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第70話 最後の世界線
さっきまで縫季を支えた温度が、今度はさらに深く、胸の奥へ沈んだ。
怯えではない。
拒絶でもない。助けを求めているのでもない。
行け、と。
ここで折れるな、と。
言葉にならぬまま、熱だけが脈打っていた。
(……お前)
縫季は胸を押さえたまま、喉の奥で息を詰まらせた。
怖いのは、自分の方だった。
その先が危険すぎることも、ここで帝辛の魂ごと削れて消えるかもしれないことも、この圧を破るには、自分の方が先に壊れるかもしれないことも。
全部、分かっている。
それでも。
胸の光は、揺らがなかった。
まっすぐに脈打っている。まるで縫季の背を押す鼓動そのものみたいに。
そのとき。
白い鎖の向こう側で、空間がもう一度ひずんだ。
今度の揺れは、怒りではない。観測だ。
遅れて、管理官の照合香波が辿り着いたのだ。
最初から見えていたわけではない。その線は観測外だった。だが、天界全体の異常反応を逆に辿り、灯台の観測網がようやく縫季の位置を拾った。
照合香波が、裂け目の外側に白い人影を結ぶ。
『職員識別符号・第五八層第六九二七号』
管理官の声だった。
平坦。だが、ほんのわずかに鋭い。
『そこは観測外だ』『戻れ』
縫季の肩が震えた。笑いそうになって、笑えない。
「……今さらかよ」
管理官は続ける。
『その先は断層だ』『その線は神話が薄い』『観測も補正も効かない』『お前の核は保たない』
白い鎖がさらに締まる。
管理官自身が縫季を拘束しているわけではない。
だが、天界の拘束を解く権限も、術もない。
解けないのだ。
見つけた時には、もう遅かった。
九尾の尾が、白い圧の向こうでゆるくしなった。
――管理官か
わずかに愉しむような色が混じる。
――面白いものは、だいたいお前たちの観測外で起きる
管理官は応じない。応じる余地がない。
縫季は裂け目を見た。
胸の光が、脈打つ。折れるな、と励ますように。
縫季は、その光を抱きしめるように胸へ押し当てた。
「……分かってる」
管理官の声が落ちる。
『戻れ』
九尾の尾が、ゆるくしなる。
――行くな、と言いたいところだが
白い圧の向こうで、尾の先だけが楽しげに揺れた。
――そこまで削れてなお進むなら、――見届ける価値はある
祖霊層の圧が、骨の中まで響く。
行かせるな。閉じろ。消せ。
全部が縫季を押し戻す。
縫季は、それでも笑った。泣き顔みたいな笑みだった。
「……だから、行くんだろ」
その瞬間、縫季は自分の魂の端を燃やした。
調整員の香ではない。
人間だった頃の、燃え残り。
最初に世界を見て、最初に誰かを好きになって、最初に失う痛みを知った、あまりにも個人的な残滓。
それが火になった。
白い空間が悲鳴を上げる。
祖霊層の鎖を焼く。天界の圧を裂く。閉じかけた縫い目を、こじ開ける。
『縫季!』
管理官の声が、初めて一段だけ強くなった。
九尾の尾が、大きく揺れる。
止めるためか、見届けるためか、もう分からない。
ただ、裂け目の向こうに、今までとは違う暗さが見えた。
記録の薄い、神話の届かぬ色だ。
縫季の胸の中で、帝辛の魂が強く打つ。
痛みを散らすためではない。恐れを分け合うためでもない。
進め、と。
お前が探してきたものは、その先にあるのだと。
そう言うように、熱だけがはっきりと混ざる。
縫季は頷いた。
「ああ」
傷だらけの足で、一歩踏み出す。
魂が削れる。香が途切れる。視界が崩れる。
それでも、歩く。
(あと少しだ)
(必ず、見つける)
帝辛が、涙ではなく。民を見捨てる声ではなく。後世の暴君像にも、神話にも潰されないまま、人として笑える世界線を。
管理官の白い輪郭が遠ざかる。
『縫季!』
呼ぶ声から、言葉が消えた。
止める言葉は、もうない。
九尾の尾が、裂け目の縁で静かにしなった。
怒りでもない。警告でもない。
その揺れは、予測を外れたものを見る時だけ滲む、九尾の薄い愉悦に近かった。
縫季は光の裂け目へ身を投げた。
白い空間が割れる。史の届かぬ暗い光が流れ込む。
胸の光は震えながらも、確かに縫季を照らしていた。
二人で――史の届かぬ世界線へと落ちていった。
◆
世界線の裂け目が、光を噴き上げた。
縫季はその縁をつかみ、崩れかけた体で無理やり身を投じた。
魂の端を燃やした代償が、足元から這い上がってくる。
輪郭が揺れる。形を保てない。
指先が透けている。足元が薄い。
(……もう、持たない)
そんな予感が、呼吸の隙間から漏れた。
胸の奥の光――帝辛の魂だけが、温かい。
痛みの底でも揺らがず、なお縫季の胸を照らしている。
「……行こう」
かすれた声で呟き、縫季は最後の世界線へ落ちた。
◆
落下は、いつもより長かった。
光が遠ざかる。感覚が薄れる。香の流れが、ほとんど途切れかけている。
定着しきれない有限の体は、ここで終わるはずだった。
なのに――
どこかで、誰かの声がした。
遠く。柔らかく。懐かしい響き。
笑っているような声。
縫季は、そのかすかな音へ手を伸ばした。
そして――着地した。
コメント
1件
読み終わりました……第70話、もう胸がぎゅっとなりました。管理官の「戻れ」が届かない場所へ、自分を燃やしながら進む縫季の覚悟が痛いほど伝わってきました。特に、止める言葉がなくなった管理官と、愉悦を帯びた九尾の尾の対比が印象的です。帝辛と二人で落ちていくラスト、切なくて美しかったです。次がすごく気になります……!🤍