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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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五・一パーセント。
私は、画面の数字をもう一度読んだ。何度読んでも、小数点の位置は変わらなかった。
「大量保有報告書は、今朝九時に提出されています」
柏木室長が、タブレットを私の机に置いた。
「保有目的の欄には、『重要提案行為等を行うこと』とあります。……経営に口を出す、という意味です」
「昨夜のパーティで、あの人は、ほんの少しだけ持っている、と言っていました」
「五パーセントを超えた時点で、開示の義務が生じます」
室長は、シルバーフレームを指で押し上げた。
「つまり、開示の一歩手前まで静かに買い集めて、昨夜の時点で、もう最後の一歩を踏んでいた、ということです」
ほんの少し。今はまだ。
あの人は、嘘をついていなかった。言わなくていいことを言って、言うべきことを言わなかっただけだ。
「社長は」
「六時から、役員会議室で法務と証券会社の担当者と詰めておられます。瀬名さんには、ここで待機していただくように、と」
室長はそこで言葉を切り、私の顔を一秒だけ見た。
昨夜のことを、もう一度聞かれる気がした。
室長は何も聞かず、手帳を閉じて出ていった。
*
社長が四十三階に戻ってきたのは、十時を過ぎてからだった。
扉が開いて、チャコールグレーの三つ揃いが入ってくる。ネクタイの結び目は、朝の五時半に締めたままの形をしていた。
両手に、紙のカップを一つずつ持っていた。四十二階の、役員ラウンジのものだ。
社長は、一つを自分の机に置き、もう一つを、私の机に置いた。
「飲め」
それだけだった。
社長はそのまま執務机に座り、書類をめくりはじめた。
私は、カップの蓋を外した。
コーヒーに、ミルクが入っていた。
カップの縁から、指一本分下まで。薄い茶色。給湯室で、私が自分のマグにいつも入れている量だった。
教えたことは、一度もない。
カップを両手で持ったまま、私は執務机のほうを見た。
社長は、書類から顔を上げなかった。
昨夜のことは、何も言わなかった。裏口のことも、灯、と呼んだことも。
私も、何も言わなかった。言えば、何かが終わってしまう気がした。あるいは、何かが始まってしまう気がした。
どちらが怖いのか、自分でもわからなかった。
コーヒーは、少しだけぬるかった。
四十二階から四十三階まで、階段で上がってきたぶんだけ。
*
午後二時。法律事務所の名前の入った封筒が、社長室に届いた。
差出人は、御影キャピタル・パートナーズ。中身は、株主としての提案書だった。
柏木室長が、要点を読み上げる。
「子会社・鷹宮フーズを、一年以内に売却すること。売却益で特別配当を行うこと。三十日以内に取締役会の回答がない場合は、臨時株主総会の招集を請求する、と」
「理由は」
「添付の資料に」
室長が、最後の一枚をめくって、手を止めた。
『鷹宮フーズは来期、営業利益四十億円を計画している。北関東の二工場を統合し、原価率を三ポイント引き下げる予定である。この計画が実現すれば、同社の売却価値は現在の市場の評価を大きく上回る』
社長が、紙を受け取った。
長い指が、四十億、の数字の上で止まった。
「この数字は、外に出ていない」
社長の声は、平らだった。
「先月末の経営会議のあと、別室で、四人だけで見た。私と、堂島と、フーズの浅井社長と、経営企画の麗華だ」
「紙の資料は、番号を振って四部だけ刷りました」
室長が、手帳を開いた。
「会議の後、私が四部とも回収し、シュレッダーにかけております。データは、経営企画本部のサーバーの、鍵のかかったフォルダに一つだけです」
「副社長は」
私が聞くと、室長は手帳に目を落としたまま答えた。
「あの日は、大阪の子会社の株主総会にご出席で、不在でした」
工場の統合は、まだ現場の工場長にも伝えていない計画だと、社長は言った。
それが、そっくりそのまま、買収者の手の中にある。
「三人だ」
社長は、提案書を机に伏せた。
「堂島。浅井。麗華」
それから、私を見た。
「灯」
名前を呼ばれただけで、指先が跳ねた。
昨夜まで、瀬名、だった。今朝からは、会社の中でも、こうなるのだろうか。
室長が、手帳の上でペンを止めたのが、目の端に見えた。
「三人に会え。一人ずつ、顔を見ろ」
