6時半の完全下校を過ぎてしまい、音楽室へ様子を見に来た松嶋先生に、元貴と2人でまた少し怒られた。
溜め息をついた先生に、「車で送るわ」と言われ、俺達は大人しくその言葉に甘える事にした。
 松嶋先生が、赤いSUV車の運転席に乗り込む。女性が乗るにしては大き過ぎる車の様だが、先生には良く似合っている気がした。
俺が、気を遣って助手席に乗ろうと、ドアを開ける。
 「ちょっと。デカい図体で横乗らないでくれる?」
 酷い。松嶋先生にジロと睨まれて、仕方なく元貴を促す。
 「そうじゃなくて。私、横に乗られるの嫌いなの」
「え?」
「2人とも、後ろに乗りなさい」
 それじゃ、タク乗りじゃないか。先生に失礼にならないかな、と少し躊躇したが、本人がそう言うのだからと、2人で後部座席に並んで乗り込む。
 「まずは、大森くんからね」
「はい、ありがとうございます」
 それだけ言うと、車は静かに走り出した。とっくに陽が暮れた街を、ぐんぐん進んで行く。窓の外をぼんやり眺めていると、元貴の頭が、肩にぶつかった。顔をそちらに向けると、肩に乗った頭から、すうすうと寝息が聞こえる。そうか、そういえばこの子は、徹夜で学校に来たんだったな。くす、と笑って、元貴の安眠を邪魔しない様に、そっとその頭を膝に乗せてあげた。もぞもぞと少し動いた後、また定期的な呼吸を繰り返す。
 「…そうだ、松嶋先生。俺を、わざと元貴に会わせたでしょ」
「…え?」
「先生、1年からずっと元貴の担任なんでしょ? だったら、中学からの引き継ぎで元貴の過去の事、知ってたはずでしょ」
「…聞いたの」
「うん。音楽室の、先生の貼り紙。あれ見て、俺、あの事さぁ、思い出しちゃった。だから、元貴に話したの。そしたら、『俺も』って、元貴の事も教えてくれて」
「そう」
「…俺たち、似たような傷抱えててさ。あー、先生それ分かってて、引き合わせたんだ、って思った」
「…違うわ、あなたがそんな頭してるからよ」
 先生が、まっすぐ前を向きながら、そっけなく言った。俺は、ふふ、と笑って、元貴の肩を、とん、とん、とリズムよく優しく叩く。
 「…ずっと元貴の担任をしてるのは、俺の事があったから?」
「…随分と自惚れ屋さんになったのね、藤澤くん」
「はは、やっぱ違う?」
「まぁ、それも理由のひとつかも知れないわね。もうひとつはね」
 車がゆっくりと、元貴の家の前で停まった。
 「…その子の曲に、惚れた人がいたのよ」
 松嶋先生が、左手の指輪を少し触りながら、緩やかに微笑んだ。理解しきれない顔で俺が見つめていると、「ほら、さっさと降ろして」と促された。
 「元貴、お家着いたよ。起きて」
「んー…」
 返事はするけど、起きる気配はない。酔っ払いの大学生じゃないんだから…。元貴の頭からそっと自分の脚を抜いて、車を出てから反対側のドアへ歩いた。元貴の足元側のドアを開けて、元貴の身体を起き上がらせる。フラフラとするそれを支えながら、なんとか自身を反転させて、俺の背中に元貴を乗せた。頭をぶつけないように気を付けて、脚に力を込めて、元貴を完全におんぶする。
 そのままチャイムを押して、お母さんに出て来てもらった。お家にお邪魔して、元貴の部屋へと運び入れる。お母さんは、玄関先で松嶋先生とお話しされてるようだ。
ゆっくり、ベッドに降ろすと、元貴が寝返りを打った。良かったね、今夜はゆっくり眠れそうじゃない。そのあどけない寝顔をしばらく見つめた後、俺は身を翻してドアを向く。その時、いきなり手を掴まれた。驚いて元貴を見ると、眠そうに顔を顰めながら、薄目でこちらを見ている。
 「…涼ちゃん…せんせー…?」
「…はい…」
 眠気と闘っているとは思えない程の力強さで、その手を引っ張られた。
 「ぅわ…!」
 バランスを崩して、元貴にぶつからないように必死で片腕をベッドの傍に着いた。そのまま、元貴がもう片方の手で俺の首を絡め取る。片手は手を握ったままで、ぎゅ、と抱きしめられた。
 「…やっぱり…あったかい…」
