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岡崎宿の猫
「ごめんねタマ、どうしてもおっ父とさんが許してくれないんだよ。お前がうちにもらわれて来てそろそろ十年が経つだろ?おっ父とさんは猫は十年飼うと化け猫になるという迷信を信じてるんだ。どうしてもお前を捨てて来いって聞かないんだよ。私はあんたを捨てたくなんか無いんだけど逆らえばまた折檻される、どうか薄情な私を恨まないでおくれ・・・」
満月の夜、登勢とせは廃寺となった山寺の山門前にある、猫石と呼ばれる石の上に白猫のタマをそっと下ろした。猫石とは猫が仰臥している姿に似ている為いつの間にかそう呼ばれるようになった石だ。
タマは年老いて虹彩の薄くなった瞳でジッと登勢を見つめている。
獣のこととて、登勢の話が理解できた筈は無い。しかし、タマは全てを飲み込んだように月を見上げ、嗄れた声でビャァ!と鳴いた。
登勢は何度も振り返り、タマに手を振りながら山道を下って行った。
*******
「一刀斎は山形屋の船でさっさと江戸に帰っちまうし、なんだか狐につままれたみたいだよ」
岡崎の宿に差し掛かった時、お紺が思い出したように志麻に訊いた。
二川宿で堂本一家と対決してから宿役人のお調べはあったものの、差したるお咎めもなく無罪放免となった。非はあちらにあると言えども喧嘩両成敗が天下の御常法である。
「ねえ、一刀斎って本当に新撰組の斎藤一なのかしら?」
「え〜違うと思うよ・・・なんでそう思うの?」
「私たちあれだけ暴れたのにあっさり許されてお咎めなしだよ、きっと新撰組が裏から手を回したのさ、そう考えなけりゃ納得がいかないよ」
「そうかなぁ、私は山形屋さんの力だと思うけどな」
「まぁ、無事旅が続けられるんだからどっちだっていいけど」
お紺があっさりと興味を失った。
「ねえ、岡崎って権現様がお生まれになった所だよね?」
今度は家康に鞍替えだ。
「五万石でも岡崎様は お城下まで船が着く、ってね。お座敷でもよく歌ってたよ」
「それはずっと後の岡崎城のことでしょ、家康公が幼少の頃の岡崎城は天守閣も無く櫓や門の屋根も茅葺だったそうよ」
「あら、そうなの、知らなかった」
お紺はあっさり頷いたかと思うと、ふぅとため息を吐いた。
「ねぇ、今夜は岡崎の旅籠に泊まろうよ、足が痛くてもうこれ以上は歩けない」
既に権現様からも心は離れて、今夜の宿に矛先が移ったようだ。
まだ陽が高いので三里先の池鯉鮒宿まで行きたいのだが、お紺の様子を見ると足を引き摺っていてとても行けそうも無い。
仕方なく頷くとお紺は急に元気になって先に立って歩き始めた。
「ちょっとお紺さん元気じゃない、足の痛みはどうしたの!」
「へへっ、志麻ちゃんチョロい、すぐ騙されるんだから!」
「も〜!」
志麻は口を尖らせたが、お紺は一向に気にした様子がない。志麻は諦めてお紺に従うことにした。
「あっ、あそこにしよう!」
岡崎に着くと、お紺が一軒の旅籠を指差して叫んだ。小さいが小綺麗な感じの宿である。
見ると宿の入り口に白い猫が座ってこっちを見ていた。
「まるで招き猫みたいね」
志麻も思わず笑顔になる。
腰高障子には『宿』の文字と一緒に『三河屋』の屋号が書いてあった。
「いらっしゃいませ」
お紺が土間に足を踏み入れると浅葱あさぎ色の小袖に臙脂えんじの前掛けをかけた仲居が声を掛けてきた。まだ十代だろうか、つぶらな瞳の丸顔に桃割れに結った髪が似合って可愛い。
「お泊まりですか?」
「部屋は空いてるかい?女二人だから静かな離れなんかあるといいんだけど?」
「生憎とうちには離れはございませんが、二階の奥の部屋なら静かでございますよ」
「志麻ちゃんどうする?」
お紺が振り向いて訊いた。
「いいんじゃない、白猫ちゃんが出迎えてくれたし」
「えっ白猫!」
仲居がいきなり外に駆け出した。入り口付近に立ってキョロキョロと通りを見回している。
白猫は見つからなかったのか、トボトボと帰って来た。
「失礼しましたお客さん・・・」
申し訳なさそうに頭を下げた。しかし、心ここに在らずといった態で通りを気にしている。
「このうちの猫じゃないの?」
