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流血表現🈶
夜の闇に染まった村の山奥を走り続ける。
鬼の気配が今までで一番濃い。吐き気を催すほどの異臭と鉄の匂いが嗅覚を刺激し、嫌な予感が冷や汗となって体中に流れる。汗で濡れた前髪が額に張り付いた。
「○○ちゃん……!」
前を走る甘露寺さんの声はガタガタと震えていた。表情は見えないが乱れた三つ編みから覗いた皮膚には雨後の雫のように汗がしたたり落ちており、焦りが伝わって来る。
ねぇ、○○。
君が、君たちが言っていた“神様”って“鬼”なんじゃないの。
それを知られないように僕に薬を盛ったの。
ぐるぐると疑問や問いが小波のように浮かび上がっては消える。気持ちが焦っていくたびに頭の中に広がる霞が色を濃くしていき、記憶を煙のように消失させていく。
絶対に忘れたくない。そんな思いとは逆に○○との思い出は段々と薄れて行ってしまう。
最初に会ったのはいつだった?どんな話をしたっけ?どうして好きになったんだっけ?
─『“鬼”のいない世界でまた会えたら、わたくしと恋仲になってくれるかしら。』
そう物悲しげに微笑んだ○○は、どんな声をしていたっけ。
自分の脳裏に横切ったその疑問、心が一瞬で冷えわたって石のようになった。
どれだけ頭を震わせてもこの一ヶ月、毎日のように聞いていたあの声は一向に思い出せない。頭を働かせるたびに深く暗い溝の中にはまっていくように視界が塞がっていき、思考が麻痺し始めた。いつしか焦りは恐怖に変わっており、胸が早鐘を打ち始める。
「ここ…」
まだ震えを帯びた甘露寺さんの言葉に足が止まり、フラフラとする視界を前に固定させる。
そこには倉庫ほどの大きさの古びた建物がぽつんと建てられていた。太く硬そうな紙垂が鍵の代わりのように建物の扉を閉めていて、周りには木の板が打ちつけられている。
まるで日光から避けるように薄暗い木の陰にぽつんと建っているその建物からは、確証が持てないほど僅かにだが血の匂いと共に鬼の気配が漂って来た。
「…なんでしょうか、この建物。」
ここに鬼が居るのだろうか。
…いや、居る。気配がする。だけど確証が持てない。
そんな自分でも意味の分からない違和感が体に纏わりつく。
甘露寺さんも僕と同じ気持ちなのか困惑と焦りに染まった瞳でその建物を見渡していた。
僕も同じように暗闇に視界が眩まないようにと目を凝らしながら周りを見わたすと、淡い影のような赤黒いシミが木の板の一部分にこびりついているのが見えた。
なんだろうとしゃがみ込み覗き込むと、それは血痕だった。茶色く変色していないところからまだ新しいものなのだろう。確認するようにちょこんと指先を血の塊に触れさすと、まだ完全には乾いておらず、僅かに粘り気を残している。
自身の指先に滲んだその血の液に、体に沁みるような胸騒ぎを感じた。
脳内に飛び出かけた嫌な考えを必死に押し込む。
「…開けましょう。中に誰かいるかもしれないわ。」
いつもの明るく柔らかい声とは違い、酷く硬直したような固さを残した甘露寺さんの声に少しの躊躇いを混ぜた頷きを返す。
違う。だって、だって○○は、さっきまで僕の横で笑っていたんだから。
いつも通りのあの○○の下手くそな笑顔を思い出そうとした瞬間、思考が止まった。
─…どんな笑顔だっけ。そもそもどんな顔をしていたっけ。
目の色も、肌の色も、髪の色も、何一つ思い出せない。
「無一郎くん?」
無意識に立ち止まってしまった僕を甘露寺さんが心配そうに眉を下げてのぞき込む。
「…なんでないです」
