テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夕暮れの帰り道。人気のない歩道橋の途中、遥は立ち止まった。後ろを歩いていた日下部も、無言で足を止める。
「……触れたいと思ったことはある?」
遥の声は風にかき消されそうなほど小さかった。
「あるよ」
日下部は即答した。
遥はゆっくりと振り返った。
表情はいつもの仮面のような無表情。でも、目だけが揺れていた。
「でも……オレ、たぶん、“触れられた”って感覚がよくわかんない」
「……?」
「いつもは、される側だった。意思とか関係なくて……。
だから、“優しく触れる”って、どういうのか、よくわかんない」
沈黙が流れる。
「もし……今、オレが“試したら”どうする?」
遥はまっすぐ、日下部を見た。
その目は、挑むようでいて、どこか投げやりだった。
日下部の喉が、ごくりと鳴った。
「……やめろ。そういうこと、試しに使うな」
遥の顔が、ピクリと動いた。
「ほら、やっぱり拒否る。結局、おれなんか──」
「ちがう!」
日下部の声が重なった。
「拒否したいんじゃなくて……お前に、そんなこと言わせたくないだけだ。
“触れる”って、おまえにとってはきっと、まだ痛いことなんだろ。
なら、今は触れない。だけど、逃げもしない。ちゃんといる。ここに」
遥の口が、何か言おうとして止まった。
肩がわずかに震えた。
それが、風のせいなのか、感情のせいなのか、本人にもわからなかった。
けれどそのまま、遥は小さく、はじめて自分から歩を寄せた。
ほんの数センチ、すぐ隣に。
日下部の横に立つ、というだけの距離。
それでも、遥の中で何かが崩れた。
“何もされない”ことの意味が、少しだけ変わった瞬間だった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!