志麻が訊いたのは仲居の態度がなんだか気になったからだ。
「い、いえ、前はうちの猫だったんですが・・・」
仲居は言い辛そうに語尾を濁した。
「さ、どうぞそこにお掛けください、すぐすすぎの水を持って参ります」
話柄を変えるように上がり框を手で示すと、仲居はすすぎ桶を取りに奥へ引っ込んで行った。
「どうしたのかしら、なんだか様子が変だったけど?」
お紺が訝しげな顔で呟くのを聞いて、志麻が言った。
「あまり詮索しない方がいいわ、誰にだって言いたく無い事はあるものよ」
「そうだね、きっと浮気症な猫なのよ。あちこちで餌をもらってどこの飼い猫かわからなくなってるんだわ」
そんな事を言い合っていると仲居が桶を持って戻って来た。
「二階の菊の間にご案内いたします」
志麻とお紺は汚れた足袋を脱いで足をすすぐと、仲居に案内されて二階へと上がって行った。
*******
「ごめんください」
障子の外の廊下から男の声が聞こえた。
「宿帳の記入をお願いに参りました」
どうぞ、と促してやると初老の男が入って来た。
「この宿の主人あるじ忠吉と申します。本日はお泊まりありがとうございます、早速ですが宿町にお名前を頂戴いたしたいのですが」
白髪の混じった頭を下げる。
まず志麻の前に宿帳を置いた。格好から武家の娘と判断したらしい。
名前と在所を書いてお紺に回す。
お紺は宿帳に筆を走らせながら何気なく忠吉に訊いた。
「そういえば、ここに入る時表に白猫がいたけどここの猫かい?」
忠吉の顔からサッと血の気が引いた。
「な、なんですって!」
お紺が驚いて手を滑らせたので宿帳の文字が酷く歪んだ。
「ああ、びっくりした。急に大声を出すんだもの」
「も、申し訳ありません。ちょっと驚いたものですから・・・」
「まったくどうしたんだい?仲居さんといいご主人といい、猫の事になると急に態度が変わっちまう?」
「仲居?」
忠吉が訝しげな顔をした。
「わっちらをここに通してくれた娘さ」
「ああ、あれはうちの娘で登勢と言います。今、旅籠の仕事を覚えさせているところでして・・・」
忠吉は急にソワソワしてお紺から宿帳をひったくった。
「そ、それではごゆっくりお過ごしくださいませ、夕飯は後で調えさせますので」
あたふたと障子を閉めて出て行った。
「なんだろねぇ、あの猫なんだか仔細がありそうだねぇ?」
「いいじゃないお紺さん、私たちには関係ない事よ」
「そうかねぇ、なんだか嫌な予感がする」
「やめてよ、もう。これ以上厄介ごとに巻き込まれるのは御免だからね!」
「そうだね、また伊勢が遠くなっちまう・・・」
志麻とお紺は猫の事は忘れる事にして、早々に風呂に行く事にした。
*******
「登勢、どういう事だ!」
忠吉が凄い剣幕で登勢を問い詰めた。
「どこかに隠れて飼っているんだろう!」
隣で妻のお信が相槌を打つ。
「そうだよ、あれほど捨てて来いって言ったのに。あんたは猫とこの店とどっちが大事なんだい、あの猫が化け猫になって悪さでもしたら、店に客が寄り付かなくなっちまうんだよ。そうなったら我々はおまんまの食い上げだ。今まで育ててやった恩を忘れたのかい?」
忠吉とお信の間には子が無く、登勢は忠吉が妾に産ませた子だった。
しかし、その後も子宝に恵まれぬ二人は、登勢に婿をとらせて三河屋を継がせようと、妾から無理やり登勢を取り上げ家に入れた。
登勢の本当の母親は、三河屋から幾許かの金を貰い、泣く泣く他国へと身を移した。
母親を奪われた登勢は、毎日泣き暮らした。それに困り果てた忠吉が登勢の気を紛らわす為、何処からか真っ白い子猫を貰ってきて与えた。それから登勢は子猫にタマという名を付けて、なんとか寂しさをやり過ごして来たのだった。
忠吉は後ろめたさもあってお信に頭が上がらない。お信の機嫌を取るため何かと登勢に辛く当たる。今回のタマの事も、元はと言えばお信が言い出した事に忠吉が従っただけの事だ。
「タ、タマは確かに山寺に捨てて来ました。隠れて飼っているだなんてとんでもない・・・」
「なら、二階の客が見たって言う白猫はなんなんだい?この辺には白猫飼ってる家なんてありゃしないよ」
「わ、私は知りません!」
登勢は必死で抗弁したが、忠吉とお信に聞く耳は無い。
