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目を覚ますために顔を洗おうと、人気のないトイレに駆け込み、錆びついた蛇口をひねった。キーッと甲高い音が響いて、勢いよく飛び出した水流が、渦を巻いて排水口へと飲み込まれていく。
私もこんなふうに何かの勢いに任せて、姿をくらませてしまいたい。
それを両の手のひらで掬い上げると、バシャリと、まだふわふわと思考の纏まらない頭に向かって投げつけた。キンと澄んだ黎明の空のような、吐き出した息が瞬く間に白くなる朝みたいな、そんな鋭い寒さが肌に触れて、私は自分で濡らしたくせに、ビクッと大きく体を震わせた。
しばらく美容院に行っていないせいで、目にかかるほど伸びた前髪に水滴が伝い、落ちた雫がピチョンと小さな波紋を作った。蛇口を先ほどとは反対の方向に回すと、キュッと音を立てて水流は勢いを失っていく。 排水口はゴウゴウと、とある昔話の山姥みたいに、見る見るうちに水を飲み干した。
顔を上げると、手入れされていない傷だらけのくすんだ鏡に、肩甲骨あたりまで伸ばした黒髪のところどころに枝毛が目立つ、目元に濃い隈を貼り付けた少女が映っていた。完全に目覚めた頭で、自分のことを客観視すればするほど、とても見窄らしい姿だった。
私は冷水に冷やされて、赤みをより色づかせた頬をパンッと平手で叩くと、それをハンカチで拭ってトイレから出た。吹き抜ける風が、私の体から温度を奪っていく。ブルリと小さく身震いすると、薄手の制服を摩って私は本鈴が鳴る前に教室へと向かった。
鼻を啜りながら渡り廊下を抜けると、私は教室へと足を踏み入れる。雑踏の中で、チラリとこちらに一瞥をくれたのは文也だった。
彼は、夏休みの終わり頃に、私がいじめから救った少年だ。最初の方は、誕生日ケーキに立てられた蝋燭の火を吹き消すのを今か今かと待ち侘びる子供のように、光を失っていた瞳を輝かせていて、ああ、私はなんて素晴らしいことをしたんだ、などと誇りに思ったものだ。しかし今となっては、それがまるで、暗闇の中に浮かぶ涎を垂らした肉食獣の瞳のように、ひどく不気味に思えた。
彼は立ち上がると、カツカツとステップを踏むような、弾む足音で近づいて来る。私は文也から目を背けると、彼に気づいていないフリをして、そそくさと席についた。
「ねえねえ由乃さん、どこ行ってたの? もうすぐ次の授業始まっちゃうよ! しょうがないから、僕が代わりに教科書準備しておいたからね。本当に感謝してほしいなぁ」
聞いてもいないし、頼んでもいないことを、さも誇らしげに、褒めて欲しいという魂胆が見え見えな口調で文也は語った。考えすぎて寝不足の頭では、彼の言葉は不快以外の何物でもなくて、私はぶっきらぼうに返事をすると机に伏せる。
「寝ちゃダメだよー、由乃さん。先生に注意されちゃうよ? まあ、先生に何を言われたって、僕はずっと味方だけどね。でもやっぱり、由乃さんが叱られるのを見るのは嫌だから起きてよー、僕からのお願い!」
彼は断りもなく私の体に触れると、その肩を揺らした。ゾワッと、悪寒が体を走り抜ける。私は飛び上がるようにして体を起こすと、文也の顔を覗き込んだ。
彼は笑っていた。私が驚いたことよりも、私が自分の言動に反応したことの方が嬉しいようで、ニタニタと笑みを浮かべたまま、そこに立っていた。
「びっくりしたなー、ちょっと触っただけじゃん。そんなにくすぐったかった? 面白いし、もう一回やっちゃおうかな?」
文也は左手を私の体に向かって伸ばす。その腕を視界の隅に映っていた人影が軽くはたき落とした。
「向井くん、そろそろチャイムが鳴るから、君も自分の席に戻った方が良いんじゃないかな?」
触れる既の所で邪魔された彼は、不満げに頬を膨らませると、渋々といった様子で自身の席へと戻って行く。私は助けてくれた人影を見上げた。
「・・・・・・ありがとう、真澄くん」
一瞬だけ目が合って、その瞬間、私は頬をぽっと赤く染めた。普段はクールな表情が、ふっと緩むのを見て、私は恥ずかしさから彼から目を逸らす。耳まで真っ赤になる私は、真澄の前ではいつだって林檎だった。
彼はそれから特に何も言うことなく、自分の席へと帰っていく。その後ろ姿をチラリと見て、私は声を出さずに口だけを動かすと、それを隠すようにチャイムが鳴った。
