「なぁ天莉。ベランダのジャガイモを使って何か作ろうと思うんだが、どんなものなら食えそうかな?」
天莉が、尽と暮らし始めてすぐのころ、尽と共に天莉の住んでいたアパートまで取りに行った家庭菜園の鉢植えたちのひとつに、深めの鉢に芽が出たジャガイモを植えつけていたものがあった。
この鉢植えを天莉から見せられた時、尽はこれが無事実る頃――つまりは百日後も一緒に居ることを前提に『収穫が楽しみだ』と天莉に話して彼女を驚かせたのだけれど、その望みは見事叶ったと言える。
天莉は尽がかつて要望した通り、五月末頃に無事収穫出来た五つばかりの立派なジャガイモを使って、根菜の味噌汁を作ってくれた。
それにいたく感銘を受けた尽が、直樹の家からもらってきたという芽の出てしまった別のジャガイモを三等分にして新たに植えて――。
いま尽が手にしているのはその第二陣が実を結んだジャガイモたちだ。
今回は十一個も収穫出来て万々歳の尽が、そのジャガイモを手に『何を作ろうか?』と天莉を振り返ったのだけれど――。
「……ホントにごめんね、尽くん。折角聞いてくれたのに……私、今は何にも食べられそうにないの」
本来ならばそのジャガイモを使って天莉が尽に手料理を振舞ってくれるはずだったのだが、このところ天莉は吐き気と倦怠感に襲われて寝込んでいることが多く、それどころではない。
代わりに、一緒に暮らし始めた当初では考えられないくらい料理だけは卒なくこなせるようになった尽が、天莉を休ませて料理全般を頑張っているのだけれど。
しんどそうにしている天莉が横たわっているソファー付近が何となく雑然としているのを感じて、尽は心の中で小さく吐息を落とした。
尽はもちろん料理だけではなく他の家事も天莉に代わって一通りやるようにしている。
特に掃除に関しては天莉をこれ以上不調にさせないために、と頑張っているつもりだ。
とはいえ、まぁ床掃除自体は天莉が調子を悪くしてからすぐに買った、全自動お掃除ロボット『ルンダ』が毎日してくれているから尽がどうこうしなくても埃は落ちていないのだが、何だか天莉が掃除してくれていた時のようには、部屋が綺麗に片付かないのは何故だろう。
天莉がまぁまぁ元気そうな時にそれとなく聞いたら、「あるべき場所にモノが戻っていないからじゃないかな……? ごめんね。私がもっと動けたらちゃんとするんだけど」と言われて慌てて「しなくていい」と天莉を気遣った尽だ。
その件があってからは努めて使ったものはその都度元の場所に戻すようにしているつもりなのだけれど、どうも忙しさにかまけてそれがおろそかになりがちみたいで。
天莉は「その気持ちだけで十分だよ。尽くんが言うほど散らかってないし」と、体調不良のなか、蒼白な顔をしながらも笑ってくれるのだけれど、尽としてはどうにもモヤモヤが募る。
そもそもの問題として、高嶺家にはヤンチャ盛りの若猫オレオがいて、天莉が寝ていてもお構いなしにあちこち走り回るから。
気がつけばオレオのおもちゃがとっ散らかっているのだ。
「まだ遊びたい盛りだもん。仕方ないよ」
天莉はそう言って微笑んでくれるけれど、尽としてはもう少し落ち着いてくれたら、と思わずにはいられない。
とは言え尽が帰れば相変わらず尽にベッタリなオレオは、案外よその猫よりはおとなしいのかも知れない。だが甘えが酷すぎて、しばしば尽の身動きを封じてしまうのが難点だった。
(まぁ可愛いし、憎めないんだが……作業効率は悪いよな)
そんなこんなでハウスキーパーを頼むことも視野に入れた尽だったけれど、天莉が家で寝ていることが多い現状や、オレオが余り他所の人を歓迎しない性分なことを思うと、他人に家をうろつかれるのも良くないよな?とも思って。
結局出来ないまでも尽が暇を見つけてはオレオをいなしつつ頑張っているのだけれど、どことなく散らかって見える部屋を見回す度、尽は天莉の偉大さを痛感させられるのだ。
「……ごめんね、尽くん。私がこんなだから尽くんも落ち着かないよね」
そもそも尽は副社長業も忙しい身だ。
