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第2話「全部、俺のせいだ」
目を覚ました瞬間、駿は「今日」という言葉を嫌った。
それは始まりを意味する言葉なのに、彼にとっては、ただの再開だったからだ。
昨日の延長。
何も変わらないことの再確認。
それが「今日」だった。
枕元のスマホが薄く光っている。
画面には未読の通知がいくつも並んでいた。
大学の掲示板アプリ、ゼミの連絡網、バイト先からの着信履歴。
それらは、すべて**「無視した結果」**だった。
指を伸ばすが、タップしない。
いや、できない。
開いてしまえば、返信という行為が必要になる。
言い訳が要る。
説明が要る。
そして、それができない自分を、もう一度直視しなければならない。
「……どうせ、俺が悪いんだろ」
小さく呟いた声は、部屋に吸い込まれた。
顔を洗うために立ち上がる。
鏡の前に立つと、そこにいるのは、誰の人生も生きていない顔だった。
覇気のない目。
張りのない頬。
覚悟も目的も映らない、薄い人間。
「……お前、誰だよ」
返事はなかった。
大学へ向かう足取りは、重い。
重いのは足ではなく、胸だった。
駅までの道には、朝の匂いがある。
パン屋の焼けた香り、制服の柔軟剤の匂い、アスファルトに残る夜の湿り気。
それを吸い込むたびに、駿は思う。
――俺は、この「普通」の中に、いない。
車内では、学生たちが談笑している。
課題がどうとか、サークルがどうとか。
些細で、誰もが通る話題。
なのに、どうしてか、
それらが自分には許されていないもののように思えた。
席に座れず、ドアの近くに立ったまま、窓に映る自分を見る。
そこにいるのは、他人だった。
「お前、いつからそんな顔になったんだ」
問いかけても、答えは返ってこない。
講義室に入ると、空気が一段冷たく感じられた。
みんなが席に着き、ノートを開き、ペンを取る。
「始まる」
それが、恐怖だった。
自分の存在も、思考も、問われる時間。
逃げ場のない時間。
教授の声がする。
だが、意味は頭に入ってこない。
ノートは白いまま。
視線は、机の木目に釘付け。
――書け。
――聞け。
――考えろ。
頭の中で、命令が鳴る。
だが、身体は、動かない。
「……なんで、動かねえんだよ」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声で、自分を責める。
そのとき、隣の席の亮が、ノートを見せてきた。
「大丈夫? ここ、こうだと思うんだけど」
その親切に、駿は耐えられなかった。
「……いい」
声が、異様に冷たく響く。
亮は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、
「そ、そう……」と言って、視線を戻した。
その瞬間、
胸の奥で、何かが切れた音がした。
自分で、壊した。
今、確かに。
わざとじゃない。
でも、止めなかった。
――俺は、また、やった。
昼休み。
誰とも目を合わせず、学食にも行かず、中庭のベンチに座る。
弁当を広げる学生たち。
スマホを見る学生たち。
駿の腹は、空いている。
でも、食欲はない。
代わりに、胸の奥で別の空腹が騒ぎ続けていた。
承認。
安心。
つながり。
それらへの、どうしようもない渇望。
だが、求めることが、もう恥ずかしい。
――どうせ、俺には、釣り合わない。
そうやって、自分を切り捨てていく癖だけが、上手くなっていた。
バイトの時間が迫る。
頭の中では「今日は休みたい」が渦を巻く。
でも、休めば、また一つ信頼を失う。
小さな信頼を、
自分で、少しずつ、燃やしてきた。
そして、もう、燃えるものが少ない。
コンビニのバックヤードで、制服に着替える。
鏡の中の自分は、仕事用の顔をしていない。
目が死んでいる。
レジに立っても、言葉が出てこない。
いらっしゃいませが、遅れる。
トレイを出す手が、もたつく。
「……遅い」
客の小さな舌打ちが、胸を刺す。
――そうだよな。
――俺、遅いよな。
処理できない。
判断が遅い。
覚えが悪い。
全部、俺だ。
客が去ったあと、レジに残る静寂が、やけに重い。
「……俺、ここにいていいのかな」
声に出した瞬間、
情けなさが、喉を塞ぐ。
帰り道、細い路地に入った。
街灯の明かりが、地面に斑を作る。
駿は、そこで、立ち止まった。
「……全部、俺のせいじゃん」
逃げなかったから?
違う。
逃げたから。
やるべきことから。
向き合うべき人から。
言うべき言葉から。
小さな逃避が、
小さな失敗を産み、
その積み重ねが、今の自分を作った。
誰にも、殴られていない。
誰にも、強要されていない。
――自分で、崩した。
それが、一番、痛かった。
アパートに戻り、部屋に入る。
散らかった部屋。
未開封の郵便物。
洗っていない食器。
「……すげえな」
失望が、静かに広がる。
自分の人生なのに、
他人のゴミ部屋みたいだ。
ベッドに座り、頭を抱える。
「……戻りたい」
でも、どこに?
昨日?
一ヶ月前?
入学した日の自分?
どれも、もう、遠い。
――戻れる場所なんて、最初からなかったのかもしれない。
夜、布団に入る。
天井のシミを、ただ見つめる。
「……俺、消えても、困る人、いないよな」
それを、口に出してしまった瞬間、
かすかな痛みが走る。
心が、まだ、死にきれていない証拠。
でも、同時に、思う。
――だからって、どうする?
誰かに縋る?
助けを求める?
その勇気が、
もう、どこにもない。
駿は、目を閉じる。
涙は、出なかった。
ただ、
胸の奥に、冷たいものが広がっていった。
絶望という名の、静かな水が。
翌朝。
また「今日」が来る。
駿は、ベッドの上で、天井を見ながら思った。
――俺は、もう、駄目なんじゃないか。
いや――
もう、駄目になっている。
それを、認めることが、
たぶん、いちばん、つらかった。