放課後、昇降口で靴を履くと、どこまでも分厚く広がる雲を見上げて町を行く。本音を言うと、一緒に帰りたい人がいたけれど、彼も彼女も乗り気じゃなくて私は一人で歩いていた。
ワイワイと、鼻水を垂らしながらボールを持って駆ける小学生。杖をつきながら二人並んで、同じ歩幅で進む老夫婦。今この瞬間しか見ることの出来ない平凡な日々を私は誰かと共有したかったが、私の歩くスピードはみんなより随分速いらしく、気づけば昔から通っている学習塾の前まで来ていた。
ふとした思いつきで中を覗き込む。この時間はまだ小学生の授業中のようで、小さな手が元気よく挙げられるのが見えた。
扉を閉めて外に出ると、とっくに切れているのに変えられない電灯が見える。あのときはまだ、何とか点いていたのに。かつて、これに照らされていた日々の、まだ暑い夏休み明けに見上げた満天の空を思い出した。
「栄くん、見て! 星、綺麗だね」
学習塾での長い授業を終えて外に出たとき、日はとっくに沈んでしまっていて、空には習ったばかりの夏の大三角がはっきりと見えた。
「あれがベガで、これがアルタイルかな。で、そっちがデネブだよね。綺麗だなぁ」
指先を忙しなく動かして、彼と二人きりの、何とも言えない気恥ずかしさを誤魔化す。授業がいつもより長引いていて良かった。きっと普段の時間なら私のこの真っ赤な顔も、はっきりと彼の目に映ってしまっていただろうから。
そのとき、鞄の底にしまっていたスマホが振動して、母に迎えに来てもらう予定だったのを思い出した。私はそれを取り出すと、迎えを頼む連絡を送る。
「栄くんは、いつお迎えが来るの?」
隣に立つ彼にそう尋ねると、何だか気まずそうな素振りを見せて、真澄は頭を掻いた。
「僕、今日は両親二人とも帰りが遅くてさ、歩いて帰るんだよね」
「そっか、じゃあもう帰っちゃうのかな?」
二人きりで過ごす時間がいつまでも続いてほしかったけれど、そうそう上手くはいかないようで、私はこっそりため息をついた。
「いや、まだ帰らないよ。もう暗くて、飯島さんを一人きりにするのは心配だから」
先ほどのため息と一緒に心臓まで飛び出てしまうかと思った。私は胸を押さえて彼に背を向けながら、曖昧な返事をする。バクバクと、鼓動は早めのテンポで血液を送る。体が熱かった。
少しの間、気まずい沈黙が下りる中、真澄は何やら真剣な様子で口を開く。
「飯島さん。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど、良いかな?」
私はその眼差しに胸がざわめき、上目遣いに彼を見ると、何も言わずに頷いた。 学習塾の切れかけの電灯がパチパチと点滅して、その光に誘われるように虫が一匹、二匹と宙を舞っていた。
真澄は左手で後頭部を掻くと、やがて決心したように姿勢を正した。彼が私の名前を呼ぶ。極度の緊張の中、真澄の言葉が全然頭に入らない。彼が声を詰まらせたとき、その間隙を縫うように私の空気の読めないお腹がぐうっと大きな音を立てた。いつもより遅くなった影響でしばらく何も口にしていないから、電灯の周りを飛び回っていた虫たちが逃げ出すほどの音量で、私のお腹の警報器はけたたましいサイレンを鳴らす。
私はお腹を押さえると、その場で蹲る。びっくりするほど頬が熱かった。ごめんね、と蚊が鳴くようなか細い声で私は謝る。ここに穴があれば、今すぐにでも穴の中に飛び込んでしまうのに。
真澄は一瞬、ポカンと口を開けるが、すぐに手で口を覆って笑った。
「コンビニ行こうか。何か奢るよ」
真澄は私に向かって手を差し出す。その手を握ればきっと、私の体温が彼に伝わってしまうけど、今更どう思われようと関係ない。
私は真澄の手を握って起き上がる。彼の手は少し汗ばんでいて、何だか様子が変に見えた。
「栄くん、もしかして体調悪い?」
「え? いや、別に。どうかしたの?」
「ううん、何でもない」
肩からずり落ちたトートバッグを握り直すと、星空の下、薄暗い歩道を二人で歩く。車が私たちを追い越すたびに、それが母じゃないことを切に願っていた。
コンビニが見えたとき、私はほんのちょびっとだけ寂しい気持ちになった。それは、隣の真澄が、決して追い越さないように、そして置いていかれないように車道側を歩き続けていてくれて、その些細な優しさに浸っていられる時間の終わりを意味していたからだ。