そう言って平然を装った表情の裏では、言葉では言い尽くせないほどの動揺や恐怖が籠っていた。足を進め、扉を封じ込んでいる紙垂を自身の刀で斬りつけるたびにその複雑な感情は強まっていき、俺の心に宿った誰かがここから先は見たくないと叫んでいる。
誰かの事を忘れるなんて、今日が初めてなんかじゃない。
お館様の元に来て、鬼殺隊という立場について時からずっと記憶の継続は安定していなかったし、人の声も顔も忘れるなんてことは両手で数えきれないほどあった。
そんなこと気にする間もないくらい自分の事で手一杯だったし、どうでもよかった。
どうでもよかったのに。
二人がかりで斬りかかって、ようやく行く手をふさぎ込んでいた紙垂がぱたりと切れた。
鍵の失った扉が重力に従って微かに開き、キィっと甲高い軋んだ音を立てる。
その瞬間、突然勢いよく鼻に飛びかかってきた異臭に思わず顔を顰め、鈍い声を洩らす。
息が詰まるほどの臭気を探ろうと中を覗くが、酷く暗くよく見えないせいで異臭の原因は分からない。ただただ重苦しい悪臭が強く漂ってくるだけだ。
だけど鬼は確実にいる。今までで一番気配が濃く、確証が持てる。
目に全神経を注ぎ、鞘に入っている刀に手を添え、周りを注意深く見渡した瞬間。
「…あれ、バレちゃった?」
耳を塞ぎたくなるような、濁ってがらがらとした声が僕の鼓膜を突き刺した。
喉が潰れたような濁音を帯びたそれは人間の声ではなかった。
「おかしいなぁ…この稀血は気配を薄められるはずなのに。」
暗闇の中、下壱と刻まれた、爛れたような赤い目が僕と甘露寺さんのことを自信たっぷりの目つきで見下ろしていた。その瞬間、猛烈な吐き気が胃の中を暴れ、心臓が破裂しそうなほどドキドキといやに存在を主張してくる。あまりの憎悪の感情に体がバラバラになりそう。
「恋の呼吸」
甘露寺さんの赤紫色に染められた刀の先が鬼へと近付く。
だがその刃が鬼の首に届くことは無く、するりと体を捻らせて交わされる。ちらりと髪のすき間から覗いた鬼の目は、勝利の色そのものだった。
落ちつけ。俺も加勢するんだ。
そう思っているに心臓は他人のようにドキドキと勝手に動いている。
周りに飛び散っている血はもしかしたら○○のものなんじゃないだろうか、そんな嫌な考えが頭から離れてくれない。落ちつこうと息を整えるたびに不安は膨らんでいく。
大丈夫、だって○○は───
「えっと、〇〇ちゃん…だっけ?」
喉が渇きついたようなジャラジャラとした声で告げられたその言葉に大きな壁にぶち当たったような、言葉で言い表せないほどの巨大な絶望感が心を埋めた。
なんでお前が○○の名前を知っているんだ。
見開いた目が元に戻らない。胸の内で暴れている心臓が落ち着かない。
いやだ。いやだいやだいやだ。
「あの子は今までの生贄の子達の中で1番すごかったなぁ…」
「腕をもぎ取った時も腹を殴った時も細い呻き声をあげるだけで叫びはしなかった。」
「すごいよねぇ…まだまだ小っちゃかったのに。」
「…まぁ他の人間はうるさかったけど。」
プツンと心の中の何かが切れた。
足に力が入り、俺が進んだところを被せるように乾いた土の埃が雲のように湧き起こる。
「無一郎くん!!!」
甘露寺さんの短く高い叫びが耳を貫ける。だけど、そんなこと気にならなかった。
「霞の呼吸」
自身の口からフウウウウという呼吸音が洩れ、辺りに白い霞が広がっていく。白く染まった自身の刀で素早く鬼の喉仏を刺し、固定するようにグリグリと左右に振りながら深く突き刺すと、鬼の首や口から零れ落ちた血飛沫が、生き物のように勢いよく辺りに飛び散った。
次に腕、足、胴。そして首。
─…『一生を添い遂げるのなら神様なんかじゃなくて好いた相手がいいわ。』
そう少し前にそう言った○○は、もう居ない。