 元貴は、柔らかくそう言うと、ぐうぐうと鼻を鳴らす。また深い眠りへと落ちていったようだった。俺は、心臓が痛い程に暴れていて、耳の中で脈打っているかのように、ドクドクとうるさかった。そっと元貴の手をどちらも外し、部屋の電気を消してドアを閉める。
階段を降りると、お母さんが先生との話を切り上げて、俺にもお礼を言ってくれた。
 「…あ、明日、フルート持って行くからって、元貴…くんに伝えてもらえますか?」
「はい、わかりました。本当に、先生方、ありがとうございました」
「いえいえ…」
 俺、まだ先生じゃないし…。非常に恐縮しながら、玄関を後にする。松嶋先生が運転席に入り、俺は迷いながらも、助手席を選んだ。今度は、何も言われない。やっぱり、さっきは俺と元貴を並んで座らせる為…か。
 「…フルートって、どうして?」
 車を発進させながら、先生が訊いてきた。
 「ああ、今日、元貴が、俺のフルート聴きたいって言ってくれて。本当は昨日俺がフルートとギターでセッションしよって誘ってたんだけど、もう元貴の家に行くなって言われたから」
 俺は口を尖らせながら不満気に言ったが、そういえば横にいる人がそれを言った張本人だった。気まずくなって、窓の外を見る。
 「…ふ」
 松嶋先生が、少し笑った。俺はびっくりして、つい先生を見てしまう。
 「じゃあ藤澤くん、あの子の歌聴いたのね」
「うん。凄かったよ」
「そうね、あの子は…天才だと思うわ」
 俺は、その言葉に聴き覚えがあった。
 『藤澤くん、あなたのフルートは天才だと思うわ』
 俺のフルートをよく、そんな風に褒めてくれた。言葉や態度はいつもそっけないのに、本当に才能があるのかはわからないけど、俺のフルートへの努力だけは、いつでも全力で認めてくれていた。
 「…フルート、やめたのかと思ってたの」
 松嶋先生が、ぽつりと零す。
 「え?」
「だって、てっきりプロを目指すのかと思ってたのに、こんなところに来るんですもの。追い返してやろうかと思ったわ、初日」
「こんなとこって…自分の職場じゃないですか」
 ふん、と鼻で笑う松嶋先生に、俺は呆れた顔を向けた。
 「…フルート、続けてますよ、ちゃんと。だけど…この前、選考に落ちちゃって」
「選考?」
「留学の。フランスの楽団に留学できるチャンスがあったんで、挑戦したんですけどね、ダメでした…」
「…そう…」
「でも、道は一つじゃないし、諦めたわけじゃないですから。…ていうか、だからあんなに俺に冷たかったんですか?」
「こんなとこ来るからよ。教師なんて、なるもんじゃないわ、本当」
 半分くらいは本当かも知れないけど、きっともう半分は、嘘だ。なんとなく、松嶋先生を見ていて、そう思った。
 「…先生は、教師の天才ですよ」
 俺がそう言うと、先生は前を向きながら、ふ、と緩やかに、笑った。
 「阿部ちゃん、ダンスみて」
「うん、せめて先生つけてね、蓮」
 亮平くんのところに、目黒蓮くんがよく訪ねてくるようになった。ダンス部の部長で、クラスは違うが、元貴たちと同じ3年生。どうやら、かなり亮平くんに懐いているようで、今度の体育祭の応援合戦のダンスの指導に、亮平くんが駆り出されているらしい。
 「阿部ちゃんも人気だねー、ダンス上手いんだ?」
「あー、私知ってるよ、ダンス部の阿部ちゃん。私の学年でも大人気だったもん」
「へー、俺知らない」
「高野はサッカー一筋だったんでしょ?」
「そうそう。後輩にそんな人気者がいたとか、知らなかったな〜」
 亮平くんが目黒くんに連れ去られた後、実習生室で高野と綾華と俺の3人で談笑していた。そこへ、ドアを開けて今度は若井がやって来た。
 「たかしー! サッカーやろ!」
「お前も先生付けてくれ!」
 ケラケラと笑って、2人で部屋を出て行く。
 「…みんな人気者ですねぇ」
「そうですねぇ」
 残された綾華と2人で笑っていると、またドアが開いた。
 「綾華先生〜、ドラム教えてくださーい」
「はいはーい」
 男の子や女の子が数人、おそらく軽音学部の子達だろう。綾華もあっさりと連れ去られてしまった。
