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「わかりました、誠一郎おじさん。また何かあれば連絡お願いします」

 

警察庁長官官である菊田盛一郎との通話を終えた勇信(沈思熟考)は、他の勇信に電話をかけた。

 

「警察側は今回の件を失策だったと公式発表するようだ」

 

――いつだ?

 

「まだ――」

沈思熟考はそう言ってしばらく考えた。

「まだ日程は決まってないが、すぐ発表するそうだ。国民の不信感をはやめに押さえないといけないからだろう」

 

吾妻グループ副会長である勇太の死亡が嘘の情報だったと明らかになり、国民の警察に対する不信感は日々高まっていた。

 

警察は無能だという声が次第に大きくなるにつれ、すでに判決が下された裁判の再審を要求する事例がニュースでも紹介された。

テレビには息子の無罪を主張する老婆の姿が映っていた。

 

――DNA検査の方法に誤りがあったのか、それとも俺たちが知らない組織的犯罪が行われているのか?

 

――おい、誠一郎おじさんを犯罪者の親玉扱いするつもりか?

 

――いや、むしろその逆だ。もしそうした組織的犯罪が行われているのなら、おじさんが舵を取ってきっちり粛正してほしいと願っている。

 

――そういうことか。俺としたことが否定的な視点でものを見てしまった。

 

――これからも否定的な目で見ていこう!

 

――はあ? 今しゃべったの、あまのじゃくだろ?

 

――ちがうよ。逆にね。

 

――おまえは通話に参加できないことになってるはずだろ。

 

――だからこそ逆に……。

 

沈思熟考は、あまのじゃくとポジティブマンとの言い争いを最後まで聞くことなく、携帯電話をポケットにしまった。

 

「常務、いらっしゃいましたか」

魚井玲奈が席から立ち上がって、沈思熟考を迎えた。

 

「電話が長引いた。待たせてしまったな」

 

「いえ、おいしくいただいてました」

 

「……それはよかった」

 

沈思熟考も席につき、テーブルに置かれたフィレンツェ風トリッパを口にした。

完璧な下処理が施された牛の内臓が、トマトソースとからみ合って絶妙な調和を生み出していた。

 

「これはかなりの美味だな……」

沈思熟考は深く考えることなく言った。

 

「同感です。すごいですよ、ここの料理は」

 

「これまで出会ったイタリアンの中で最高かもしれない……」

 

「私の舌は、ついに常務の好物まで判断できるようになったんですね」

魚井玲奈が満足そうに笑った。

 

沈思熟考は無意識にキッチンへと目を向けた。

20代後半ぐらいにしか見えない若いシェフがフライパンを振っている。魔法でも使ったようなシェフの芸術的な料理が各テーブルに並び、すべての客が満足そうな表情で食事を楽しんでいる。

 

「お待たせしました。ご注文のオッソブーコです」

 

身長185cmを超える端正な顔立ちのウェイターが、オッソブーコをテーブルに置いた。

立ち去る男の後ろ姿を、魚井玲奈がぼんやりと見ていた。

 

なんだ? じっと見て……

沈思熟考はそう言いかけたが口を閉ざした。

 

沈思熟考は最初に思ったことを言葉には表さない。すぐまた別の思考が現れるため、しっかりと精査してから発言しようと決めているからだ。

 

彼はいつも色々な思考を、テーブルに並んだ料理のように眺める。そうして最も美味な思考を口に出すのだが、そのほとんどは結局最初に浮かんだ考えであることが多い。

 

だから、沈思熟考はいつも疲れていた。

思ったままストレートに表現できればどれほど楽だろうか。

無駄に深く考えたくないのに、いつも別の思考が現れては頭を複雑にする。

 

自分の属性とはいったい何なのだろう。

他の勇信たちによって沈思熟考という名が付けられはしたが、彼はまだ自らの属性をよくわかっていない。

 

「なんだ? じっと見て……」

結局沈思熟考は最初に思ったことを口にした。

 

