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「あの。そろそろ解放してくれませんか……」
強い女の子だと思った。泣いてからわずか一分程度で彼女は感情の波を落ち着かせた。
「駄目。離したくない」
「馬鹿。ここ会社なんですよ。なのに……。それに、あたしの気持ちは分かったでしょう? 苦しくないんですか? しんどくないんですか?
あたし、……あなたが思っているような女じゃないんですよ。
桐島さんに、嫉妬してますし、勿論、中野さんにも嫉妬してます。――なんでなんだろう。どうして自分が選ばれなかったんだろう。
三田課長はあたしを評価してくれているようですが、だったら……どうして彼女にしてくれないのかとか。ぐるぐる……醜い思いが渦巻く、醜い女、なんですよ……」
おれは彼女の頬をそっと包み込むと、
「きみの苦しみが癒されるように、きみの苦しみを分かち合える男でいたい。……ねえ、キスしちゃ駄目?」
「駄目。ここ会社なんですよ――んぅっ」
初めて触れる彼女の唇はあまい、あまい味がした。心の臓が熱い感情に突き破られる。苦しく―ー切ない。
「なんで……荒石さんが泣くんです?」
言われておれは気づいた。唇を離したあと、自分の目から涙があふれていることに。
「さあ……なんでだろう。きみの悲しみや苦しみが伝わったからかな……。
ね。紅城さん。
おれたち本気でつき合おうよ。……そうだな。今日、帰りに話せる? きみの話がもっとおれは聞きたい」
「……でも」
「聞いてくれないと、おれ、もういっぺん紅城さんにキスしちゃうよ」
一瞬頬を赤らめた彼女であったが、なにか諦めたように、
「……分かりました」
そして揃って会議室を出て、堂々と、一緒に、自席に向かった。……これ、噂される案件だろうなどうせ。お泊りしたとか、んでだから翌朝一緒したとか、誤解されてもおかしかない事態だ。
話を聞いて、キスしたりしているうちに始業時間ぎりぎりになってしまった。だから、一緒に行動するのは、決して紅城さんがおれに惚れているとかではなく、単に、彼女なりの配慮なのだろう。
でも、おれは、おれの席のほうが近いから、そこに行く前に、
「じゃあ、仕事終わったら入り口で待ってる。昨日待ち合わせたあそこな」
紅城さんは別段声量を押さえることなどなく、「……分かりました」と答え、彼女も自席へと向かった。
自席につくと、「なんで紅城さんと一緒なの?」と周りには突っ込まれたが、「出社したときにたまたま一緒になりまして」とおれは嘘をついた。
紅城さんが三田課長を好きである以上、おれと噂されるのは本意ではない――と思ったからだ。
しかし、一緒に出社したかに見えた事態を勿論あのひとが放置するはずがなく。
『お昼休みに第一で話せる? 12時30分くらいに。OKなら待ってる』
携帯にメールが来た。送信者は……
彼女らしいな、とおれは笑った。――そう、この事態を招いた張本人。おれはあなたとも話す必要がある……おれが、紅城さんの味方である以上は。
* * *
「それで。……紅城さんになにをしたの。
紅城さん。泣いていたじゃない。……どうして?
念のため聞くけど、彼女に……手を出したわけではないわよね」
そうやって正義を振りかざすさまは、神に愛でられた天使のようだ。相変わらず桐島さんは美しい。
けども、そんな天使のような桐島さんに、おれは酷いことを言い放つ。
「それは、……誰のためなんです? おれや紅城さんのためだとか言って、本当は、……桐島さんは、自分の周りが平和であって欲しい。エゴに基づいて動いているだけなんじゃないですか?