「あくまでシラを切るなら今夜は晩飯抜きだ!布団部屋にこもって一歩も出てくるんじゃないよ!」
登勢は夫婦の部屋を叩き出されて、よろよろと二階にある布団部屋へ向かった。
「とんだ話を聞いちまったねぇ・・・」
風呂から上がって階段を登ろうとしていたら、帳場の奥の部屋から怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
気になって階段下に隠れて聞いていたら、登勢が主人夫婦にやり込められて出てきた。
登勢は二人に気付かず階段を登って行った。
「そういう事情だったんだねぇ」お紺が溜息を吐いた。
「だけど、化け猫になるなんて単なる言いがかりだよ」
「ああ、よっぽどあの登勢って娘に意地悪がしたかったんじゃないのかい」
「あの白猫は飼い主恋しさに戻って来たんだね」
「そうだろうねぇ、不憫な話さ。いっちょあっちが主人に掛け合ってやろうか」
「よした方が良い、後であの娘が余計ひどい目に遭うだけだから」
「そうだねぇ・・・」
「それより晩ご飯抜きだって言ってたわ、後でこっそり握り飯でも持ってってあげましょうよ」
「それがいい、そうしよう!」
晩飯がすむとお紺は、夜中に腹が減ると眠れないからと言って、膳を下げに来た仲居に握り飯を用意させた。
「布団部屋は反対側の突き当たりだったわね」
お紺は握り飯の皿を持つと立ち上がった。
「二人で行くと目立つから、私が行ってくる。志麻ちゃんは留守番してて」
「分かった、見つからないように気をつけてね」
お紺は軽く頷いて廊下へ出て行った。
一階は団体の客らしく大勢の騒ぐ声が二階まで響いてくる。それに比べて二階は客も疎まばらでひっそりと静まり返っていた。
お紺は足音を忍ばせて布団部屋に近づいて軽く戸を叩いた。
「お登勢ちゃん・・いる?」
小声で呼びかけると中で人の動く気配がした。
「開けるわよ・・・」
「どなたですか?」登勢が怯えた声で訊いた。
「怪しいもんじゃないよ、菊の間の客さ」
戸を引くと微かに黴臭い匂いがした、中は灯りも無く真っ暗闇だ。
お紺がしゃがむと廊下の明かりが登勢を照らした。
「お客さん・・・どうして?」登勢が目を瞠る。
お紺が布団部屋に足を踏み入れて後ろ手に戸を閉めると、また暗闇に戻った。
「悪いと思ったんだけど、風呂の帰りにあんたと主人夫婦の話を聞いちまったんだよ。別に悪気はなかったんだけどさ」
「あの話、聞かれちゃったんですね・・・」
「あんたが白猫を探して表へ飛び出して行った訳がやっと分かったよ」
「お恥ずかしい話です・・・」
「ううん、ちっとも恥ずかしい事じゃない。主人夫婦の方がよっぽど理不尽さね」
「私、タマを捨てた事、とっても後悔しているんです。もしタマが帰って来てくれたら、どんなに頭を下げてでもおっ父さんにもう一度頼もうと思っているんです」
「うん、そうしな。もしわっちがいる間に戻ってきたら、ちゃんと口添えしてやるから頑張るんだよ」
「あ、ありがとうございます」
「ところで、晩飯抜きだってね。腹減ったろ?握り飯持ってきたからお上がり」
「でも・・・」
「遠慮する事は無いさ、明日もまた仕事なんだろ?腹が減っては戦はできぬ、ってね」
「・・・」
「皿は持って帰るから、さ、手を貸して・・・」
お紺は登勢の手を取ると握り飯を持たせてやった。
「じゃあね、見つかるとまずいからもう行くよ。ちゃんと食べるんだよ」
「ありがとうございます・・・お客さんお名前は?」
「お紺。何かあったらいつでも呼んでおくれ」
気休めだと分かっていても言わずにおれなかった。
「はい」
登勢は嬉しそうに返事をした。
*******
夜中近くになって雨が降り出した、まだ本降りではないが布団部屋にいても雨足の強くなる気配が伝わって来る。
登勢は重ねた布団に背を持たせたまま、未だ寝付けずにいた。タマがもし帰って来てくれたら、どうやって両親を説得しようと考えていたら眠れなくなったのだ。
「頭を畳に擦り付けてでもきっと納得させてみせる!」
強い決意に身慄いした時、戸の外で猫の鳴く声を聞いた気がした。ハッとして身を起こすと、カリカリと戸に爪を立てている。間違いない!