「誰のことですか? ああ、さっきのウェイターさんですね」

 

「そうだ」

 

「あの方、どこかで見たような気がしたので……。もう、そんなことはどうでもいいじゃないですか。はやくオッソブーコを召し上がってください。お店の人気No.1メニューなんです」

 

「……わかった」

 

沈思熟考はオッソブーコと名付けられた子牛のすね肉をほおばった。

肉のあまりの柔らかさに周りの景色が白むほどだった。

 

肉を飲み込んで目を覚ますと、天井を見ていた。

意識がふっ飛ぶほどの料理に出会ったのはじつに久しぶりのことだった。

 

前を見ると、魚井玲奈が目を閉じて天井を見つめていた。

 

沈思熟考は笑みを浮かべ、再びオッソブーコを口に入れて天を見上げた。そのとき正面を見た魚井玲奈は、天を仰ぐ沈思熟考の姿を見てほほ笑んだ。魚井玲奈は満足気にオッソブーコを口に入れて、また天井を見上げた。

ふたりは交互に天を仰いだ。

 

「最近忙しすぎてろくに食事もできなかったな。にしても、これほど美味い店に出会えるなんて、幸運というか奇跡に近い」

 

「常務、本当にもう大丈夫なんですか?」

 

「うん? 何のことだ?」

 

「会社の方針が変わり、常務と副会長の関係がこじれているとの噂が流れています」

 

「……」

沈思熟考は黙って考えた。

「その話をする前に、まずはこれを全部食べたい……」

 

「あっ、すみません」

 

「食い意地に負けたのも少しはあるが、オッソブーコという料理は熱いうちに食べなければ油が固まってしまい、そうなると――」

 

「早く召し上がってください」

 

「あ、ああ。そうだな」

 

沈思熟考と魚井玲奈は黙って食事を続けた。オッソブーコだけでなくすべての料理があまりに美味しくて、ふたりはナイフとフォークを動かし続けた。

 

腹を満たしワインを飲んだあと、沈思熟考はようやく口を開いた。

「ふむ、余計な噂が立っているようだな」

 

「え?」

 

「ああ、さっきの会話の続きだ。俺と副会長の仲がこじれているというやつ」

 

「ああ……はい。流言であるにしても、何かしらの対応はしたほうがいいでしょう。副会長もグループの未来のために強行策を立てただけであって、常務との不和を望んではいないはずです。はやいうちにおふたりの関係が良好だとアピールする機会を設けたほうがいいのではないでしょうか」

 

「それは難しいな」

 

「えっ? どうしてですか」

 

「数日前のことだが、社員たちの前で宣言したんだ。副会長の方針を支持しないと。おそらく不和の噂もそのときのことが発端になっているのだろう。

そんな俺が180度態度を変えて副会長と手を組めば、俺の立場はどうなる? 今度は俺個人に対する不信感だけが拡大するのではないか」

 

「本心から反対の立場だったんですね」

 

「そうだ」

 

「堀口ミノル課長の件があったからでしょうか」

魚井玲奈が落ち着いた口調で言った。

 

沈思熟考はすぐには答えず、ワインを一口飲んだあと他の客を見た。

満足な食事が提供されるレストランは、いつだって笑顔で溢れている。

 

「職業病が過ぎるな。魚井秘書、仕事の話はもうやめないか」

 

「はい、すみません」

魚井玲奈は驚いたような表情で言った。

 

「どうしたんだ、その表情は?」

 

「あ、はい。常務がそのようなことをおっしゃられるのに驚きまして」

 

「いつも仕事の話ばかりしてたからか」

 

沈思熟考はふと過去を思い出した。

 

アメリカ留学時代。

あの瞬間があったからこそ、自分は今こうして座っている。

 

魚井玲奈を目の前にしてワインを飲むたびに、いつも頭の中にあの日のことが思い浮かぶ。

俺は一億人 ~増え続ける財閥息子~

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