二人でコンビニに入ると、私は小さなおにぎりを、真澄はレジ横に並べられた唐揚げを手に取った。
「私も唐揚げ食べたいな」
何気なく私がそう口にすると、彼は、じゃあ僕のを少しあげるよ、と何の気なしにそう言った。
私は少しの押し問答の末、結局奢ってもらうことになった塩おにぎりを食べながら、星空を見ていた。今日は新月で、星がとても良く見える。
真澄は私の隣に腰掛けると並んで空を見上げていた。肩と肩が触れ合っている。
「今日は新月だから、星が見やすいね」
ぽつりと、彼は一人でに語り出した。私はおにぎりの最後の一口を飲み込むと、そっと真澄の顔を覗き込む。
「あれがアルタイルで、これがベガ。その間に広がっているのが天の川だね」
「うん。左下のやつがデネブで、三つ合わせて夏の大三角。とっても綺麗だよね」
徐に差し出された唐揚げを一つ取った、私は口に運ぶ。揚げたての唐揚げは、噛み締めるとジュワリと中から肉汁を出して舌の上で踊った。
「ベガって実は、織姫星って別名があるんだよ。そしてアルタイルが彦星なんだ」
真澄も唐揚げを一つ取り出すと口に運ぶ。それを咀嚼しながら彼は、何か迷っているようだった。やがて先ほどのように決心した様子を見せると、真澄は私に向き直る。
「僕はきっと、彦星なんだと思う。授業中、隣に座る飯島さんに見惚れてしまって、とても勉強どころじゃない」
コンビニの淡い光に照らされて、どこか大人びた表情を見せる彼を見つめたまま、暫時は息をするのも忘れていた。真澄の瞳はどこまでも優しく、包み込むようで、二人きりの気恥ずかしさなんてとっくに消え去っていた。
「彦星が織姫を愛したように、僕も飯島さんを好きになっちゃったみたいなんだ。もし、飯島さんが良ければだけど、僕と付き合ってほしい」
体が汗ばんでいるのが、手に取るようにわかった。この体が熱いのは、きっと、長月に残された茹だるような暑さだけが原因ではないのだろう。
「・・・・・・こちらこそ、よろしくお願いします」
触れ合った肩に、温もりが伝わっていた。
ありがとうございましたー、とやる気のない挨拶を背に受けて、私はコンビニから出る。右手に下げたビニール袋の中には、あの日二人で食べた唐揚げが入っている。
少し冷めたそれを口にしながら、私は家路を歩む。そういえば、今日は久しぶりに真澄と話をしたような気がする。まあ、話と言うには随分と短いやりとりだったけれど。
私は空いているもう片方の手で真澄に連絡する。
『真澄くん! 今日帰ったら、久しぶりに電話しても良いかな? 見たら返事してね!』
シュポッと小さな送信音を聞き届けると、私はスマホをポケットにしまう。二、三歩進んだところでそれが小さく振動して、私はすぐにしまったばかりのスマホを取り出すと電源を入れた。
スマホの画面に映し出されていたのは別人からのメールで、私は露骨にため息をついた。文也からのメールを流し見ると、適当な返事をして再度スマホをポケットに押し込む。
一瞬でも真澄だと思って喜んだ時間を返してほしい。私が落胆している間にも、スマホは次々とメールの受信を報せる。進級してから淳に作らされた時代遅れの連絡簿が無ければ、こんなことにはならなかったのに。
文也からのしつこいメールが、最近の寝不足の一因だった。彼は昼だろうと夜だろうと関係なく、ただ話したいという自分勝手な理由で私の時間を奪う。そこに私の気持ちは介入せず、そんなところが苦手だった。
げんなりとしたまま、眠気で覚束ない足取りで私は自宅に着いた。エントランスに足を踏み入れようとしたとき、見覚えのある姿が目に映る。丸い体を曲げてオートロックの扉の前に立ったまま、文也はソワソワと落ち着かない様子だった。
私は先ほど届いたメールが、家に関することのようだったのを思い出した。口から白い息が漏れ出て、呼吸が荒くなっていく。
私は彼に見つかる前に、裏口の方へと周る。心臓がバクバクと早鐘を撞いていて、鍵を回す手が震えていた。どうして彼がここにいるのか、どうして彼が私の家を知っているのか、わからないことが多すぎて泣きそうだった。エレベーターに乗り込むと、私は真澄に電話を掛ける。コール音が一人きりの空間に鳴り響いて、やがてチーンとエレベーターが到着する音と共に途切れた。”お呼びだししましたが、お出になりません”と無機質な声がして、私は寒空の下に放り出される。