元貴が初めて学校に顔を見せてくれてからは毎日、元貴は学校に来ていた。時々、ここに顔を出しに来ては、フルートを吹いて欲しいと強請る。
今日も放課後、元貴が訪ねてくるかな、と待っている俺は、ケースからフルートを取り出して、音を調節していた。
 ノックの後に、ガラ、と音がして、ドアが開く。期待した眼でそちらを見ると、吹部部長の、中条さんが立っていた。
 「失礼します。藤澤先生」
「はい」
「松嶋先生から伝言です。『大森君は預かった。あなたは体育祭のファンファーレの指導をお願い。』とのことです」
「予告状…。いや、誘拐…?」
「え?」
「いや、なんでも!」
「では、よろしくお願いします」
 ドアを開けたまま、体を開いて、俺が出るのを促す。何もわからず、とりあえず中条さんに着いて行く形で、音楽室へと入った。
指揮台の上に、『東京オリンピックファンファーレ・マーチ』と書かれたスコアと、指揮棒がセットされていた。
 「あー、オリンピックマーチかぁ! うわぁ、大好き!」
 つい、スコアを手に取り、顔を綻ばせてそう言ってしまってから、はた、と前を見る。席についた全部員が、こちらを見ていた。
 「よかったです。では、ご指導よろしくお願いします」
『よろしくお願いします!』
 中条さんの言葉に合わせて、全員に頭を下げられた。もう後には引けないので、仕方なくスコアを開いて、指揮棒を握った。横の机に置かれた電子メトロノームを付けて、テンポを確認する。
 「トランペットから、最初の音ください」
 1stトランペットが、パー、と、丁寧に音を叩く。頷いて音を確認すると、指揮棒をゆっくり振って、トランペット四重奏からファンファーレが始まった。
トランペットの音が静かに教室に吸い込まれると、そこからは軽快なリズムで、オリンピックマーチが始まる。
全ての演奏を終えて、ほう、と一息ついた。
 「先生、お願いします」
 中条さんに指導を催促され、俺は困った笑顔で鼻を触った。
 「いやぁ〜、皆さんすごく上手で。正直僕なんか何も言えないっていうか…」
 みんなの視線が、「それだけじゃ逃さないぞ」と言っているようで、俺は上を向いた。
 「えーと…みんな、マーチングはしないの?」
「マーチングは、予定にありません」
「せっかくなら、歩くだけでも、やってみたら? トラックの周り一周して、演奏場所に整列するってだけでもさ」
 みんなが、顔を見合わせて俄かに騒つく。
 「先生は、やったことあるんですか?」
「うん。中学の時に、体育祭でやったよ」
「フルートですか?」
「ううん、その時はドラムメジャー」
「では、先生、ドラムメジャーをよろしくお願いします」
「うん。………え!!??」
 体育祭当日。教育実習ももう3週間を過ぎ、残すところ後1週間となっている。6月頭の土曜日、春の体育祭に、俺たち実習生も当たり前に出席していた。
それぞれに、担当教諭の下について、さまざまな係に駆り出される。俺は、松嶋先生に着いて、放送係の担当になっていた。そして元貴も、松嶋先生の命令…いや、指名で、アナウンス係になった。
 「元貴、ちゃんと寝てきた?」
「寝たよ、寝なきゃ死ぬ。」
「あはは、偉い偉い」
 次々と本部に送られてくる競技結果を整理して元貴に渡したり、競技案内のアナウンス、そして競技中の実況、挙句に落とし物の案内など仕事は多岐に渡り、目の回るような忙しさだった。
 「藤澤先生」
 クラスカラーのハチマキを頭につけた中条さんが、俺に話しかけてきた。
 「マーチングのドラムメジャー、ありがとうございました」
「あ、いえいえ! 本当に僕なんかで良かったの…?」
「はい、うちの部には出来る人がいなかったので。助かりました」
「なかなか決まってたわよ、藤澤先生」
 後ろから、松嶋先生も話しかけてくる。
体育祭の開会式の初めに、俺はマーチングの先頭に立ち、メジャーバトンを掲げて、指揮を振りながら列を先導したのだ。吹部のジャケットを着て、高校生たちの先頭を歩くピンク頭の21歳。かなりの悪目立ちだったに違いない。とても恥ずかしかったが、元貴も若井もゲラゲラ笑いながら、手を叩いて応援してくれていた。
 
 