残業だって未だに割と多いし、下手をすると相手先企業の担当者の都合に合わせる形で休日出勤だって厭わない。
そんな中で料理のみならず掃除まで完璧にしろというのは酷な話だ。
ジャガイモを手にしたまま部屋の様子を見まわして立ち尽くしてしまった尽に、天莉が申し訳なさそうに眉根を寄せる。
「いや、天莉。キミが謝ることなんて微塵もないだろう? 天莉はいま、俺には出来ない大仕事の真っ最中なんだから」
そう。
天莉のお腹の中には、尽との赤ちゃんが宿っている。
このところの天莉の不調の全ては妊娠に起因するものだ。
現在妊娠十一週目。
六月の頭に行った、ニャンダードリームランドで愛を育んだ際に出来たハネムーンベビーです!と言いたいところだが、実際はそれより一ヶ月くらいあと。
七夕近辺の行為で受胎した子供のようで、医者からは予定日は三月二六日頃だと言われている。
つわりが酷いため、仕事は一応つわりが落ち着くまで休職という形を取っている天莉だったけれど、尽としてはそのまま退職でも構わないんだが……とすら思っている。
(会社にいたらイヤでもあいつらの情報が入ってくるしな)
副社長で、元・開発研究部所長だった尽のそばにいれば、特に――。
今現在拘置所に収容されている江根見則夫、江根見紗英、風見斗利彦、横野博視、沖村三好、伊崎不二男ら六名の話を、なるべくならば身重の天莉の耳へ入れたくない尽だ。
もちろん刑が確定した時には、顛末くらいは話すべきだと思ってはいるけれど、極力天莉の心を乱したくない。
とはいえ、仕事復帰に関しては天莉の意志を一番に尊重したいとは思っている。
だがそれと同じくらい。天莉さえ許してくれるなら、彼女が産休・育休に入っている間に、そのまま畳み掛けるように二人目、三人目を……なんてことを考えていないわけじゃないから。
(直樹んトコも賑やかになるしな。うちも負けていられないじゃないか)
直樹と璃杜のところに二人目が出来たと聞いたのは、天莉の妊娠が分かる半月ばかり前のことだった。
近しい間柄の人間の妊娠に、はっきりとは言わなくても『うちはまだかな?』と天莉が心乱されているのが分かって。こればっかりは授かりものだから仕方がないと思う一方で、正直尽自身も気持ちが急いたのは事実だ。
だからこそ、それから程なくして天莉の妊娠が分かった時には二人して心の底から喜んだのだ。
うまく行けば直樹や璃杜とは同級生の子を持つ親同士ということになるのだが、尽はいち早く二児の父親になる直樹に、育児休暇を勧めてみようと目論んでいたりする。
(――俺も取りたいしな)
上が率先してそう言うことをすれば、他の男性社員らも申請しやすくなるはずだ。
もちろん副社長としての仕事が忙しくないわけじゃない。
だが、父親――田母神啓も、初孫のことと思えばきっと、何とか取れるように善処してくれるだろう。
***
出産予定日まで一ヶ月ちょっと。
お腹は大分大きくなったけれど、つわりが落ち着いてからはこれと言ったマイナートラブルにも見舞われずに幸せなマタニティライフを送れている天莉だ。
お腹の大きな天莉でも着られるネイビーの落ち着いたマタニティドレスをプレゼントしてくれた尽が、「天莉の誕生日に、これを着てドレスコードのあるレストランに行こうか」と誘ってくれた。
二月八日当日――。
尽がいつも乗っている運転手付きの黒いセンチュリーの送迎でたどり着いた先は、天莉もよく知る高級ホテルで――。
「尽くん……ここ……」
そこは天莉が、エントランス前で横野博視にこっぴどいフラれ方をしたホテルで、当然天莉は中へ足を踏み入れたことのない場所だった。
期せずして丁度一年ぶり。
悲しい思い出のあるホテルへ連れてこられた天莉は、思わず眉根を寄せて尽を見詰めたのだけれど。
「前にご実家でそれとなく話したよね。俺が初めて天莉を意識したのはキミが会社のエレベーターで倒れた日じゃないって。実は一年前の今日、俺はたまたま天莉がここで横野たちから酷い目に遭わされる様を見かけていたんだ」