私は力なく塀にもたれかかると、その向こう側を眺めた。大きな雲が空を覆い、そこから微かに漏れ出る鈍い光が灰色の町を照らす。塀の向こうに広がる街並みは、薄い靄がかかったようにくすんでいて、とても綺麗には思えなかった。真澄と二人で見た空はあんなに美しかったというのに。
吹きつける風が、私の前髪を舞い上げて抜けていく。頬の温度が冷えていき、いつの間にか伝っていた雫を優しく拭った。
薄々わかっていたけれど、真澄はもう、私に興味が無いのかもしれない。既に切れた呼び出し音がプープーと鳴り響き、お前は孤独なのだとひたすらに現実を突きつけてくる。今日だって、文也に盗られるのが嫌だったから助け舟を出しただけで、最近は話をすることすら減っていた。それに近頃は清香と仲が良さげに見えて、私の声ですら耳に届かないようだったし。
しばらくぼうっと町を見ていると、チーンとエレベーターが開く音がした。中から出てきたのは幼馴染の和美で、私は彼女に出来る限り微笑みかけるが、和美は俯いてそそくさと後ろを通り過ぎて行った。
バタン、ガチャリと、鍵が掛けられるのが廊下に響いて、より一層の孤独を私は感じていた。真澄からは、依然、着信など無い。
私は今まで、誰かに言われるがまま、優しい由乃ちゃんとして生きてきた。みんなに好かれて、いつも誰かが周りで笑っていた、はずだった。
それなのに今は、好きでもない人から異様な好意を向けられ、恋人は私から心が離れていって、幼馴染は私を避けて口も聞いてくれない。ひどく惨めだった。
「・・・・・・もう、疲れたなぁ」
あの日見た空が美しければ美しいほど、今の私に惨いスポットライトが向けられて、晒し上げられる気分になる。良い子の由乃ちゃんで居るために、ひたすらに押し殺していた涙が、もう止まらなかった。
慟哭は、狭い廊下に溶けて消える。その涙を知る者は誰もいない。
「由乃。おーい、由乃?」
ふわついた頭の中に、掠れた声が聞こえた。虚な目をその主に向けると、彼は心配そうな顔で薄くなった頭をボリボリと掻いた。右手に持った書類を、団扇のように振ると、座ったまま私を見つめる。
「由乃、最近大丈夫か? 今まで忘れ物なんてしたことなかったのに、今月でもう四回目。その上今回は進路希望調査だぞ? 由乃らしくないな。期末テストも明日に控えているし、何か心配事でもあるんなら先生に教えてほしい。先生は、由乃の味方だからな」
胸を反らして、右の拳でドンと叩く。長年の実績に基づいた絶対的自信を握りしめて、担任の淳は得意顔だ。私はその姿に辟易して、ぶっきらぼうに返事をする。淳は、あからさまにムッとした表情を見せた。
この男は、唯崎中学校に赴任して来て、はや六年になる。ここから遠く離れた漁師町の産まれで、努力と根気が取り柄の、暑苦しい人間だ。いつかのドラマのような熱血教師に憧れて、全力で生徒に向き合えば必ず応えてくれると信じている、おめでたくてどうしようもない、そんな馬鹿だ。だから、私がこうなるまで様子がおかしいことに気づかない。生徒じゃなくて、生徒と向き合っている気になっている自分が大好きな教師なのだ。
「良いか、由乃。先生はその昔、名だたる不良をこの拳一つで更生させてきたものだ。だから、相談するのを不安がる必要なんてないんだぞ。あのときはなぁ・・・・・・」
淳の持つ鉄板ネタ、不良を更生させた話が始まってしまって、私はバレないようにため息をついた。今日は久しぶりに真澄と帰る約束が出来たというのに、この様子じゃいつになるかわかったものではない。
一通り話し終わると淳は、ちょっと一服してくると言って職員室から出ていった。私はその後ろ姿を睨みつける。正直言って、私は彼のことが嫌いだった。
『由乃なら、唯崎高校首席! いや、あの名門への進学も可能だと、私は考えています!』
そう誇らしげに語ったのは、一学期のことだったか。私の母は何かと見栄を張る人で、それを私にも強要してくる困った人だった。
