──ここは、いったい・・・?
大和は上体を起こし、辺りを見回した。
ズキンと頭の奥が痛む、大和は痛みを感じる所をさすってみたが外傷はなかった。
薄暗い部屋に置かれた寝心地の悪いパイプベットに横たわっている。枕は無く、薄いネズミ色の毛布が足元にクシャクシャになっている。部屋の隅にはアルミ製の薄汚れた便器が据え付けられていて、便座はあるが、フタは無い。床には使いかけのトイレットペーパーが一つ置かれている。三方はコンクリートの壁に囲われていて窓は無い。壁も天井もカナゴテ仕上げで、塗装もされておらず、ひんやりとした感じの部屋だ。天上には今にも切れそうな蛍光灯が、チカチカと光っている。部屋の向こうは外だ。日が射しているので昼間だということはわかる。日差しのわりに気温はさほど高くはない。空気に重みも感じない。ちょうど五月の爽やかな陽気といったところだ。そして、外と部屋の間にある黒い鉄格子・・・。
大和はベットから起き上がり、外に出る事を許さない鉄格子を握った。手のひらに冷たい感覚が伝わる。剥げかけている塗装が手のひらにこびりつく。素足なので足元も冷たい。床もコンクリートで出来ていて、黒いシミがあちこちに飛び散っている。大和は、力を入れて鉄格子を前後に揺さぶってみたが、一ミリも動かない。鉄格子の扉の部分には、外側に南京錠がかけられている。百均で売られているような安っぽい物ではなく、ホームセンターなどで売られているような、しっかりとした南京錠だ。南京錠には「5」という数字が書かれている。
──何だ、この匂いは・・・。
大和は息を絞った。外から流れ込んでくる空気に、何とも言いようのない悪臭が混ざり込んでいる。それは牛舎とも、養鶏場や養豚場とも違っていた。ただ、何か生き物の糞尿の匂いだということは間違いなかった。
大和は、首に着けられている革製の首輪に手をかけた。ステンレス製の直径5センチほどの大きさの輪っかと、小さな南京錠が付いている。さほどの圧迫感はないが、これも自力では外せそうもない。
──なんだここは・・・。
大和は頭を悩ませた。酒を飲んだ覚えはないし、警察署にしては妙だ。何故自分がこんな所に入れられているのか、全く理解ができなかった。
大和は鉄格子から手を放すと、ベットに座り込み、壁を見つめ記憶を辿った。
──昨日は、ちゃんと仕事に行ったよな。段取りの悪い、あの現場に・・・。
「ヤマちゃん、ついに来月から一箱千円になるな」
「松波さんも、禁煙したほうがいいんじゃないですか」
大和は、喫煙所に置かれたプラスティック製の青い長椅子に座り、タバコをふかしていた。大和は、飯田に買いに行かせた缶コーヒーを受け取りながら大きく煙を吸い込み、ため息と共に、白い煙を吐き出した。
「だよな。俺も止めたいとは思ってるんだけど、なかなか止められないんだよな」
「こないだは、何日続いたんでしたっけ?」
「四日・・・」
大和は、缶コーヒーを開け、口に含んだ。
「三日坊主じゃないだけ偉いな」
ミルクティーを手にした吉田の爺さんが、美味そうに煙を吐き出した。
「吉田さん、それって褒めてないですよ」
「病院に行って禁煙治療してもらったらどうですか?」
一年前までは、ヘビースモカーだった飯田が、スマホを弄りながら言った。飯田は子供が出来たのを期に、長年吸っていたタバコを止めていた。飯田が禁煙してからというもの、大和は仕事の後輩である飯田に対して、あまり偉そうな事が言えなくなっていた。
「そうだな、明日現場空けになりそうだから、行ってくるかな」
「それより松波さん、今度の飲み会、焼肉にしないっすか?」