「……はい」
*
経営企画本部は、四十一階にある。
フロアの一番奥、ガラス張りの個室で、一条本部長は電話をしていた。私がガラスを叩くと、受話器を持ったまま、指先だけで入れと示した。
「御影の件でしょう」
受話器を置くなり、麗華さんは言った。今日も白いパンツスーツだった。
「経営企画の人間が、提案書を読んでないとでも思った? フーズの数字、四十億。工場の統合。全部、うちのサーバーにしか置いてない数字よ」
「はい。ですから、伺いました」
「疑われる順番としては、私が一番、ってわけね」
麗華さんは、椅子の背にもたれて、赤い唇の端を上げた。
私は、眼鏡を外した。
麗華さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。私が眼鏡を外す意味を、この人は懇親会の夜から知っている。
「一条さん。あなたは、フーズの利益計画を、外部に漏らしましたか」
「漏らしてないわ」
麗華さんは、私の目をまっすぐに見返した。
「漏らすなら、もっと上手くやる。自分の部署のサーバーにしかない数字を流すなんて、相手に自分の名刺を渡すようなものじゃない」
三秒。四秒。五秒。
口角も、目尻も、一緒に動いていた。輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
この人は、漏らしていない。
「……ありがとうございました」
眼鏡をかけ直して頭を下げると、麗華さんは小さく鼻を鳴らした。
「眼鏡、かけ直すのね。そのほうが、あなたにはお似合いよ」
それから、手元の書類に目を落としたまま付け加えた。
「秘書さん。怜さんに伝えておいて。犯人探しより先に、フーズの社員への説明を考えなさいって。売られるかもしれない会社の社員が、一番最初に新聞で知るなんて、最低よ」
*
鷹宮フーズの浅井社長とは、四十二階の小さな会議室で会った。
五十代の終わり。白髪を短く刈り込み、指の節が太い。スーツの袖口から、古い火傷の痕がのぞいていた。工場の叩き上げだと、室長の資料に書いてあった。
「御影キャピタルの提案書は、ご覧になりましたか」
「はい。今朝、本社から転送されてきました」
浅井社長は、膝の上で両手を組んだ。組んだ指に、白くなるほど力がこもっている。
「工場の統合の話が、外に出ているとは。現場には、まだ何も話していないんです。私の口から、社員に言うつもりでした」
私は、眼鏡を外さなかった。外せば、この人は余計に構える。
眼鏡越しでも、正面から三秒見れば、輪郭はわかる。
「浅井社長。利益計画が、どうやって外に出たのか。何か、ご存じのことはありますか」
「私は、何も知りません」
言い終えた瞬間、浅井社長の瞬きが止まった。
一秒、二秒。
それから、ぱちぱちと、立て続けに落ちた。言い切った、と安堵した人の目だった。
――ぶれた。
私は、ペンを握ったまま、ノックをしなかった。
ここに、社長はいない。合図を送る相手がいない。
それに、と思った。
この人の嘘は、何も知らない、の部分だ。知っていることがある。けれど、それが漏洩そのものなのか、別の何かなのかまでは、私の目は教えてくれない。
「浅井社長」
「申し訳ありません。午後から、工場の視察がありまして」
浅井社長は、私が次の言葉を言う前に立ち上がった。椅子が、床をこする音を立てた。
深く頭を下げ、ほとんど小走りに会議室を出ていく。
私は、少し遅れて廊下に出た。
役員フロアの廊下の先は、ガラスの仕切りの向こうが、エレベーターホールになっている。
浅井社長が、ホールの真ん中で足を止めていた。
その肩に、日焼けした太い手が載っていた。
ゴルフ焼けの手。葉巻の匂いがしてきそうな、大きな背中。
堂島常務が、浅井社長の肩を、二度、ゆっくりと叩いていた。
コメント
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あおいです、拝読しました🤍 今回、一番ぐっときたのはコーヒーのシーンです。教えたこともないミルクの量を、社長がちゃんと知ってて、しかも階段で上がってくるから「ぬるい」……そういう細かい描写に、ふたりの距離感が全部詰まってると思いました。 それと一条麗華さんの「漏らすならもっと上手くやる」という台詞、かっこよかったです。灯さんの「眼鏡を外す/かけ直す」の切り替えも、キャラの芯がしっかり見える良い仕掛けですね。浅井社長の嘘を一瞬で見抜くところはゾクッとしました。次が気になります……!