もっと言うと。……紅城さんに、無事結婚式に来て欲しい。そのためだけに動いているんじゃないですか?」
そして自分の秘めた想いをも打ち明けた。桐島さんには……おれが三田課長を好きなことで心配をかけた彼女には、話す義務があるからだと考えたからだ。
「告白すると、おれ……。紅城さんが好きです。
中野さんの離職で泣いたのを見たときにがつーんと来て。桐島さんが好き、三田課長のことが好き、とか言っておいて、自分でも呆れちゃうんですけど……。
おれ、紅城さんのことは本気です。彼女は特別なんです。ですから、仕事が終わったら彼女におれの気持ちをちゃんと――伝えようと思っています」
紅城さんが派遣会社に雇われている以上、おれが、紅城さんにセクハラでもしたら大問題だ。紅城さんの上司である三田課長もその辺を心配しているはずだ。おれは、桐島さんを通して三田課長に、おれが会社間で問題にならない行動をすることを伝えたうえで、会話は打ち切りとなった。
去り際、桐島さんの曇った表情が気になった。でもそれに対してなにか手を打とうとしない自分は、ああ完全に、紅城さんサイドの人間になってしまったのだと――思った。
* * *
「ねえ。荒石くんって、紅城さんとデキてる?」
くだらない。おれは急いで紅城さんのところに行かなければならない。邪魔をするな! と叱り飛ばしたいところだが、おれはあくまで表面上は柔和に――そう、あの桐島さんが教えてくれたみたいにマイルドに応対する。おれはにっこりと笑い、
「ご想像にお任せします」
きゃー、と悲鳴のような声があがった。が、そんなのはどうでもよかった。他人の噂話に現を抜かすよりも優先すべきことがあるであろうに。高原さんたちが、桐島さんの人気に嫉妬して、口さがない噂を流したのをおれは知っている。まああのひとたちのコミュニティ力に頼ったこともあるが、いまは反省している。ああして三田課長に諭された以上は。
待ち合わせ場所で、紅城さんは、携帯をいじることもなく、ただ待っていた。その姿に胸がきゅんとなる。今日は、ラベンダー色のワンピースで、舞台に立つ女優みたいだ。
「ごめん。待たせちゃって。……連絡先聞いたほうがいいよね? こういうときのために。……てあ、なんかおれがっつき過ぎちゃってごめんね? おれたちまだ、友達関係になれるかまでは分かんないのに……」
「いいです。交換しましょう……」
彼女が屈むと長い髪が揺れ、おれの胸はときめいた。淡い……シャンプーの香り。その香りを嗅ぐだけでおれの胸はときめいた。赤外線通信でアドレスを交換するとおれは、
「立ち話もなんだから。どっかで食べながら話そう。近くの店でいいかな? あ、言っておくけどおれが奢るよ」
「じゃあ、初回だけ……」
ということは次回もあるということか! 意図せずおれの胸は高鳴る。……本気でおれのことを考えていてくれるのだろうか? 彼女は。
近くのちょっとお洒落な居酒屋に入った。店に入るとおれはおしぼりで手を拭き、
「おれは生ビール。紅城さんは?」
「あたしも……生で」
『生』という単語に違う連想を働かせたおれはいったいどうしたらいい。こんなことを知られたら自殺するほかあるまい。おれは妄想を恥じつつも店員さんを呼び、ドリンクを頼んだ。
お通しはいかの塩辛だ。塩気があって美味しそうだが、せっかくなのでキンキンに冷えたビールを待つとしよう。紅城さんも同じなのか。手をつけない。おれはメニューを手渡し、「ぱぱっと決めちゃおうか」と持ちかける。
「ここはお刺身とか……出汁たっぷりの卵焼きとか……あと天ぷらやラーメンサラダも滅茶苦茶美味いんだ」
「あ……それ全部食べたい……」
素直に打ち明ける紅城さんが可愛かった。じゃ、いま言ったの全部頼むよ、とおれは笑いかけ、ドリンクを運んできた店員さんにオーダーを通した。
すると紅城さんは、神妙な顔つきで、
「荒石さんて案外……男っぽいひとなんですね」と呟く。
「ん? どういう意味?」とおれが聞けば、
「だっててきぱき決めるから。なんでも。……待たされるの嫌いだったりします?」
性格の良し悪しをこの会話から判断しているのかもしれないなあ。よし、乗った。
おれは落ち着いて答えた。「ときと場合によるなあ……。ね、泡消えちゃうの勿体無いから、乾杯しない?」
