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#探偵
橘靖竜
5,135
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「わかりました、盛一郎おじさん。また何かあれば連絡をお願いします」
警察庁長官・菊田盛一郎との通話を終えた東京の勇信(沈思熟考)は、すぐに他の勇信たちへ電話をかけた。
「警察側は、今回の件を失策だったと公式発表するようだ」
『いつだ?』
「まだ――」
沈思熟考はそう言って、しばらく考えた。
「まだ日程は決まっていないが、すぐに発表するそうだ。国民の不信感を早めに抑えたいんだろう」
吾妻グループ副会長である勇太の死亡が、誤った情報だったと明らかになった。
それ以降、国民の警察に対する不信感は日々高まっている。
警察は無能だという声が大きくなるにつれ、すでに判決が下された裁判についても、再審を求める声がニュースで取り上げられるようになった。
報道番組には、息子の無罪を訴える老婆の姿が映っていた。
『DNA鑑定の方法に誤りがあったのか。それとも、組織的犯罪が行われているのか』
『盛一郎おじさんを犯罪者の親玉扱いするつもりか?』
『いや、むしろその逆だ。もしそうした組織的犯罪が行われているのなら、おじさんが舵を取って、きっちり粛正してほしいと願っている』
『そういうことか。俺としたことが、否定的な視点でものを見てしまった』
『これからも否定的な目で見ていこう!』
『今しゃべったの、あまのじゃくだろ?』
『違う。逆に』
『おまえは通話に参加できないことになっているはずだろ』
『だからこそ逆に……』
沈思熟考は、あまのじゃくとポジティブマンの言い争いを最後まで聞くことなく、携帯電話をポケットにしまった。
「常務、いらっしゃいましたか」
玲奈が席から立ち上がり、沈思熟考を迎えた。
「電話が長引いた。待たせてしまったな」
「いえ、おいしくいただいてました」
「……それはよかった」
沈思熟考も席につき、テーブルに置かれたフィレンツェ風トリッパを口にした。
完璧な下処理が施された牛の内臓が、トマトソースと絡み合い、絶妙な調和を生み出している。
「これはかなりの美味だな……」
沈思熟考は深く考えることなく言った。
「同感です。すごいですよね、ここの料理」
「これまで出会ったイタリアンの中で、最高かもしれない……」
「よかったです」
玲奈が満足そうに笑った。
「私、ついに常務にとって完璧なお店まで選べるようになったんですね」
沈思熟考は無意識にキッチンへ目を向けた。
20代後半ぐらいにしか見えない若いシェフが、フライパンを振っている。
まるで超能力でも使って作ったような料理が各テーブルに並び、すべての客が満足そうな表情で食事を楽しんでいた。
「お待たせしました。ご注文のオッソブーコです」
身長185cmを超える端正な顔立ちのウェイターが、オッソブーコをテーブルに置いた。
立ち去る男の後ろ姿を、玲奈がぼんやりと見ている。
なんだ? じっと見て……。
沈思熟考はそう言いかけて、口を閉ざした。
沈思熟考は、最初に思ったことをすぐ言葉にしない。
直後に別の思考が現れるためだ。
だから一度しっかり精査してから発言しようと決めていた。
彼はいつも、様々な思考をテーブルに並んだ料理のように眺める。
そうして、最も美味な思考を口に出そうとする。
しかしそのほとんどは、結局、最初に浮かんだ考えと同じであることが多かった。
だから、沈思熟考はいつも疲れていた。
思ったままストレートに表現できれば、どれほど楽だろうか。
無駄に深く考えたくないのに、いつも別の思考が現れては、頭を複雑にしていく。
自分の属性とは、いったい何なのだろう。
他の勇信たちによって”沈思”と呼ばれている。
だが彼自身は、まだ自らの属性をよくわかっていない。
「なんだ? じっと見て……」
結局、沈思熟考は最初に思ったことを口にした。
「誰のことですか? ああ、さっきのウェイターさんですね」
「そうだ」