 中条さんと話し終えて、次はなんだっけ、と今日の動きが細かな時間毎に書かれたプリントを確認していると、不意に肩をバシバシと叩かれた。いった…と横を見ると、若井が俺の肩に手を置いたまま、前の方向を見据えている。
 「痛いな、なに」
「ねぇ、今の、あやみ嬢だよね」
「あやみ嬢…? ああ、中条さん?」
「なんで!? 涼ちゃん仲良いの?!」
「先生付けてね、せめて」
「あ、吹奏楽部だからか! いいなぁ、喋れて。いいなぁ〜! 」
 若井が俺の肩を組んで揺さぶる。ガクガクと頭を揺らしながら、俺は考えた。
 「え、若井、中条さんが好きなの?」
「うん!!!」
 弾けるような笑顔で、頷く。俺はチラッと元貴を見たが、放送係の仕事が忙しそうで、こちらを気にする様子もなかった。
 「サッカーの試合でさー、たまに応援で吹いてくれるの、吹部が。そん時の、あやみ嬢が…もう…すんげ〜カッコよくて…」
 その姿を思い出しているように、ふわふわとした表情で語る若井。俺は、ふーん、と言って、遠くの中条さんを見た。確かに、凛としたその姿は、周りの男子からの視線を集めているようだ。しかし、その表情の大人さ故か、女子生徒以外はあまり気楽に話しかけている様子はない。
 「高嶺の花って感じだな」
「酷!」
 つい呟いたその言葉に、若井が勝手に傷ついていた。
 『続いての競技は、借り人競争です』
 放送本部から元貴のアナウンスが入り、みんなが、わぁ、と色めき立った。この高校の体育祭の、人気競技だ。
それぞれがスタートして、机に置かれたいくつかの紙から一つ選んで開き、中に書かれた指示通りの人を会場から探し出して、一緒に手を繋いで走り、ゴールへ向かう。色んな先生、生徒、保護者に至るまで、会場中の人が巻き込まれる、一大競技だ。
 「位置について。用意…」
 パン! と音が鳴って、一斉に走り出す。紙を奪い合うように取った後、皆が散り散りに会場を走り回る。
 「サングラスかけてる人ー!!」
「体のどこかに絆創膏貼ってる人ー!! いませんかー!!」
「早口言葉得意な人来てくださーい!!」
 思い思いに叫んで、我こそはという人を引っ張り出して手を繋いで走る。ノリのいい生徒や、恥ずかしそうな保護者などが、一生懸命に走ってゴールする姿は、微笑ましくもどこか可笑しい。俺も笑って、手を叩いて懐かしみながら、放送本部のテントの下で観ていた。
 「あ、若井」
 なん組目かのスタートに、若井が手足をぶらぶらしながら立っていた。へえ、出場するんだ、知らなかった。手を叩いて、「頑張れー!」と声を掛けると、嬉しそうにこちらへ手をひらひらと振った。途端に、周りから「きゃあ!」と黄色い声が上がる。
え、中条さんを高嶺の花とか言ったけど、君も充分高嶺に居そうなんだけど。
若井の視線が真剣に前を見据えて、合図と共に走り出した。周りからの歓声も盛り上がる。紙を選び取って広げた若井の眼が、一瞬揺れた。くしゃ、と紙を手の中に握り込むと、俺を見て、頷く。俺が首を傾げて見ていると、一直線に生徒席の方へ走って行った。そして、3年2組の場所に立つと、大声で叫んだ。
 「中条あやみさん!! 一緒に走ってください!!」
 周りから、おお〜! と歓声が上がり、女子生徒から押し出されるように、戸惑った様子の中条さんが若井の前に出てきた。若井が、真っ赤な顔で「失礼します!」と頭を下げると、手を取った。中条さんも、少し頬を赤らめて頷くと、若井に負けず劣らずな脚の速さで、2人で見事1位でゴールした。大歓声の中で、借り人が合っているかのチェックに移る。
 『1位の若井くんの紙にはぁ〜…? 「高嶺の花子さん」と書かれていました〜! 皆さん、中条あやみさんに、拍手〜!』
 競技司会の生徒がマイクでそう叫ぶと、会場中から歓声と拍手、そしてヒューヒューと囃し立てる口笛も湧き上がる。俺も拍手を送りながら、なんて甘い青春なんだ、と顔が勝手に綻んでいた。そして、やっぱり元貴が気になって放送席を見ると、そこには元貴ではなく別の生徒が座っていた。あれ? 元貴は?
