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「すまない、待っただろう? 予定よりも会議が長引いて……」
「気にしてないから謝らないで、私もちょっと遅れそうだったから」
普段時間をきっちり守るタイプの私が遅れそうになったとことに驚いたのか、岳紘さんは戸惑っているようにも見えたがそれは気にしないことにした。
……遅れそうになった理由なんて言えるわけもないし、これから先あの喫茶店に行くつもりもなかったから。今日、彼と会ったことは忘れてしまえば良い。この時はまだそう考えていたのに……
「店に行こう、連絡しておいたからまだ大丈夫だ」
すぐにいつも通りの表情に戻ると、岳紘さんは私を丁寧にエスコートしてくれる。きちんと妻として前と変わらないように扱ってくれる優しさに、どうしても複雑な気持ちにもなる。
『嫌い』だとは一言も言われていない。好きだ、愛してる等の言葉をもらったこともあるわけではなかったが。
「ここなんだが、知人に紹介してもらって。雫を一度連れてきたかったんだ」
「素敵なお店ね、ありがとう」
豪華なレストランというより、どちらかと言えば隠れ家風の小さなお店だった。綺麗に剪定された植木が並んで店の回りを囲っている、その隙間から漏れる明かりが何かの童話のワンシーンを思い浮かび上がらせるような気がした。
「いらっしゃいませ、奥のテーブル席へどうぞ」
「ありがとう、遅れてすまなかった」
まだ若そうな店のスタッフが笑顔で私たちを席へと案内してくれる。一瞬だけそのスタッフの男性が岳紘さんに意味深に微笑んだように見えたのは私の気のせいだろうか?
岳紘さんはこのレストランを知人に教えてもらったと言っていたが、彼にこんなお洒落な店を教えてくれるような人物に心当たりはない。もちろん仕事など私の知らない人との付き合いもあるだろうけれど、なぜか何となく違和感を覚えずにはいられなかった。
「どうかしたのか? 少しボーッとしているみたいだが」
「そうかしら、とても素敵なお店で少し緊張しているみたい」
心配してくれるのも今までと変わらない、そんな風に優しくするのなら何故あんなルールを私に押し付けてくるのか? 大事にすることと愛することは違う、彼にとってはそうなのかもしれないけれど私は……
複雑な気持ちのまま口に運ぶ前菜、綺麗に盛り付けられたそれは決して不味くはないけれど今の私には美味しいと感じることが出来ない。笑顔で料理を運んでくるウエイターに申し訳ないと思いつつ、料理の感想を作り笑顔で誤魔化した。
「本日のデザートです」
「紫イモのモンブラン、雫は好きだっただろう? せっかくだから俺の分も食べるといい」
ウエイターに皿を私の方に二つとも置くように指示して、岳紘さんは自分だけ珈琲に口をつけた。紫イモのモンブラン、コンビニのそれが好きで学生時代によく食べていた。彼がそんなことを覚えてくれていたなんて……その事がとても嬉しかったけど、余計に胸が苦しくもなった。