ジョッキを持ち上げる彼女は、「なにに乾杯するんです?」
「きみの、新しい恋に」
ぶ、と彼女が吹き出した。たまらないといった様子で笑い、「なに言ってんですか。あたし、失恋したばかりなんですよ? 新しい恋なんか……考える余裕なんかないです」
「じゃあどうしてここに来たの」
素敵な答えが返ってきやしまいか。期待を込めてのおれの問いに、彼女は首を振り、「勘違いしないでください。あなた、しつこそうだし、断るならちゃんときっちりと目を見ておはなししないと……そう思ったからです」
言って生ビールで喉を潤す彼女に、
「おれとのキス、そんな嫌だった?」
彼女は勢いよくビールを吹き出した。
実を言うとおれはかなりのテクニシャンである。大学生のときに、性に奔放な先輩に、あらゆる技を叩き込まれた。おれにキスされると並みの女は腰を抜かす。紅城さんもそれなりに翻弄されたのか、彼女の顔は赤い。
「いえ別に。そんなんじゃ。……今度合意なしでキスなんかしたら、あたし、本気で怒りますよ?」
「ということはつまり」とおれはジョッキを傾け、「きみの許可を得られればきみにキス出来る権利をおれは確保したわけだ」
「やだ。そんな……!」
にっと笑い、ごく、ごく、ごく……と力強く喉仏を鳴らして、見せつけるようにビールを飲む。この男らしい喉仏に彼女は釘付けに違いない。なにを連想しているかまで想像がつく。
ある程度の成果を得られたと感じたおれは、だが、ことを急がない。ジョッキを空にするとメニューを手に取り、「次はなに飲もうかな。あまいものにしようかな」
「……あまいお酒、お好きなんです?」彼女もおれと同じ趣味嗜好の持ち主なのか。ビールで喉を潤してからお通しに箸をつける。
「男が、あまい酒好きだとおかしい?」
「いえ別に」と塩辛を食べる彼女は、「……美味しい。塩気があってぷりっぷりとして……。一人暮らしだとなかなか塩辛なんて食べないですよね」
「どうして紅城さんは派遣の仕事をしているの?」
紅城さんの顔色が曇ったのをおれは見逃さなかった。
「あ、その……。答えにくい質問だったらスルーしてくれていいよ」
地雷を踏んでしまったかもしれないという自覚はあるのだが、おれのなかに相反する感情が生ずる。――彼女を傷つけたかもしれないという悔恨と、彼女のことを知りたいという原始的な欲求が。
おれは、彼女の反応を待った。やがて箸を置くと彼女は、
「暗い話になりますけど構いません?」
「歓迎だよ」とおれは言う。「そもそも、おれはきみのことが知りたくて、きみのことを誘っているんだよ。なんでもいい。話して」
「……分かりました」
やがて料理が届くと、彼女は手際よく皿を配る。小皿に醤油を入れてくれて。「あ。ありがとう」お嫁さんみたいだな、と思いつつおれが礼を言うと、彼女はこころを決めたらしい。料理を美味しい美味しい言いながらある程度食べたのちに、
「わたし、……小さい頃に、父と母に捨てられて。母方の祖母に育てられたんです」
衝撃の過去を打ち明ける。
ドラマや映画ではよく聞く設定だけれど、実際そんな被害に遭った人間を前にするのは生まれて初めてなのかもしれない。咄嗟のことで、おれは、声を出せなかった。
「そんな顔しないでください」と微笑する彼女。「だから、……打ち明けるのは嫌だったんです。就職も不利で……。ねえ、どうして、親がいないことで内定切られたりするんですかね? 親がいない。そんなのは、子どもであるあたしの責任ではないのに」
――本当に、そう思う。けども、おれは、彼女にかけるべき、的確な台詞が見当たらなかった。
「ようやく就職出来た会社で……セクハラに遭って。ひどい上司でした。こっちは泣き寝入りでした。訴えるお金もなにもない……権力に屈する自分が、惨めで、惨めで。
それで転職活動なんかしても、勿論親がいないことが不利に働くし。正直に退職理由を打ち明ければ、こっちは被害者だというのに、悪者扱いされて。勿論届くのは不採用通知。
水商売に就こうかとも考えましたが、……躊躇われました。
母が、水商売をしている女で、それで、懇意にしていた客と恋に落ちて、あたしたちを捨てたんです。あたしと、弟という子どもがいるのにも関わらず。
