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その涙を見た瞬間、稲妻のようななにかがおれの胸を貫いた。
いったいなにが起こっているのか。理解出来ないほどの、ガキではない。
しかし、その感情を否定したい自分がいる。
入社してすぐ桐島さんに惚れて、んで恋敵の三田課長に餌で釣られて、未知なる快楽に目覚めて。挙句、中野さんのピンチヒッターで入った派遣さんに惚れる……だと?
節操がないにもほどがある。いい加減にしろ、とこの想いを振り払いたいのに、振り払えない自分を認めてしまう。
何故ならば彼女は、美しい。
桐島さんとはまた違ったタイプの美しさだ。桐島さんが可憐なスイートピーなら、紅城さんは薔薇の花。紅城高嶺の名は伊達ではない。桐島さんから、紅城さんに乗りかえる節操のないファンの連中をヘイトしていたはずなのに。おれも、同じだということか。同じ穴のムジナか。
つんとした美人に見える癖に、ほんの数ヶ月一緒に仕事をしただけの先輩の一時的な離職に……涙をするとは。ああ、彼女の涙を思い返すたびに胸が苦しくなる。いったいなんなのだこの感情は。独身である彼女なら嫉妬とか……してもおかしくないはずなのに。本当にこころが清らかな女の子なのだと思った。
そしてその日、とうとうおれはアナニーを卒業した。あんなにも清らかな紅城さんの涙に触れ、おれは急に自分が恥ずかしくなったのだ。
誰に見られても恥ずかしくない自分でいたい。恋とは人間にそれを強制する、尊い感情なのだと思う。
経営企画課所属の中野さんが産休育休に入り、週明けを迎えた。
ネットだとソフトが欠品だったので、週末に家電量販店でソフトを自費で購入し、立替払いをしたので精算をしたいのだが。Webシステムに入力するだけだ。ならば同じ部署の先輩に聞くのが普通だが、うちの会社の面子は違う。……可憐な女子に聞くのだ。
セオリー通りなら、経営企画課の桐島さんに聞くところだが。思いきっておれは、
「赤城さん。お忙しいところをすみませんが、備品を立て替えで購入したので申請をしたいのですが。手順を教えて頂いてよろしいですか」
振り返る赤城さんは相変わらず美しい。ぱっつん前髪、黒髪ストレートロングがファッションアイコンのようだ。今日は、七分丈のからだのラインが浮き出る水色のニットに、黒のロングスカートを合わせている。胸元に目が行きそうになるが、おれはそれを抑制した。
「はい分かりました」はきはきと紅城さんは答える。先輩である桐島さんに、「すこし離席しますね」と断りを入れ、
「では、荒石さんのお席で説明をしますね。……言っておきますけど、二度目はありませんからね? 次回からは、自力で、なるべく誰の助けも借りずに、出来るようにすること。それが、経営企画課のメンバーとしてのお願いです」
一介の派遣社員でありながらの、この強気な発言。おれは、彼女に好意を持った。……どうやら、裏で『なんでもや』と揶揄される経営企画課の実情を知っての発言か。さりげなく釘を刺すところにも好感を抱く。
彼女の説明自体も無駄がなく、的確で。時折ユーモアを交えるセンス。ますますおれは、紅城さんへの想いを深める結果となった。
翌日、早速おれは行動に出た。仕事帰りに待ち伏せをし、紅城さんを誘ったのだ。
桐島さんも一緒だったが、彼女はおれを見て、「お疲れ様です」と言って離れていった。空気を読む女桐島莉子。おれは桐島さんも大好きだが、でも……。
焦がれるこの気持ちに蓋を出来るほどおれは大人ではない。
「あの。なにか……」
硬く緊張した声音におれのほうが緊張をする。手に汗を握る事態だ。
「あの……」おれはなけなしの勇気を振り絞った。「おれ、実は……紅城さん。あなたが先週泣いていたのを見ていてそれで……
惚れました」
は? と言いたげな紅城さんの目をおれは凝視し、
「いえ。おそらくあなたは、おれが……桐島さんや三田課長に惚れていたことをご存知だと思います。それに、おれは、年下のガキです。右も左もまだ分かりません。決して会社の戦力になっているとは言い難い。
でも、おれは……この気持ちを我慢出来ない。
美しいものは美しいと言いたい。中野さんを想う……あなたの清らかな涙に触れて、こころが洗われました。
お友達からでもいいです。おれと一緒に、ご飯行ったりしては……くれませんか?」
最後には頭を下げた。手を差し伸べた。……握り返されることを期待して。――が。
続いておれの耳に届いたのは、
「ふ、ふ……ふふっ。ふふふ……っ。あははっ!」
信じがたいような笑い声だった。見れば――紅城さんが、明らかにおれを嘲笑していた。
彼女は動揺したおれの目線を受け止めたまま、
「あんたたち馬鹿じゃない!?」と言い切る。口許に笑みを乗せたまま、「馬鹿なのね。真正の。……あんなの、本気の涙なんかじゃないわよ?
あたしは、中野さんが戻ってくるまでの限定で雇われた派遣よ。期間限定。だから割り切ってあなたたちに『合わせてあげている』……どうして、そのことが分からないのかしら?
泣いたのは、あれは、嘘泣きよ。泣こうと思えば女は簡単に涙を流せるの。ドラマとか見たことがないんですか?