 不意に、真剣な眼をした若井が、司会のマイクを奪い取る。周りが呆気に取られている間に、若井の叫び声が会場に響いた。
 『中条あやみさんッ!! サッカーの試合でカッコよくクラリネットを吹いて応援してくれる中条さんが大ッ好きです!! 俺と付き合ってくださいッ!! 』
 会場が息を飲んで、2人の様子を見守る。中条さんは、少し下を向いて考えた後、マイクを若井から取った。
 『お友達から、はじめましょう』
 若井が、満面の笑みで「はい!」と答えたが、会場には『絶妙に躱されたな』という空気が満ち溢れていた。取り敢えずの拍手と、体育教師に頭を叩かれた若井の、いってー! という声と共に、次の走者へと場が移っていく。
 スタートに眼をやると、驚いた事に、今度は元貴が立っていた。え、なに、2人とも出るの? 早く言ってよ〜。
 「元貴頑張れー!」
 また俺が声援を贈ると、元貴は少し口角を上げてこちらを見た。クラスの生徒からも、「大森ふぁいてぃーん!」と声が掛かっていて、俺はホッと安心した。元貴は、もうすっかりクラスに馴染んでいるようだ。
 ピストルの合図と共に走り出し、紙を選び取る。元貴は視線を静かに前に向けると、丁寧に紙を畳んで、ポケットにしまう。くるりと身を翻して、元貴がこちらに走ってきた。松島先生の前に立って、深くお辞儀をする。皆が、おお〜?! と歓声を上げると、顔を上げた元貴が、俺に向き直した。
 「涼ちゃん先生、行こ」
 右手を伸ばして、俺を呼ぶ。わっと歓声が上がり、周りが俺を押して、テントの前へと運ばれて行く。元貴の右手を、少し緊張しながら左手で握ると、元貴がニコッと笑って、優しく引っ張った。
 「あ、待って」
 俺がそう言って、ジャージの裾を巻き上げる。長めの裾を踏んだりして、ハーフパンツを履いてる元貴の脚を、引っ張りたくなかった。膝上まで素早く巻き上げると、再び元貴の手を取る。
 「こけんなよ」
「そっちこそ」
 2人で笑顔を交わして、ぎゅっと強く手を握り、脚に力を込めて思い切り走った。トラック半周くらいの距離なのに、息が上がる。元貴も、普段から運動をするタイプには見えないので、なかなか辛そうだ。2人で息を切らして、何とか1位でゴールテープを切った。手を腰に当てて天を仰いでゆっくり歩きながら、息を整える。元貴も、手をぶらぶらさせて、 はぁはぁと息を整え、膝に手を置いてしばらく下を向いた。それぞれの順位で全員がゴールした後、俺たちが呼ばれた。
 『さあ、では、1位の大森くん、借り人の条件をどうぞ!』
 司会に促され、ポケットから紙を取り出してそれを手渡す。紙を開いた司会の生徒が、おお〜と眼を丸くした。
 『「私の推し教師」、でした〜! 藤澤先生に拍手〜!!』
 元貴にも横から拍手を贈られ、周りからも歓声を浴びる。俺ははにかみながら両手を上げて、皆に向かって手を振った。
松島先生をチラッと見ると、わずかに微笑んで、小さく手を叩いている。俺は、先生に向かって満面の笑みを見せた。
ありがとう、先生。俺の青春、まだここにあったみたい。
 
 
 「ね、元貴。松嶋先生と迷ってたでしょ」
 放送テントに戻りながら、隣を歩く元貴に話しかける。
 「迷ってないよ、何が出ても涼ちゃん先生に行こうと思ってたし」
「え? 何それ」
 俺が、ははっと笑う。
 「メガネかけてる人、なら、その辺のメガネ借りて涼ちゃん先生に掛けてもらったし、太ってる人、なら、涼ちゃん先生に太ってもらうし、禿げてる人なら禿げてもらう」
「無理だろ!」
「まさかの『推し教師』だったから、ちょっと、松嶋先生に悪いかなって。だから、先に挨拶だけね。礼儀を通しとこうと思ってさ」