「タマ・・・タマなの!」
飛び起きて戸を引き開けた。そこには雨に濡れそぼったタマがいた。毛が体に貼り付いて少し痩せて見える。
「ごめんねタマ、もう絶対離さない!」
登勢はタマを掻き抱くと頬擦りをした。目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
その時、誰かが階段を登ってくる足音がして、登勢はタマを抱いたまま身を固くした。
「猫の声がしたと思ったら、やっぱり隠していたのね!」
お信が鬼のような形相で布団部屋に入って来た。
「お前、捨てて来たなんて儂に嘘をついたのか!」
後ろから入ってきた忠吉が、調理場から持ってきたらしい太い麺棒を振り上げる。
登勢の胸の中でタマがもがいた。思わず登勢の力が緩む。
途端にタマが登勢の胸を蹴って忠吉に飛び掛かった、前足の爪を立て忠吉の顔をバリバリと引っ掻いた。
「こ、こいつ!」
忠吉はタマの首根っこを掴んで壁に叩きつけると、床に落ちたタマを思い切り麺棒で殴りつけた。
「あんた、殺しておしまい!」お信が叫ぶ。
「やめてっ!」登勢がタマの上に覆い被さるように蹲った。「お願い、殺さないで!」
「どけ、どかんとお前も打ち据えるぞ!」
忠吉が麺棒を振り上げた。
「なんの騒ぎだい!」
いつの間にかお紺が背後に立っていた。
「お紺さん!」登勢がすがるような目でお紺を見た。
「お、お客さん、お見苦しい所をお見せしました、なぁに泥棒猫が入り込んだんで追っ払おうとしていたところなんですよ!」
忠吉が麺棒を背中に隠して振り返る。お信も作り笑いをお紺に向けた。
「そうですよ、お客さんにご心配いただくような事じゃありません」
「そうかい、そうは見えないけどねぇ?」
「タマ!」
その時、登勢の声がして、白い影が忠吉の足元をすり抜けた。。
「あっ、待て泥棒猫!」
忠吉が慌てて後を追う。
「あんた、逃しちゃダメだよ!」
お信も逃げるように忠吉の後を追った。
「大丈夫かいお登勢ちゃん?」
主人夫婦の去った方を見遣りながらお紺が訊いた。
「ええ、私は大丈夫・・・でも、タマが・・・」
登勢は溜息を吐いて項垂れた。
「大丈夫さ、人間に捕まるような間抜けな猫はいないよ」
「だと良いんだけど・・・」
廊下には点々と血の跡が続いていた。
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タマの口からは赤い血が涎のように流れて、白かった胸の毛が真っ赤に染まっている。
それでもタマは坂道を登る。
度々雨で出来た小さな流れで足を掬われ、せっかく登った道を押し戻された。
死力を尽くして猫石にまで辿り着いたのは、執念としか言いようが無い。
獣にそんなものがあったのか?それとも長く生きた獣には不思議な力が芽生えるのか?
タマは最後の力を振り絞って猫石によじ登ると、ゲッと大量の血を吐いて倒れた。
雨は血を洗い流す事なく、猫石を満遍なく染めて行く。
血がすっかり猫石を覆った時、何処からともなく赤いマントを羽織った西洋人が現れた。
銀色に輝く体毛を持った狼を連れている。
西洋人がマントを脱ぎ猫石ごとタマを包み込むと、暫くして異変が起きた。
石がムクムクと起き上がり、やがて子牛ほどもある巨大な猫になったのである。
西洋人はそれを見て満足げに頷いた。
猫が西洋人を見て一声唸ると、雷鳴と共に稲妻が走り、真夜中の空を覆った。
やがて猫は、狼を連れた西洋人と森の中に消えて行った。