いつの日か、私がピアノのコンクールで金賞を取った日のこと。彼女は頑張った由乃へのご褒美、なんて言って私をリストランテへと連れて行った。私はリストランテなんて、そもそもその存在すら知らずにいて、それが高級なイタリア料理のお店のことだと知ったのはつい最近だった。
味のよくわからない食事は子供の舌には合わなくて、それをフォークでつつくと、行儀が悪いと母に手をはたかれた。そのくせ自分は料理の写真を撮り、自身のブログに投稿していた。これのどこが行儀の良い行動なのかいまいち私にはわからなかったが、母に叱られるのが嫌で黙ったまま料理を口に運んだ。
結局その日は、食べたくもない料理でお腹を満たし、仕事のせいで一緒に食べれなかった父の運転する車に揺られて家に帰った。せっかくのご褒美だと言うのに、こんなことなら家で母の作るカルボナーラが食べたかった。私からすると、高級イタリアンなんかより、母さんには秘密だぞ、と言って父が買ってくれたチェーン店のハンバーガーの方が、 何倍も美味しかった。
その日、私はピアノ教室を辞めると決めた。
そんな自分勝手な母は淳のこの言葉に、すっかりいい気になってしまって、お隣の東條家にも自慢していた。
『ウチの子は、あの名門私立にも合格できるって、先生のお墨付きなのよ。それで、御宅の和美ちゃんはどうなの?』
勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべて、母は和美の母にそう言った。彼女はひどくショックを受けた様子で、その日から顔を合わせても、私に挨拶一つすることが無くなった。あの日からだっけな、和美が私に笑いかけてくれなくなったのは。
「スマンスマン、煙草と酒が先生の生きがいでな。えっと、そうそう、進路の話だったな」
煙の臭いを全身に纏いながら、淳は私の目の前に座り込んだ。随分と近い距離から鼻につく香りが漂ってきて、私は気持ちが悪くなる。それが寝不足と相まって、だんだん吐きそうになった私は、徐に口を押さえて立ち上がった。
「すみません、ちょっとトイレに行ってきます」
ガタンと音を立てて小さな椅子が倒れる。制止しようと淳が上げた声も、私には届かない。私は職員室を飛び出すと、一番近くのトイレに駆け込んだ。
個室に飛び込むと、鍵を掛ける余裕も無くて、便器の中にお腹の中の物を全てぶちまけた。胃の中から何かが迫り上がってくる感覚の後に、喉を焼くピリッとした痛みがはしった。放課後の誰も居ない女子トイレに、私がえずく音だけが響いていて、ここ以外の時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
数分間そうしていると、やがて吐く物も無くなり、少しだけ気分が楽になった。レバーを引いて水を流すと、私は壁に背を預けたままゆっくりと立ち上がる。よたよたと覚束ない足取りで洗面所まで行くと、蛇口をひねった。少しだけ白くくすんだ水流が、その勢いのまま排水口へと吸い込まれていく。
私はそれを掬い上げると、口に含んだ。くちゅくちゅと口を濯いで、ぺっと渦を巻く水流に向かって吐き出す。口から溢れた水は赤黒く染まっていて、私はそこで初めて自分が血を吐いていたことに気づいた。言い表せない不安が胸中に渦巻く。
私は不安で頭が真っ白になったままトイレから出た。そのままの足取りで、職員室へと戻る。
唯崎中学校は、登校してきた生徒の様子がすぐにわかるよう、昇降口のすぐ近くに職員室がある。そのため、職員室から昇降口は丸見えだった。
職員室の扉に手をかけた私の耳に、ある少女の声が届いた。そちらを振り返ると、昇降口で楽しげに会話をしながら靴を履く、二人の人影が見える。一人は小柄な少女、高嶺清香。もう一人は、一緒に帰ろうと約束していたはずの真澄だった。
私の手は力なく垂れ下がる。私の頼りない女の勘ってやつは、どうやら上手く機能していたらしい。真澄はとっくに私なんか飽きていて、清香に乗り換えようとしていたのだ。
ふと横を向いたとき、鍵の壊れて開かなくなった窓に映る、私の姿が見えた。もし私が真澄だとしても、きっと同じように私なんか捨てて可愛らしい清香に乗り換えていただろう。そう思ってしまうほど、窓ガラスに映り込んだ私は醜かった。目の下には色濃い隈が浮かんでいて、髪の毛はボサボサ。そして何より血色が悪く、顔は真っ青で、昔話に現れる妖怪のようだった。
