テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
海の紅月くらげさん
「あとで美容院で切ってもらってね。とりあえず整えるだけだから」
「うん、ありがとう」
生徒たちがいなくなった教室で、私は窓際の席に座る。
夕陽が空を茜色に染めていて、もうじき日が暮れる。綺麗なグラデーションのかかった雲を眺めながら、背後にいる彼に意識を向けた。
「潤って本当に器用だよね」
「俺こういうの得意なんだ。自分の髪も切ってるし」
自分の髪まで切っているなんてすごい!と驚いていると、潤が「ただ嫌だっただけ」と付け足すように言う。
「常に気を張ってないといけなかったから、美容室とかってなんていうか……相手に身を委ねている感じがして苦手だったんだ」
「気を張ってるって……どうして?」
「そういう家なんだ。俺だけじゃなくて、みんな」
〝みんな〟というのは、歩くんや武蔵先輩、和葉のことだ。九條という家は私が思っている以上に、厳しいのかもしれない。
「ああでも、武蔵は違うかな」
「自由奔放だからですか?」
厳しい家だとしても武蔵先輩は構わずにあのテンションで過ごしていそうだなと苦笑する。けれど、潤は「そんなことないよ」と返した。
「武蔵はああ見えて誰よりも責任感が強くて優しいんだ。一番九條の家に苦しめられているかもね」
「え……?」
「違うっていうのは、武蔵の両親は子ども大事にしている人たちなんだ」
それはまるで、他の家は——潤の家はそうではないみたいだ。
だけど私はそれ以上なにも言えなかった。触れてはいけない気がする。
それに私だって触れられたくない部分がある。
子どもを大事にしている両親。うちの家は〝私だけ〟が大事にされる対象外だ。
私に対して、無関心というよりも迷惑そうにされるだけ。鬱陶しそうに私を見るあの目を思い出すと、心が冷えていく。
「ましろん、もう無理はしないようにね」
優しい口調で言う潤はまるでお兄ちゃんみたいだった。どうして弟の実里くんとはあまり仲が良くないんだろう。
潤はどちらかというと歩み寄り違っているように見えて、実里くんが一方的に嫌がっているように見える。
いつか二人のこともわかる日がくるのかな。
「せっかく綺麗な長い黒髪だったのに」
私の髪に触れながら潤が惜しむように言った。
「そうかな。ただ伸ばしっぱなしにしていただけだよ」
「本当だよ。一目見たときから思ってた」
「え?」
こんな風に自分の髪を褒めてもらえるのなんて、不意打ちすぎてどきりと鼓動が高鳴る。
「ぅえっ!?」
背後からぎゅっと抱きしめられて、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「じゅ、潤! 髪の毛ついちゃうよ!」
抱きしめ方があまりにも優しくって、振りほどけない。
「ごめんね、俺たちのせいでこんな思いさせて」
上手く息ができなくて言葉が出てこない。首を横に振るのが精一杯だった。
「あの頃も、ちょうどこのくらいの髪の長さだったね」
「え?」
潤と初めて話したのは、この屋上で最近のはず。
もしかしで忘れているだけで前にどこかで話をしたことあるのかな?
「……前に潤と話したことあった?」
「ううん、まぁ……一方的に知っていただけかな。泉と親しそうにしている女の子が珍しくてさ」
潤の言葉に少し驚いた。
他の人にはそう見えていたのかな?
九條くんは誰とでも仲良くしていると思っていたけれど、私が女子の中では近い存在だったのかな。
いや、でも今更嬉しく思っても仕方ないんだけど。
九條くんにとって、私ってシンデレラ候補でしかなくってそれ以上の存在ではなかった。
「さ、できたよ」
「ありがとう、潤」
失恋したら髪を切るっていう話があるけれど、ある意味タイミングがよかったのかも。
髪が綺麗に切りそろえられた頃、私の気分は心機一転しているだろうか。今よりもっと前向きな気持ちになれるといいな。
そんな風に思っていたのに、よりにもよって帰りに彼と出会ってしまった。
ここは私の地元の駅のはずだ。どうして彼がここにいるのかはわからない。誰かと待ち合わせ?
けれど、私に気づくと軽く手を振って歩み寄ってくる。
「水沢さん」
前と変わらず優しい口調だった。
「待ってたよ」
「……九條くん」
九條くんはこの間のことがあっても、いつもと変わらない。気まずいのは私だけなのかもしれない。
「事情は聞いたよ。大丈夫?」
「……うん、平気」
「髪も短くなっちゃったね」
小さなため息一つ吐いて、九條くんの手がゆらりと伸びてきて思わず身構えた。その手は躊躇うことなく。私の短くなった黒髪に触れる。
「そんなに警戒しないで。心配してきたんだ」
なんで今更、前みたいに優しくするの?
この間の発言なんてまるでなかったことみたいだ。
「それとさ、九條って他の人とかぶるからさ、泉って呼んでよ?」
俯いている私に、ねだるように九條くんが耳元で甘い囁きをしてくる。
顔を上げて彼を見る。そして唇を震わすようにゆっくりと動かした。
「泉くん……」
どうして——そんな寂しそうな表情をしているの……?
「みんなと仲良くするのもいいけれど、最後に選ぶのは一人だけだって忘れないでね」
彼らとの関わり方に釘を刺すように泉くんが微笑む。
私が手を差し伸べられるのは、一人だけ。
他の四人の願いは叶えられない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!