「あの方、どこかで見たような気がしたので……。もう、そんなことはどうでもいいじゃないですか。早くオッソブーコを召し上がってください。お店の人気メニューなんです」
「……わかった」
沈思熟考は、オッソブーコと名づけられた子牛のすね肉を頬張った。
肉は驚くほど柔らかかった。
歯を入れた瞬間、周りの景色が白むほどだった。
肉を飲み込む。
気づけば、天井を見ていた。
意識が飛ぶほどの料理に出会ったのは、実に久しぶりだった。
前を見ると、玲奈も目を閉じて天井を見つめていた。
沈思熟考は笑みを浮かべ、再びオッソブーコを口に入れて天を見上げた。
そのとき正面を向いた玲奈は、天を仰ぐ沈思熟考の姿を見てほほ笑んだ。
ふたりは、交互に天を仰いだ。
「最近、忙しすぎてろくに食事もできなかったな。にしても、これほど美味い店に出会えるなんて、幸運というか奇跡に近い」
「常務、本当にもう大丈夫なんですか?」
「うん? 何のことだ?」
「会社の方針が変わり、常務と副会長の関係がこじれているとの噂が流れています」
「……」
沈思熟考は黙って考えた。
「その話をする前に、まずはこれを全部食べたい……」
「あっ、すみません」
「食い意地に負けたという側面もあるが、オッソブーコという料理は熱いうちに食べなければ脂が固まってしまい、そうなると――」
「早く召し上がってください」
「あ、ああ。そうだな」
沈思熟考と玲奈は、黙って食事を続けた。
この店は、オッソブーコだけではなかった。
すべての料理があまりに美味しく、ふたりはナイフとフォークを動かし続けた。
腹を満たし、ワインを飲んだあと、沈思熟考はようやく口を開いた。
「余計な噂が立っているようだな」
「え?」
「ああ、さっきの会話の続きだ。俺と副会長の仲がこじれているというやつ」
「ああ……はい。流言であるにしても、何かしらの対応はしたほうがいいでしょう。副会長もグループの未来のために強行策を取っただけであって、常務との不和を望んではいないはずです。早いうちに、おふたりの関係が良好だとアピールする機会を設けたほうがいいのではないでしょうか」
「それは難しいな」
「えっ? どうしてですか」
「数日前のことだが、社員たちの前で宣言したんだ。俺は、副会長の方針を支持しないと。おそらく不和の噂も、そのときのことが発端になっているのだろう。それなのに180度態度を変えて副会長と手を組めば、立場はどうなる? 今度は俺個人に対する不信感だけが拡大するのではないか」
「本心から反対の立場だったんですね」
「そうだ」
「堀口ミノル課長の件があったからでしょうか」
玲奈が落ち着いた口調で言った。
沈思熟考はすぐには答えなかった。
ワインを一口飲み、他の客を見た。
満足な食事が提供されるレストランは、いつだって笑顔で溢れている。
「職業病が過ぎるな。魚井秘書、仕事の話はもうやめないか」
「はい、すみません」
玲奈は驚いたような表情で言った。
「どうしたんだ、そんなに驚いて」
「あ、はい。常務がそのようなことをおっしゃるのに驚きまして」
「いつも仕事の話ばかりするからか……。まあ、そうだな……魚井秘書のほうはどうなんだ?」
「はい?」
「最近の生活についてだ。週末に吾妻家に来て仕事をしなくなっただろ。しっかり休息を取れているのかと思ってな」
「おかげ様で、それなりに暇を持て余しています」
「友だちに会って、おしゃべりでもすればいいのでは?」
「たまにはそうしています。ただ、友だちって毎週会うものではないので」
玲奈はワインをひと口飲んだ。
「私は常務が心配です。ご自宅の秘書室も解体し、使用人もいなくなったので、色々と不便じゃないかなと思って」
「心配しているのか?」
「それはそうですよ。スタッフを呼び戻しましょうか?」
「いや、その必要はない。もはやひとりのほうが楽だ」
「……いろいろと心境の変化があったんですね?」
「まあ、アメリカ時代もひとり暮らしを経験したから、慣れたものだ」
アメリカ。
沈思熟考は、ふと過去を思い出した。
アメリカ留学時代。
あの瞬間があったからこそ、自分は今こうして座っている。
玲奈を目の前にしてワインを飲むたびに、いつも頭の中にあの日のことが浮かぶ。