私は恥ずかしさから顔を真っ赤に染める。私なんかが彼の一番で居続けれるなんて、そんな烏滸がましいことあるわけなかったのだ。途端に自分が何とも惨めな存在に思えてきて、ただ静かに涙を流した。
彼らのキャッキャと楽しげに笑う声が遠のいていくのを待って、私は職員室の扉を開ける。荷物を置いたまま放置していた淳の席まで向かうと、私はそこにいたはずの彼の姿を探した。
職員室中を見渡しても、淳の姿がなく、どうやら彼は今席を外しているようだった。私は先ほど自分が倒した椅子に座ると、彼が帰ってくるのを待つ。時計の針がカチコチと、私を置き去りにしたまま回っていた。
時計の針がちょうど六時を指したとき、完全下校を報せるチャイムが木製の古びた校舎を揺らした。結局、淳は帰ってこなかった。私は諦めて鞄を持つと席を立つ。職員室を後にしようと、扉に手をかけたとき、とある物が目に入った。
私は淳の席まで戻るとそれを持ち上げる。それは淳にとって必要不可欠な物、彼の愛飲する煙草だった。
どうせ私のことを見る人なんていないのだから、私がどうなろうと構わないか。
私は横に置かれていたライターと共に、それを冬服のポケットに押し込んだ。そうしたまま、何事も無かったかのように背筋を伸ばして、私は職員室を後にする。
日が落ちて、旧校舎の影に覆われるここは、何かを隠すのにもってこいの場所だった。私はライターを取り出すと両手で固く握り込む。しばらくの格闘の末、ボワっと赤い火が上がった。
「わっ、熱っ」
驚いて落としそうになったライターを、地面に触れる既のところでキャッチすると、消えてしまった炎をもう一度点火する。二度目はスムーズに火がついた。
先の方で揺らめく炎に瞳が奪われる。何でもないそれが、異常なほど綺麗に見えた。
私はもう一方の手で煙草の箱を握りしめていたが、ゆっくりとそれから一本取り出すと、先端を火にかざす。チリチリと燃える音がして、やがて白い煙が立ち上がった。
ああ、ついにやってしまうんだ。左の人差し指と中指で煙草を挟むと、口元へと運ぶ。もうどうだって良かった。母の想いに押し潰されるのも、文也に愛を押し付けられるのも、真澄の手に触れられないのも、これで忘れられる気がした。
父は私が産まれる前までは、喫煙者だったらしい。純粋な瞳で私は父に何故体に悪いのに煙草を吸っていたのか、尋ねたことがあった。
『どんなに辛いことがあっても、これがあれば煙に巻けるような気がしてたからかな』
そう格好つけて親指を立てる父の言葉の意味がわからず、ただ首を傾げていたあの頃とはもう違う。私だって、同じ思いで火を灯したのだから。
次に脳裏に浮かんだのは、真澄の姿だった。 母の期待が怖くて逃げ出したいという私の気持ちを、彼だけは唯一理解してくれた。
『由乃は、由乃のやりたいようにやれば良いんだよ。大丈夫、僕が隣にいるから』
そう何度も励ましてくれた、あの優しい声。そっと頭を撫でてくれた、あの大きな手のひら。二人で星を見上げながら、触れ合った肩の温もり。
「また一緒に、夏の大三角を見たかったなぁ」
私がベガ、彼がアルタイル。二人の間を裂いて流れるは天の川。バケツを溢したように空いっぱいに広がる星屑に、二人でささやかな愛を叫びたかった。
小さな頃、笹に下げた短冊の位置が気に入らなくて、取り外しそうと引っ張ったら願い事が千切れてしまったのを思い出す。あのときはいっぱい泣いたっけ。確か、願いは、”ひこぼしみたいなステキなひととけっこんできますように”だったか。でも今度はあのときとは違う。自らの意思で願いを捨てるのだ。
吸い込んだ煙が喉の傷に触れて鋭い痛みが走る。それでも私は辞める気にならなかった。この炎が儚い恋心を燃やし尽くすまで離すつもりはなかった。
ポロポロと大粒の涙が頬を伝って制服の色を濃ゆく染める。だんだんと、押さえ込んでいた声が、涙が、溢れ出して止まらなかった。
まだ半分にも到達していない煙草が口から落下する。胸が苦しかった。私はきっと、誰よりも愚かな人間なのだろう。裏切られて、捨てられて、それを理解し乗り越えようとしてもなお、あの笑顔を忘れられなかった。あの日、胸に灯った炎が今もなお燃え続けている。きっと、これを最後まで吸ってしまえば、私の体は二度と元には戻らないだろう。