そう告白してくれた尽が、「あれはキミにとって相当辛い経験だったよね? ――俺はね、天莉。どうしてもそのイヤな思い出を、いいものに塗り替えてあげたかったんだよ」と微笑んだ。
「ここはとてもいいホテルだから。最低な奴らのせいで、天莉がここに悪い印象を抱き続けたままだなんて……寂しいじゃないか」
せり出したお腹が圧迫して、そんなには食べられない天莉に、尽はホテル側と話を付けて少量のコース料理を手配してくれていて。
「個別にこういうことにも対応してくれるとか……本当に最高のホテルだろう?」
そう言って、ククッと笑った。
「天莉、誕生日おめでとう」
尽の優しさに包まれて、天莉は二十代最後の誕生日に、高級ホテルでの辛い記憶を、幸せな思い出で塗り替えることが出来たのだった。
***
「天莉、準備出来たよ?」
尽の声に、天莉が「はーい」と答えて小さな赤ん坊をそっとベビーベッドから抱き上げる。
相変わらず尽の足元には愛猫オレオがくっ付いているけれど、オレオなりに察するところがあるのか以前のようにのべつ幕なし抱っこをせがんだりはしない。
今みたいに尽が何かをしようとしている時にはそっと足元に寄り添うようにくっ付いているのだが、そんなオレオの姿がいじらしく見えて、天莉は愛しさにキュッと胸が小さく拍動するのを感じた。
それにも増して――。
小さくてか細くて弱々しい腕の中の我が子の可愛さと言ったら!
本当に言葉に出来ないくらいで。
「まなちゃん、お風呂入ろうね」
〝まなちゃん〟と言うのはもちろん愛称で、いま天莉の腕の中にいる、生後一週間足らずの二人の子供の名は、高嶺茉菜花という。
今日は天莉と茉菜花が産院――御神本レディースクリニックを退院して来て初めて、茉菜花を風呂に入れる日だ。
「産院でも副医院長の奥さんだと言う助産師にしっかりレクチャーしてもらったし、直樹のところでも毎日のように勉強してきたからね。安心して身をゆだねていいぞ、茉菜花」
尽と天莉の娘の茉菜花は予定日通り、三月二十六日に誕生したのだが、直樹と璃杜のところの赤ん坊は予定日より一週間以上早い二月二十七日に生まれてきた。
早く出てきたからといって、別段小さいということもなく、むしろふわりの出生体重の二六七八グラムを軽く超えた三二〇二グラムの元気な男の子で。
お姉ちゃんになった〝ふわり〟と韻を踏んだように〝ほわり〟と名付けられたその子の沐浴を、尽は天莉の入院中、二人に頼んで何度かさせてもらっていたらしい。
新婚旅行の夜、何となく二人で話した夢物語を尽が覚えていてくれて、ちゃんと実行しようと努力していてくれたことが天莉にはたまらなく嬉しかった。
「パパ、有難う」
天莉が何の気なしに赤ん坊目線で尽に礼を言ったら「その呼び方も悪くないんだけど……やっぱり俺は天莉からは名前で呼ばれたいな?」と言われて。「俺もね、天莉のことはずっと変わらず名前で呼び続けたいと思ってるよ」と付け加えられた。
それは子をなして親になっても、ずっとお互いを〝個〟として尊重しようね?と宣言されているように思えて……。
天莉は照れながらコクッとうなずいた。
もちろん、子供の前では「お父さん」「お母さん」になることは多分にあるだろう。
だけど――二人きりの時くらいは。
天莉は「さぁ、おいで」と手を差し伸べてくれた尽の大きな腕の中に、小さくてか細い茉菜花をゆだねた。
尽が抱くと、自分が抱いていた時よりさらに小ぢんまりとして見える娘が、むずがることもなく安心しきった様子で尽に抱かれているのを見詰めながら、天莉は沐浴後に茉菜花へ着せるための服を準備し始めて――。
そのすぐそばで、尽がふわふわのタオルの上に寝かせた茉菜花から、上手に産着を脱がせている様子がうかがえて、天莉はこの上なく幸せな気持ちに包まれる。
およそ一年ちょっと前の今頃――。
二月八日に博視からこっぴどくフラれたことが、実は神様からの最上級のギフトだったんじゃないかしら?と思いながら。
END(2023/02/02-2023/10/15)
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