 元貴なりに、1年生からずっと眼をかけてもらっているという感謝も、それなりの好意も、松嶋先生に抱いているのだろう。俺は、うん、と頷いた。そして、少し元貴の腕を引いて、人混みから離れて行く。
 「なに?」
「ちょっと」
 校舎の傍に移動して、気になっていたことを元貴に訊いてみた。
 「あの…若井の、アレ、…大丈夫、だった…? …って、気になって…」
 ぽかんとした顔で、元貴が俺を見た後、ふはっと笑った。
 「ああ、あやみ嬢のヤツ? 全然全然。だってアイツ中学ん時から女子にモテてたし、今までは俺に気ぃ遣ってちょっと恋愛遠ざけてたみたいだけど、俺が学校来るようになって、やっと遠慮無くしたみたい。ホント、気にしなくて良いのに、バカだよなー、若井」
 元貴が、本当になんでもないようにカラッと笑うので、俺はホッと胸を撫で下ろした。元貴があの光景に胸を痛めていないか、それだけが気がかりだったのだ。
 「そっか、よかった」
「そもそも、俺若井のこと別に好きじゃないからね」
「あ、そうなんだ」
「うん。まぁ男は好きだけどね」
 さらりと、言う。
 「あ、そ、そうなんだ」
「うん」
 じっと俺を見つめる。
 「…涼ちゃん先生も、でしょ? 違う?」
 俺は、ドキッとして、少し戸惑う。元貴に見つめられて、俺は、よく考えてから、言葉を紡ぐ。
 「…うん、多分…。俺、将太先輩しか好きになったことないから、わかんないけど」
 その言葉に、元貴が眉を下げた。その表情の意味を、俺はきっと理解しているけど、間違えているかもしれないので、今は見ないふりをした。
 
 
 その後、体育祭では、応援合戦で目黒くんのクラスのダンスに亮平くんが一緒に出て、目黒くんとダンスセッションをしては会場の黄色い声援を擅にしていた。
 さらに、部活対抗リレーでは、何故かよく顔を出すからという理由で、高野はサッカー部、亮平くんはダンス部、綾華は軽音学部、そして俺は吹奏楽部のスターターとして、駆り出されてしまった。
正直、先程の借り人競争でもいっぱいいっぱいだった俺は、無事に綾華とビリ争いをしながら次の子へとバトンを渡した。
 もう、ヘロヘロになりながら、疲れた身体に鞭打ってなんとか最後まで体育祭の仕事を完遂した。
 
 
 
 
 
 会場の片付けを終えて、実習生室で帰り支度をしていると、ノックをされて、次々と生徒が顔を出した。
 「たかし先生ー、打ち上げ来てくださーい」
「綾華先生、カラオケ行こ〜」
 それぞれの受け持ちクラスの生徒から誘われて、じゃあね、と挨拶を交わして出て行く。
少し間を開けて、目黒くんも顔を出した。
 「阿部ちゃん、みんな待ってるから、行こ」
「だから、一応先生付けてって、蓮」
「いーじゃん」
 亮平くんよりも10センチほど背が高い蓮くんが、優しい目で亮平くんを見下ろす。もー、と言いながらも、亮平くんはどこか嬉しそうだ。
 「涼架くん、じゃあね」
「うん、また来週」
 手を振って別れた後、1人部屋の中でパイプ椅子に座り、少し息を吐く。
さっきの、元貴の少し悲しげな顔を思い出して、机に肘を置いて両手で頭を抱える。
いやいや、違う違う。そんな訳ないよ。きっと、昔の傷を共有して、仲間意識が芽生えているだけだ。元貴も。
 俺も。
 
 
 元貴が、俺を好きかも、なんて。
俺が、元貴を好きかもしれない、なんて。
 
 
 どちらも、“間違えてる”かもしれないのだから。
 
 
 重い塊を心に抱えたまま、俺は校舎を後にして、薄暗い中を正門へと歩いて行く。足元に視線を落とし、疲れた脚を引き摺りながら。