キスはレモンの味だと、お姫様の出る古いアニメ映画で主人公が言っていた。でも彼と交わすのを夢見ていた私の唇はもう、苦い白煙の味がするはずだ。私はこんなに、ダメな子だから。
破り捨てたはずの淡い願いが、強く心を締め付ける。
「ひぐっ、もうやだぁ。忘れるって、決めたのに。ぐすっ、私って、やっぱりダメなんだ」
誰かに届いてほしくて口から漏れ出した言葉が、風に攫われ溶けて消える。私は膝から崩れ落ちると、地面に手をつき、意味もなく拳を叩きつけた。柔い手のひらが砂利に擦れて、真紅の雫を溢す。
慟哭は空を揺らす。完全に闇と化した空には、どこからともなく分厚い雲がやってきて、瞬く間に星を覆い隠した。
由乃は闇の中、小さな子供のように泣きじゃくっている。その胸に灯った小さな炎は、誰かがふっと息を吹きかけたなら、すぐに消えてしまいそうなほど弱い炎だった。
あれからどうやって自宅に帰ったのか、私には全く記憶がない。ただ、玄関のドアを開けたとき、遅かったねと苛立たしげに言った母の顔が、私を見た瞬間グニャリと歪んだことだけは覚えている。
そして一夜明け、私は今日もいつものように学校へと来ていた。
昨日は何故か、母が私の手を握って一緒にベッドで眠ってくれたから、いつもよりぐっすりと寝ることができた。おかげで、昨日より随分と頭が冴えている。
他にも気になることがあった。何と、母は私に学校休んでも良いんだよ、と言ったのだ。朝ご飯の後片付けをする背中が、いつもより小さく見えた。
『ううん、大丈夫。大事な時期だからね』
私がそう言うと、母は何故か泣きながら私を抱きしめた。
『痛いよ、お母さん。急がなきゃ遅刻しちゃうよ』
母は私のお腹に顔を埋めたまま、ごめんね由乃、ごめんねとひたすらに泣き続けていた。私は背中に回された腕をゆっくりとどけると、困ったまま母に言う。
『・・・・・・行ってきます』
ドアを開けた私の背に、母は声をかけた。いつもと違う、どこまでも柔らかい声だった。
『行ってらっしゃい、由乃』
バタンと音がして、母の姿は扉の向こうに消えていった。私の胸に何か温かい物が流れ込み、私は目頭を押さえた。
今更、何なんだよ。届かないことがわかっていても、届かないように私は心の中にその言葉を仕舞う。向こう側に消える直前の母の顔が瞼の裏に焼きついて離れない。もう二度と、あんな顔させたくなかった。
全教科テストを解き終わった私は、ふと隣の席を見る。 私の隣には誰もおらず、今日は欠席のようだった。真面目な彼女にしては珍しい。 そういえば、彼女が学校を欠席するのは初めてのことではないか、と疲労困憊の頭で考えた。
彼女は転校してきてからしばらくは誰とも話す様子を見せず、教室の隅で黙って本を読んでいた。その姿が何となく心配で、私から声をかけたのが交友の始まりだった。
最初は戸惑った顔をしていたが、登校してきた彼女に挨拶したり、移動教室のたびに一緒に行動するうちに、だんだんと柔らかい笑顔を見せるようになっていって、私はそれが嬉しかった。
かなり仲良くなった頃、私は彼女に連絡先の交換を持ちかけた。今まで交換していなかったのが不思議だったが、何故か彼女は一度も遊びにスマホを持ってくることがなくて、何となく忘れてしまっていたのだ。
彼女が私の言葉に困ったように眉を寄せたから、私は嫌だったのかな、と頭を下げた。すると彼女は首をブンブンと横に振った。
『ううん、違うの。飯島さんと連絡先を交換したくないわけじゃなくて、私のお母さんがさ、ちょっと独特な考え方をしてて、スマホを買ってもらえてないの。お古のガラケーならあるんだけど』
その言葉で、私は私が彼女に嫌われてないとわかって安堵した。私がその旨を伝えると、彼女が顔を真っ赤にして、嫌いになるわけないじゃん、と強く反論するのが可愛かったのを覚えている。
彼女は転校当初より随分と長くなった髪の毛をいじりながら、上目遣いに私を見ていた。
『そんなに見て、どうしたの?』
私の言葉に彼女は顔を赤くして目を逸らす。それが何か言いたいことを我慢しているように見えて、私は戯けて彼女に尋ねた。
『・・・・・・逆に飯島さんは私のこと、好き?』
唐突な言葉に私は一瞬言葉を失ってしまうが、すぐに、あんなに控えめだった子がこんなに大胆になるなんて、と成長を喜ぶ親のような気分になって笑った。
