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おおお…第53話、読んだわ。 香の海に戻された縫季の静かな痛みがすごく伝わってきた。白い世界に一人立って、「置いてきた」って自問するところ、胸がぎゅっとなったわ。帝辛の孤独を知ってなお、「それでいいのか」って問い続ける縫季の葛藤が、静かな描写の中でめちゃくちゃ熱くて。 管理官の平坦な報告が逆に冷たく響くのも、灯台の世界観を感じさせる。最後の「報告がある」で終わるのがズルいわ…続き気になる🔥
世界が、ふっと遠のいた。
敷石の硬さが消える。朝の冷気が、皮膚から離れる。
やがて、静かな湿り気が体に張り付く。
香の海だ。
白い。
縫季が目を開けると、世界が白かった。
白い光。白い霧。白い静寂。
足元に、何もない。それでも、立っている。
香の海。
縫季は、戻ってきた。
(……戻された)
戻ってきた、ではない。戻す側の力が、先にあった。
胸の奥で呟く。呟いても、実感がない。さっきまでの熱だけが、まだ掌の内側に残っている。
――置いてきた。
そう思った瞬間、言葉の形が崩れる。置いてきたのは、何だ。王太子府か。笑みか。それとも、自分の方か。
「縫香官」
声が、落ちてくる。
縫季は顔を上げる。
白い記録盤の前に、管理官が立っていた。
薄い灰の衣。人の姿。香の海に長くいる者らしい、白さの染みた輪郭。
感情がないのではない。職務の場で、表へ出さないだけだ。
ただ、その抑え方が、灯台の規定そのものに見えた。
縫季は、静かに答えた。
「……戻ったぞ」
管理官は、何も言わない。ただ、縫季を見ている。
見られている感覚が、重い。
「任務完了だ」
管理官の声は、平坦だった。
縫季は頷く。
「……ああ」
「……清朗は……」
縫季は、言いかけて止めた。名前を出せば、またあの甘い香が喉に貼りつく。
管理官が言った。
「清朗は世界線に残る。観測値は、保存記録上の収束へ戻り始めた」
収束へ戻る。それは赦しではない。ただの整理だ。誰かの生が、照合可能な形へ寄せられていくだけ。
「……帝辛は?」
縫季の喉が、わずかに詰まる。
管理官は、一拍置いた。
「……孤独に戻った」
それ以上は言わない。言わないことが、白い霧より冷たい。
「そうか」
沈黙。
香の海が、静かに揺れている。
白い波。白い光。どこまでも、白い。
縫季は、その海を見下ろした。戻された。でも、何も変わっていない。
香の海は、相変わらず静かで。管理官は、相変わらず職務の顔を崩さない。
ここには「時間」がない。
だから、縫季がいなかった時間も。帝辛と過ごした時間も。全部、等しく「無」になる。
(……それでいいのか)
胸の奥で、問いが浮かぶ。浮かんでも、答えは出ない。
管理官が、静かに言った。
「縫香官の補正は、最小誤差で完了した」
褒めているのか。それとも、事実を告げているだけか。
分からない。分からないが、どちらでもいい気がした。
管理官は続ける。
「歪みへの補修は、必要最小限で完了した」
「殷の線は、記録上もっとも強い収束へ寄っている」
「現時点の均衡は保たれた」
その言葉が、胸に刺さる。
均衡。
それが、当時の灯台制度が「正しさ」と呼んでいたものだ。
清朗を遠ざけた。帝辛を孤独にした。
それが、正しかったのか。
管理官は、縫季の表情を見た。だが、事情を聞こうとはしない。
当時の照合記録に必要なのは感情の理由ではなく、任務結果だけだった。管理官は、規定どおりに告げる。
「お前の任務は、終わった」
「休め」
帰還直後の隔離手順。優しさの形にも、押しつけにも聞こえる区切り。
縫季は拳を握る。
(……終わった?)
この胸の痛みは、任務で片付くのか。
縫季は、管理官を見た。
「……帝辛は、どうなる」
管理官は、わずかに間を置く。
「帝辛の線は、現存する後年の記録へ収束しつつある」
「孤独を抱え」
「民を守り」
「その先は――まだ照合中だ」
言葉が、途切れる。
縫季は、喉が渇くのを感じた。
「照合中?」
管理官は、それ以上を言わない。確定していないことを告げないのも、灯台の規定だった。
縫季の胸が、ひとつ沈む。
固定点は殷滅亡だ。その収束の中で、保存記録の帝辛は死ぬ。
縫季は後年の記録として知っていた。
分かっていたのに、胸が痛い。
管理官が、静かに言う。
「縫香官」
「それが、いま確認できる最も強い収束だ」
「お前一人の判断で進路そのものを決めてはならない」
縫季は、目を閉じる。
帝辛の笑顔が、浮かぶ。最後に見た、あの目。
失うと知った者の目だった。
(……笑えるか)
俺が、笑えるのか。君を置いて。
縫季は、目を開けた。
「……分かってる」
声は、静かだった。
「俺に変えられることじゃない」
言い切ったはずなのに、胸が反発する。終わったことにしたくない何かが、まだ熱い。
管理官は待たない。
「休め」
二度目のその言葉は、区切りではなく、押さえつけだった。
香の海の白さが、少しだけ硬くなる。
縫季は、頷いた。
頷いて、管理官から視線を外す。香の海を見下ろす。
白い波が、静かに揺れている。
その向こうに、何があるのか。縫季には、まだ分からない。
――分からないままでもいい、と言い聞かせる。
管理官の気配が、遠のいていく。
縫季は、一人になる。
香の海の縁に、立ったまま。
白い光だけが、静かに満ちていた。
縫季はその場から歩き出そうとする。
しかし。
「待て」
管理官の声が、背後からもう一度だけ落ちた。
「……報告がある」