……母は、あたしが就職するのを見計らって、姿を見せたんです。わざわざ祖母にあたしの東京の住所まで聞いて。……母があたしになにを頼んだか。分かりますか。
……絶望。絶望だけですよ。あたしのなかに生まれたのは。
小さな子どもだった娘が、立派な大人になったのを喜ぶどころか頼みごとをするなんて……」
「となると、きみは、大学を……自費で稼いで卒業したのかい?」
「ええ。奨学金を使って。それに、自宅から通える距離でしたから」
「東京に出たのはやっぱり、……お母さんのことが原因?」
「ですね」と彼女。「仙台はいいところなんですけど、母の想いがこびりついているのがいやで。
断片的に、母の記憶が残っているんです。
抱き締めて貰ったこと……テストの点数がよくて褒められたこととか。作ってくれた揚げドーナツの味。そういう、……ちょっとでもやさしくして貰った過去が、徹底的にあたしを、痛めつけるんです……」
「ストックホルム症候群というんだよねそういうの。……犯罪被害に遭った人間が、極限状態に置かれ、犯人にすこしでもやさしくされればそれが拡大解釈される……」
「ええ」と意味を知っているふうの彼女は頷いた。「……ですね。母は、すぐに怒る短気なひとだったけれど……叱られた思い出よりも、自分のなかで、ちょっとでもやさしくされた記憶が勝って。複雑です。
そして、……母のために動く自分が、惨めで」
奨学金も自力で返済しているのだろう。決して生活が楽だとは言い難い、しかも、幼少期に捨てるというトラウマを植え付けておいて、何十年ぶりに現れたと思えば、金の無心とは。世の中には、生まれてこなければよいという人間が存在する。話を聞いただけで憎悪を感じる人間がいるだなんておれは――このとき初めて知った。
「その、……きみのお祖母さんは……」
「三年前に、亡くなりました。実家は処分しました」
「弟さんは……」
「地元で働いています。……天涯孤独ってこういうことを言うんですよね。……これで答えになりました? あたしが派遣で働く理由……。
荒石さん。きっとあなたは、ぬくぬくと親の愛情に包まれた平和な環境で育ってきた。――価値観が違い過ぎる。合わないんです。あたしたち……。
あたしは、人間が、ひとの皮を被った獣だということを知っている。……母の愛人に、襲われそうになったことだってあったんです。あたし、必死で自分を守りました。真冬の夜、部屋に戻るのが怖くて、一晩中徘徊したことだってあります。……男だって怖いんです。
だから、あたし……。荒石さんとは、一緒になれません。
あなたの親御さんが、あたしのような、どこの馬の骨とも分からない女と、一緒になることなんか……許すはずがない。許さないはずよ……。
あたしは、一生、ひとりで生きていくんです。ひとりで、死んでいくんです……」
「違う」とおれは言い切った。いまにも泣きそうな彼女を見据えながら。「おれは、きみと――出会った。出会って、恋に落ちてしまった。
親がいない。育ちが違う。そんなのがいったい、なんだっていうんだ。
紅城さん。あなたは……おれが、あなたを就職試験のように、ふるいにかけるとでも思っているんですか? おれを……信じられない?」
「だってどうせ駄目になるもの!」涙声で彼女は叫んだ。「あたし……あたしには分かるわ。あたしが、あなたの親御さんだったら、こんな女なんか、……一緒になることを許すはずがないもの。
あたし、……駄目になったことがあるの。だから……ひとりで生きていこうと」
「なら、何故……きみはおれにこの話をしている」
「簡単よ」と彼女は口許に笑みを作り、「頭でっかちのエリートの荒石さんに、ご理解頂いて大人しく退場頂こうと思っているからよ。恋愛というステージから」
「――自分でうまく笑えていると思うか? ――高嶺」
彼女の目が、見開かれた。
「きみは、……理解して欲しいんだね? 共感して欲しいんだね? もう――無理なんかするな。
人前で強気な顔を取り繕うあなたも、生のままのあなたも、全部全部、――愛している……!」
もう、言葉は要らなかった。TPOなんか糞くらえ。人目をはばからずおれは、――彼女を抱き締めていた。
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