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この人の優しさが辛くなる時が来るなんて結婚当初は思いもしなかった。あの頃は微笑まれて私を見つめてくれるだけで幸せの絶頂でいられた、こんな未来が待ってるなんて考えたこともなくて……
「ありがとう、岳紘さん」
「次はチェリーパイが人気の店に連れて行くよ、それも好きだっただろう?」
悪気があるとは思えない言い方に、作り笑顔で頷くことしかできない。なぜそんな店を知ってるの、誰に教えてもらったの? なんて聞けるはずもなく。
でも、そのまま黙っているのも辛くて……
「岳紘さん、あのね……」
「あ、すまない。仕事先からの電話だ、ちょっとだけここで待っててくれないか」
なにを言えばいいのか迷ったままの私の言葉を、夫はスマホの画面を確認して遮った。仕事先から連絡なんて、こんな時間にあったことはなかったのに。なぜだが妙に胸が騒ついた、彼の様子がどこか不自然なのを感じて。
「珍しいのね、いつもは仕事をプライベートには持ち込みたくないって言ってるのに」
「仕方ないよ、新しい企画を任されたんだ。部下に全部任せきりというわけにはいかないから」
「……そう、なのね」
新しい企画なんて初めて聞いた、普段彼はめったに仕事の話をしてはくれないから。納得できるかと聞かれれば答えはノーだが、それを岳紘さんに言う事はできなかった。
椅子から立ち上がり席を離れていく彼の後ろ姿を見ながら、なんとも言えない不安に襲われた。
『俺知ってるよ、アイツが別の女性と会っていること』
……少し前の奥野くんのその言葉が、頭の中で何度も再生されて消えてくれない。岳紘さんは本当は今、誰と電話をしているの?
待っている時間は長かった。実際そう長い時間は経っていなかったのかもしれないが、私を不安にさせるには十分すぎるくらいだった。
私の知らないオシャレなレストラン、岳紘さんはまた別の店に連れて行ってくれると言ったが……普段仕事ばかりの彼が何故そんな店をいくつも知っているのか。
仕事仲間や取引先との話し合いに使うようなお店じゃない、どう見ても女性が好むようなデートなどに向いている場所だと思う。実際他のテーブルではカップルばかりが楽しそうに話している。
……私たちがこうしてここにいる事に、違和感すら感じそうになってくる。
「待たせて悪かった、残業していた社員にまだ経験の浅い子が多くて話が長くなった」
「そう、忙しいのなら無理に時間を作って出かけなくてもいいのよ?」
私の口から出たのは、皮肉とも取れる言葉だった。仕事を頑張っている夫に対して、今までは素直に応援出来ていたのに……今日は、それが出来なかった。
岳紘さんが驚いた顔で私を見ている、その視線から私は黙って顔を背けてしまう。
「雫……?」
ずっと良い妻でいよう、彼から好ましく思われる女性でありたいと思ってたのに。岳紘さんが私に触れなくても、それでも前向きに二人の未来を考えていたはずだった。
それなのに……とうとう私の中で少しずつ何かが狂い始めてしまったような気がしていた。
「もしかして具合でも悪いのか、雫」
「ううん、でも少し疲れてるのかも。そろそろ帰りましょうか」
私の言葉に岳紘さんが微妙な顔をしたような気がしたが、あえて見て見ぬ振りをした。今の自分には余裕がない、これ以上この人と一緒にいて冷静でいられる自信もなかった。
彼が意味深に片手をポケットに入れている事にも気付かず、私は帰る前にお手洗いに行くと言って席を立ったのだった。