『うん、大好き』
私史上、最高級の笑顔でそう答えた。彼女は恥ずかしそうに目を伏せたから、その表情までは見えなかった。だけど、私には彼女が喜んでいるように見えて、とても嬉しかったのを覚えている。
ふと、我に返った私は窓を見つめた。私の姿が反射する窓の外にはチラチラと雪が降り始めて、校庭を白く染め上げている。それが今年の初雪だった。
テストが終わり、雨でビチャビチャになった落ち葉を踏み締めるような、憂鬱とした気持ちで私は家に帰る。やらなきゃいけないことが山ほど残っていたからだ。
ふとスマホがメールの受信を報せる。知らないアドレスからだった。私は少し迷った後、それを開く。
雪が降っていた。校庭を白く染め上げて降っていた。そのメールはたった一枚の画像だった。そこに写っているのは私で、左の手で煙草を持っている。口からは白い煙が立ち上っていて、誰の目から見ても、それが喫煙現場であることは明らかだった。
私の頭の中にも、雪が降り積もるような衝撃が訪れる。もし、これが流出したら? もし、これが母に届いたら? もし、これを真澄に見られたら? 不安が湧き水みたいに溢れかえって、呼吸が安定しない。ただひたすらに怖かった。
深夜、部屋の中で、私は膝を抱えてプルプルと子鹿のように震えていた。ドンドンと玄関の扉を叩く音が止まない。誰かに助けてほしいけど、先ほど母から届いたメッセージには”吹雪の影響で、今日は帰れそうにありません。塾に行かなくても良いから、家で暖かくしてるのよ”と書かれていて、当分は一人きりが決定のようだった。
今日は、ちょうど彼が少年院から出所する日だ。きっと扉の向こうに居て、私に恨みを持ち、私を追い詰めようとメールを送って今ここにいるのは昌一なのだろう。その証拠に、ドアを叩く音は先ほどから強さを増している。
私は祈るような気持ちで真澄にメールを送信した。あの日、私のことが好きだと言ってくれた彼ならば、まるでアニメの主人公みたいに颯爽と現れてこのピンチから私を救ってくれると信じていたから。
続け様に何度もメールを送信してから、もうすぐ三十分が経とうとしていた。結局、彼が私に返信を送ることはなかった。かつてなら、彼はこの時間まで勉強していたからすぐに返信をくれていたのに、今となっては返す気も湧かないらしい。私はこうもちっぽけな存在だったのかと、涙を流す気力さえ失っていた。
もう、疲れた。私はゆっくりと立ち上がると、ベランダの鍵を開けた。裸足のまま外に出ると、全身が凍りつくような寒さに見舞われる。部屋に入り込んだ風が、いつでも彼を呼べるようにとせっかく整理していた部屋を汚した。
私は冷たい塀にもたれながら、ちぎり取ったノートのページの一つにこう記す。
『もう、耐えられません。今までありがとうございました。
ずっと、みんなに好かれようって、良い子でいようって頑張ってたけど、もういいです。どう頑張っても、私のことが嫌いな人はいて、その人から向けられる悪意に耐えられるほど、私は強くありませんでした。
万が一のために、スマホを同封しておきます。バイバイ、みんな』
書き終わったそのとき、一際強い風が吹いて、切れ端が舞った。それを拾う気にもなれなくて、私はもう一枚のページを取り出す。今度はこう記した。
『これを見つけた誰かが真実に辿り着きますように』
今回はちゃんと、スマホと一緒に袋に入れることができた。私は小さく笑うと、塀の上によじ登る。冷たい風に吹き曝されて、手足の感覚が無くなっていた。
目の前に広がる空には、分厚い雲が広がっていて、そこから延々と雪が降り続けている。
私の最後にはお似合いの空だ、なんて回らなくなった頭で考えながら、私は全身から力を抜いた。 ゆっくりと体が前に倒れていく。
「ああ、綺麗だなぁ」
最後に由乃が見たのは、一面に広がる雪化粧。降りしきる雪が、町をまるで別人のように塗り替えていた。
「最後に見るのが、大嫌いなこの町じゃなくて良かった」
由乃の言葉は、荒れ狂う猛吹雪によってかき消される。その直後、ドンッと、野山を揺らすような地響きが轟いた。
その日、飯島由乃が自宅マンションのベランダから飛び降りた。白い地面を真っ赤に塗り替えて。彼女のスマホには、メールの送信履歴が何件も残っている。”たすけて”と。