 「涼ちゃん先生」
 正面から声が聞こえて、顔を上げる。正門にもたれかかり、制服に着替えた元貴がこちらを見ていた。俺は、顔が熱くなるのを感じて、それがバレることのない薄暗い世界に感謝した。
 「元貴…どうしたの?」
「ん? 待ってたんだけど」
「え…誰を?」
「は? 涼ちゃん先生だけど」
 半笑いで、元貴が言った。あ、ああそっか、そりゃそうか…。今俺しか居ないもんな、そうだよな。
 「…えっとぉ…」
「涼ちゃん先生、この後時間ある?」
「え?!」
 この後、と言っても、一人暮らしのアパートに帰って、ご飯食べてお風呂入って寝る、だけ…。明日は休み。時間は、ある、な。
 「ある、ね」
「じゃあ、打ち上げ行こーよ」
「あ、…ああ!」
 高野達が誘われたように、俺を打ち上げに誘ってくれる為に待ってくれてたって事か! 俺は、ホッとして心からの笑顔を取り戻した。
 「うん! もちろん!」
「そ。じゃ、行こ」
 スッと右手を差し出されて、つい左手を出しそうになったが、慌ててその手を引っ込めた。
 「…いやいや! 借り人競争じゃないんだから!」
「はは、そっか」
 軽く笑って、元貴がその手をポケットに仕舞った。俺は、ちょっと気不味く感じて、同じように両手をポケットに突っ込んだ。
 「どこでやってるの?」
「え?」
「打ち上げ。みんなどこ行ってんの?」
「ああ…えっとね、カラオケ〇〇のパーティールーム、だって」
 スマホを確認して、元貴が教えてくれた。
 「そっか。元貴、先に行ってて良かったのに」
「だって、誰も涼ちゃん先生の連絡先知らないし」
「あ、そっか」
「…ねぇ、連絡先って、聞いていいの?」
 元貴が、尋ねてきた。連絡先の交換…? って、いいのかな。教師は、個人的に交換なんてしないよな…あれ、するのかな…? まあ、俺は実習生だけど…。
 「…誰か、他の先生の連絡先って、知ってたりする?」
「知らない」
「そっか…。あー…じゃあ、やめといた方がいいのかも、ごめん」
「ん、そっか」
 元貴はすんなりと納得してくれて、それ以上言われる事は無かった。実際、実習生って、すごく微妙な立場だ。教師ではないけど、学生同士って訳でもない。どこまで踏み込んでいいのか線引きが曖昧で、それが俺を悩ませる。
そう考えて、俺は一体何に対して悩んでいるのか、と、また自分の思考に制止をかけた。
薄暗い街の中を、2人とも行き場のない手をポケットに仕舞い込んだまま、敢えてなんでもないような話ばかりを交わして、皆が居る場向かって、ただただ歩みを進めていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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七瀬さん、配信無事に終わりましたね🥲💕 安心して泣けますね😭 10,000字超えの体育大会、最高です🫶 そして、私、めちゃ松嶋先生好きになりました🤣 💙の恋も応援したいし、💛ちゃんの吹奏楽部のマーチングも見たいし、学園ラブコメ最高すぎます👏💕
ちょっと待って!情報過多で何から喜びコメントをすれば…笑 ①松嶋先生、そんなに存じ上げないのにものすごく声とかビジュとか仕草とかリアルに妄想できます。聴いたことないセリフなのにちゃんと松嶋先生の声で再生されるのなんで?ってなってる🤣もときくんの曲に惚れた人誰なの?松嶋先生!大好きです🥰 ②めめ✨めめが出てきた!めめあべが💕 蓮の文字を見たときはニヤけたよね🤤(存じ上げないけど、本当は蓮呼びなの?)
続きが楽しみです!