春の風が、遠い記憶を運んでくる夜がある。
それは、白い花びらと血の香りが混ざり合う、静かな夜だった。
ランディリックは窓辺に立ち、初めての開花に白く色付く若木の枝先を見つめていた。
昼の陽に開いた花々が、夜の月に抱かれて眠っている。その静けさの中で、ランディリックは十年前のことを思い出していた。
***
十年前――。
ランディリックがまだ二十二歳だった頃、イスグラン帝国王より隣国マーロケリーとの国境を警備するニンルシーラ辺境伯への正式任命を受けた。
ランディリックが侯爵位を拝命して辺境伯としてニンルシーラへ出向けば、王都で暮らす幼なじみのウィリアム・リー・ペインとはなかなか会えなくなってしまう。
その前に、とウィリアムがランディリックを誘って、任地へ着任する直前の一週間余りを、船旅に行こうと誘ったのだ。
余りこういうことを思いつかないランディリックにとって、彼よりずっと社交的な性格のウィリアムからの提案はある意味とても有難かった。
今回ウィリアムが提案してくれた船旅の経路には、隣国マーロケリー国の自由交易港サルディナも含まれていたから、視察にもなると思ったのだ。
王都エスパハレから流れるテルミア川沿いに南へ進んだ先――。
海と二つの大河に抱かれた港町キャスティネーラ。
イスグラン帝国の玄関口とも呼ばれるその港から、ウィリアムが手配してくれた豪華客船【ルーミナ号】は出航した。
ルーミナ号は南方の海洋大国セレオストラ王国の王立造船所で建造されたもので、どの国の旗にも属さない〝陽の海の船〟として知られていた。
白金色の船体が陽光を受けてきらめき、甲板には各国の言葉が飛び交う。
乗組員たちは異国の者にも分け隔てなく笑みを向け、船出の笛が鳴ると、潮風とともに色とりどりの旗がゆるやかに翻った。
ルーミナ号は寄港するたびに、様々な国の人々を乗せては降ろし、再び帆を張って海原へと漕ぎ出していく。香辛料の香り、焼き菓子の甘い匂い、潮風に混じる異国の歌声――。それは、まるで世界そのものが一隻の船に凝縮され、夢の海を漂っているかのようだった。
全航路を巡る強者は滅多にいないが、もしそれを成し遂げるならば半年近い期間が必要らしい。
もちろん、ランディリックとウィリアムはそんな長期休暇を取得できるはずがない。今回ランディリックとウィリアムが乗船した航路は、ルーミナ号がめぐるルートのひとつ、〝レーテル・サークル・ライン〟と呼ばれる人気の旅程だった。
イスグラン帝国領キャスティネーラ港へ寄港して、そこを発ったルーミナ号は、イスグランの敵対国マーロケリー王国の自由交易港サルディナへ寄港。そのあとで北東のアウルフィヨルド海域を抜けて遠洋へ出る。
流氷の漂うその海では、青白く光を放つ〝ルミヴァルク〟と呼ばれる神秘の巨鯨が見られることでも知られていた。
約六か月間を掛け世界各国を巡る船旅ゆえ、船内にはさまざまな国の人々が乗り合わせていた。
貴族の家族、商人、学者、芸術家――言葉も服も違う者たちが、甲板では同じ潮風を受けて笑い合っている。
他国間の者らが交わる際の会話は、自然と世界の共通言語である【リュセント語】に切り替わり、どの国の者もそれでならば話が通じた。
遠く海の向こうには、ヴァルデュリア連邦の港町エストナールがあるという。
ランディリックとウィリアムの旅はそこにまでは至らなかったが、マーロケリー国の港町サルディナを経て氷海を渡るその一週間は、二人にとって……とりわけマーロケリーとの国境警備を命じられたランディリックにとって、確かに〝世界を知る旅〟だった。
船内には家族連れの姿も何組か見られ、甲板には時折子供たちの無邪気な笑い声が響いていた。
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