テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
管理官の声は、低くも高くもない。白い霧の中に、ただ落ちる。
縫季は振り返らなかった。振り返れば、記録盤の光に立つ管理官の輪郭が近くなる。近くなれば、心の中のものが測られる気がした。
(報告)
嫌な言葉だ。管理官がその語を使うとき、そこには必ず閉じた記録がある。慰めも、迷いも、選択肢もない。
縫季は、香の海を見下ろしたまま答えた。
「……言え」
声が乾いている。乾きの奥に、帝辛の最後の目が引っかかったままだった。
管理官は、間を置かない。
「後年の観測記録が閉じた」
「殷王・帝辛の死を確認した」
一瞬、意味が入ってこない。
死。
その一文字が、白い霧の中で浮いたまま、落ちてこない。
縫季は目を瞬かせた。瞬きをしても、白い。白いまま、何も変わらない。
「……何?」
自分の声が、自分のものに聞こえない。喉から勝手に落ちただけの音。
縫季はようやく振り返る。
管理官はそこに立っている。いつも通りの記録盤の光。いつも通り、職務へ押し込めた表情。
(嘘だ)
そう思ったのに、嘘だと言える根拠がない。管理官は、閉じた観測記録を読み上げているだけだ。ここで偽る理由はない。
縫季の指先が、ゆっくりと掌を握った。握ると、爪が皮膚に食い込む。痛い。痛いのに、胸の奥の方がずっと痛い。
「……いつだ」
縫季は、言い終えられなかった。いつ、なんて。ここでは意味が薄い。
管理官が淡々と言う。
「お前が去った後だ」
その言葉が、胸の中を削った。
縫季は口を開こうとした。だが、言葉が立たない。喉の奥に、砂が詰まったみたいに動かない。
管理官は続ける。
「清朗を失い、孤独に耐えながら」
縫季は、息を吸った。吸った途端、胸がきゅう、と縮む。縮んで、酸素が届かない。
孤独に耐えながら。
――戻った。
あいつは、孤独に戻った。さっき管理官が言った、その言葉の意味が、今になって形を持つ。
管理官は言う。
「それでも民を守り続けた」
縫季の視界が、少し滲む。涙ではない。滲んでいるのは、焦点の方だ。世界が白いせいで、目が勝手に迷子になる。
「だが」
管理官の声が、わずかに硬くなる。硬くなったように聞こえただけかもしれない。けれど、縫季の耳はそれを拾った。
「黒闢に洗脳され、自我を削がれ、幽閉された」
縫季の中で、何かが、音を立てた。音は外に出ない。胸の奥だけで、骨が折れるような音。
洗脳。幽閉。
それは、帝辛がいちばん嫌う形だ。王であることを奪われる。民から隔てられる。言葉も、視線も、道も、閉じられる。
縫季は、唇を噛んだ。噛むと、血の味がする。血の味がするのに、現実感が増えない。
管理官が、最後の一節を落とす。
「そして――十数年後、死んだ」
縫季の中で、時間が捩れた。
さっきまで、あいつは笑っていた。俺の前で、王の顔で、微笑んでいた。
十数年。そのあいだに、何があった。何を言って、何を飲み込み、何を守って、何を失った。
縫季は、声が出ないまま立ち尽くす。
白い霧が、呼吸に入る。霧は冷たくない。冷たくないのに、肺が冷える。
管理官が言った。
「ここには時間が存在しない」
縫季は笑いそうになった。笑えない。でも、笑いそうになる。
ふざけているわけじゃない。時間がない場所で、時間の話をされることが、ただ残酷だ。
管理官は続ける。
「あの世界線では数年が過ぎたが、ここではほんの一瞬だ」
一瞬。
縫季は、膝が抜けそうになるのをこらえた。一瞬で、死ぬ。一瞬で、幽閉される。一瞬で、孤独を積み重ねる。
(……記録どおり、か)
その言葉が、胸の中で勝手に浮かぶ。浮かんだ瞬間、吐き気がした。
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
保存記録。固定点。変えられなかった結末。
最初から分かっていた。分かっていたはずだ。
でも。
縫季は、目を閉じた。
帝辛の笑顔が浮かぶ。最後の微笑。目尻のほんのわずかな柔らかさ。背筋のまっすぐさ。「そうか」と言った声。
(俺が……側にいたのに)
いた。ずっと、側にいた。なのに、何も変えられなかった。
縫季の肩が震える。震えは止まらない。止める理由がない。
(いや、違う)
縫季は、息を吸い直した。吸い直して、言い聞かせる。
(俺がいても、結果は変わらなかった)
殷滅亡という固定点。そこへ至る過程に触れても、失われた生まで無かったことにはできない。
その理屈を、縫季は何度も口にしてきた。口にしてきたのに、今、理屈が喉を通らない。
一番踏み込みたくなかった場所だった。だから、最後まで踏み込まなかった。それでも、胸が痛い。
管理官が静かに言う。
「縫香官」
呼ばれただけで、縫季の中の何かが折れた。
縫季の頬を、熱いものが伝った。
涙だ。
気づいてから、もう止められない。一粒だけじゃない。白い霧の中に、透明な線が落ちる。
縫季は、歯を食いしばった。泣くのは、任務に要らない。でも、泣かない方が嘘になる。
「俺は……」
声が掠れる。掠れて、形にならない。
「俺は……何も変えられなかった」
コメント
1件
読み終えました。縫季が「何も変えられなかった」と呟くその瞬間まで、ずっと息が詰まるようでした。管理官の淡々とした口調と、縫季の内側で音を立てて折れていく感情の対比が、あまりに鮮やかで……。特に「涙だ。気づいてから、もう止められない」の一文に、縫季のすべてが込められているように感じました。胸が熱くなりました。