていない彼女には、耳慣れていないメッセージアプリの通知音が鳴り響く。寝転がったまま紗世はスマホを持ち上げる。和美からだった。
『紗世ちゃん!! 元気!? もう怪我は大丈夫かな? 今度お見舞いに行っても良い?』
頭の中にガンガンと大音量で歌が流れている。紗世はスタンプ一つで返事をすると、それを置いた。
由乃の好きなアーティストは誰もが思いつくような表現で、愛を歌っている。半額シールが貼られていそうな言葉を聞いて、紗世はふと、文也の言葉を思い出した。
『真澄が僕より先に由乃さんと付き合い始めたんだよ』
彼は、そんなことを言っていた。決行前夜に会った真澄の意味深な発言は、きっと二股を掛けていたら浮気相手に本命の存在がバレて、その復讐をされると勘違いをしてのものだったのだろう。
「・・・・・・気持ち悪い」
紗世は電気の消えた暗い天井に向かってそう吐き捨てた。その声は誰にも届くことはなく、大量に物が散らばった部屋に反響して消える。
紗世は枕の横に置きっぱのまま放置していた由乃のスマホを取り出すと、意味もなく電源を入れる。
淡く光を放つ画面には、笑顔の由乃がカメラに向かってピースをしている。髪型を変えて、いつもよりおめかしをしている理由は、きっと、真澄と一緒に居るからなのだろう。
私には、一度もそんな姿見せたことないくせに。
紗世はスマホを操作していない方の腕を使って、両目を覆った。瞼の裏には、彼女の笑顔が、髪が、指先が、浮かんでは消えてを繰り返し、まるで夢を見ているようだった。
紗世は由乃のスマホをパスワードの入力画面に切り替えると、適当な数字を入力する。ブブッと不正解を知らせる音がして、スマホは軽く振動した。
紗世はふとした思いつきで、真澄の誕生日を入力してみる。彼の誕生日は十一月で、仲の良い数名で集まって、教室でパーティーをしていたのを思い出したのだ。
笑顔の由乃が上へとスライドしていって、やがて画面から消える。ロックが解除されて新たに現れたのは、二人でくっつき合って写真を撮る由乃と真澄の姿だった。
紗世は呆然とそれを眺める。ずっと知りたかったものは、これだった。ずっと、ずっと、秘密を暴くために追い求めていたものは、こんな近くに隠れていた。
気づかなかった自分に辟易して、スマホを握る手が震える。その指先は、メールアプリへと伸びていた。
スパムメールを遡り、探した。あの日、由乃が受信したメールは一つだけ。それは紗世の知っているアドレスから送られたメールだった。
「犯人は、昌一じゃなかったの・・・・・・?」
胸を強く締め付けられたかのように息すら出来ない。紗世は跳ね飛ばされるように起き上がった。
雪は吹雪となって町を覆っていく。窓をドンドンと強く叩きつける風の音がして、広がる空には闇が満ちていた。
紗世の心臓は刻一刻と鼓動を速めていく。頬に伝うのが、汗なのか涙なのかも、今の彼女にはわからなかった。
紗世はただ、小さな部屋に一人でいる。彼女の顔は青ざめて、震えていた。そんな紗世に声をかける人は誰もいない。
雪は、昌一を逮捕してなお、止む気配を見せない。唯崎町に降る雪は、まだ止まない。