……まったく。あなたたちといったら。適当にこっちが調子を合わせただけですぅぐ勘違いして。……会社で仲良しごっこになんか巻き込まれたらたまったもんじゃないわ。
首になりたくないから、調子を合わせているだけで。本当は、桐島さんの結婚式にだって、呼ばれたくなんかないわ。ご祝儀三万円とヘアセットにドレス。いくら消えると思っているんです。派遣で暮らす女には決して安い金額じゃないんですよ」
「でも、あなたは確か……」昼休みに、桐島さんに、結婚式の話を持ち出され、中野さんも紅城さんも、喜んで出席すると答えたばかりじゃないか。おれの恨みまじりの反応に、紅城さんは動じず、
「空気を読んでいるだけです。……すこし暑苦しいところがあり、かつ、不必要に雑務を頼まれる以外は、快適な職場ですし……首になんかなりたくないんです。
ですので、荒石さん。あたしは、あなたとおつき合いすることは出来ません。では、失礼します」
紅城さんの姿が駅のほうに消えてしまうまでを、おれは、呆然と見送っていた。
彼女は動揺したおれの目線を受け止めたまま、
「あんたたち馬鹿じゃない!?」と言い切る。口許に笑みを乗せたまま、「馬鹿なのね。真正の。……あんなの、本気の涙なんかじゃないわよ?
あたしは、中野さんが戻ってくるまでの限定で雇われた派遣よ。期間限定。だから割り切ってあなたたちに『合わせてあげている』……どうして、そのことが分からないのかしら?
泣いたのは、あれは、嘘泣きよ。泣こうと思えば女は簡単に涙を流せるの。ドラマとか見たことがないんですか?
……まったく。あなたたちといったら。適当にこっちが調子を合わせただけですぅぐ勘違いして。……会社で仲良しごっこになんか巻き込まれたらたまったもんじゃないわ。
首になりたくないから、調子を合わせているだけで。本当は、桐島さんの結婚式にだって、呼ばれたくなんかないわ。ご祝儀三万円とヘアセットにドレス。いくら消えると思っているんです。派遣で暮らす女には決して安い金額じゃないんですよ」
「でも、あなたは確か……」昼休みに、桐島さんに、結婚式の話を持ち出され、中野さんも紅城さんも、喜んで出席すると答えたばかりじゃないか。おれの恨みまじりの反応に、紅城さんは動じず、
「空気を読んでいるだけです。……すこし暑苦しいところがあり、かつ、不必要に雑務を頼まれる以外は、快適な職場ですし……首になんかなりたくないんです。
ですので、荒石さん。あたしは、あなたとおつき合いすることは出来ません。では、失礼します」
紅城さんの姿が駅のほうに消えてしまうまでを、おれは、呆然と見送っていた。
帰ってからおれはベッドに寝転がり考えた。……紅城さんのことを。
おれは、いかれているのか。おれには、彼女が助けを求めているようにしか思えなかった。
何故なら、会社のビルを出てすぐという場所で、彼女は暴露した。あまりにリスキーな行為だ。うちの会社の入ったビルは他社さんもあまた入っており、それに、うちの会社の人間に聞かれかねない。うちの会社には、ものすごく噂に耳ざとい女子社員がおり、紅城さんの発言が、彼女たちの耳に入るのも、時間の問題だと思われる。
本気でそう思っているのなら、おれに暴露せず、違う理由で……それこそ、彼氏がいるとか、好きな人がいるとかなんとか言って、断ればいい話――
ここまで思い至り、おれの脳内に、ある結論が轟いた。――そうか、何故、それに気づかなかったんだ。だから紅城さんは……。
起き上がり、膝の前で指を組み合わせ、戦略を組み立てる。――いつ。タイミングは。そう……いつ、持ち掛けるのがいいだろう。
おれは意地悪な男になってやる。……そう。あなたの痛みを取り去るためならば、おれは悪魔にだってなってやる。構いやしない。あなたを――あなたを救えるならば。
翌朝、おれは、紅城さんをエレベーターホールで待ち伏せした。
「おはようございます」
「……おはようございます」なんだか紅城さんは不服気に、「荒石さんあなた、昨日あたしが言ったことを覚えていないんですか? 待ち伏せなんかしたら、あたし、パワハラで荒石さんを訴えますよ?」
そういう強気なところも可愛くてたまらない。おれは笑みをこぼしながら、「朝一で予約入ってないんで、ちょっと第一で話しませんか」
「……なんのために」
「あなたを救うため、ですよ。――好きなんでしょう?」
紅城さんの表情が、動いた。――そうか。やっぱり『そう』か。
おれの提案に応じ、大人しく紅城さんは第一会議室へと入る。見送るおれは、あとに続きながら、いかに提案を組み立てようか、頭を働かせていた。
「いつ、……気づいたんです」
高層ビルの窓から眺める紅城さんの目にはなにが映っているのだろう。おれは彼女の凛とした後ろ姿を見ながら思う。――後悔。それから憐憫……。
おれは、残り五分程度で会話を済ませなければならないことを意識しながら、彼女の質問に答えた。「簡単です。あなたがおれの前であんな発言をした理由。どうせ高原(たかはら)さんあたりから、すぐみんなに知れ渡るでしょうに。おれには……あなたが、自分を止めて欲しがっているようにしか思えなかった」
窓の外を向いたまま、紅城さんは、
「……あなた、馬鹿なんですか? あたし、本気なんですよ。本気で本気で……」
とうとう、紅城さんは本音をこぼした。
「桐島さんが、羨ましくって……」
おれは椅子から立ち上がった。一瞬のためらいもなく、彼女を抱き寄せた。
「だから、セクハラ……」
「好きな女の子が泣いているのを放っておくなら、そっちが馬鹿だろ。いまだけ……いまだけ、おれを三田課長だと思ってくれていいから……あまえろ」
――静かに泣く女だった。そう、あのときも。中野さんの幸せな未来を願う、彼女の瞳に嘘偽りなどなかった。おれは、確信していた。おれは――
本気で、紅城高嶺を愛している。そして、
――紅城高嶺は、三田遼一に惚れている。
*