先日、夜の首都高レースに勝ち、懐に余裕のできた飯田は、いやらしい笑みを浮かべながら大和にすり寄って来た。大和は飯田から目を逸らすと顔を引きつらせた。
「そんな金ねえよ」
大和は再びため息と共に、煙を吐き出した。
「俺は焼き鳥がいいな」
能天気な吉田の爺さんは、いつものように無茶な事を軽々しく言い放った。焼き鳥など、もう一年以上口にしていない。大和の頭に炭で焼かれた焼き鳥の姿が思い浮かんだ。大和は目をつむり頭を振った。
「さあ、やるぞ」
大和はタバコを灰皿に押し付けると立ち上がり、戦場のような騒音をたてる現場へと向かっていった。
大和は、建築現場では『ボード屋』と呼ばれる職人だ。部屋を間仕切るLGSと呼ばれる軽量鉄骨を軽鉄屋が組んだ後、その軽鉄に石膏ボードを張るのが仕事だ。軽量屋とボード屋は、同じ会社に属しており、他にGL屋という、同じ石膏ボードでも施工方法の異なる職人も、これに属する。大和は専属の職人ではなく『外注』と呼ばれる下請けの職人だった。専属のように常に一つの会社に仕事を保障してもらうわけではなく、幾つかの会社と付き合い、自分のキャパに応じて仕事を請け負う。仕事を常に埋めていくのは大変であったが、保障が無い分、専属よりも単価が良かった。石膏ボードという物は一枚が約10㎏ほどの重さがあり、決して軽い物ではない。だが、さほど硬い物ではないので、カッターで切る事ができ、加工はし易い。後を追いかけてくるクロス屋や電気屋などに煽られ、建築現場の中でもかなり過酷な仕事ではあったが、頑張れば頑張っただけ金に繁栄されるので、大和はこの仕事が好きだった。この日も、パテを持ちながら「この部屋は、いつ頃終わりますか?」と、嫌なクロス屋に煽られながらも必死にボードを張っていたが、軽鉄屋が遅れていて追いついてしまった為、明日から何日か現場を空けなければならなかった。
──そう、そしていつもよりも少し残業して、家に帰ったんだよな・・・。
「ただいま」
「おかえり、遅かったんやね」
家に帰ると、陽子はいつものように台所で夕飯の支度をしていた。
「今日のメシ何?」
大和はいつものように、携帯、タバコ、財布の順に、パソコンの置かれた机の上に並べていった。
「今日は、鰹のお刺身と、鰯のハンバーグやで」
「肉は無いの?」
大和の言葉に、陽子は呆れた顔をした。
「そんなん、高くて買えるわけないやろ。牛肉なんて、また値上がりしたんやで。肉食べたいんやったら、しっかり稼がなな」
大和は、腕に着けていたGショックを外しながら肩を落とした。
「何? 嫌なら食べんでええで」
「食べるよ」
「与えられているもんに感謝せな、今有るもんも神さんに取り上げられることになるんやで。有る事が難しいから有難い言うんやで」
「わかってるよ」
大和は、テーブルの上に置かれたリモコンを手に取ると、テレビに向けた。
テレビに映ったアナウンサーは、淡々とした口調で今日のニュースを読み上げていた。高速道路での事故の映像や、くだらない事で学校に抗議するモンスターペアレント、カスハラやパワハラなどのニュースが流れると、今日の重大ニュースが流れ始めた。
「また、こいつら脱獄したんだ。すげえなこいつら。でも、何でいつもすぐに捕まるんだろうな」
「さあ、アホなんちゃう」陽子は、対面式のキッチンの向こうでふふふと笑った。
「何だこのニュース? この、スーパー狂牛病って何?」大和は、テレビの音量を上げた。
「ニュース見てへんの? 新しい狂牛病で、感染力が強い言うとったよ。牛肉も、もうあかん言うとったわ」
陽子は、フライパンを見つめながら、他人事のように言った。
「新型鳥インフルエンザの次が豚ペスト。更にスーパー狂牛病って、肉全滅じゃん」
大和は眉をひそめた。大和はもう一年近く、豚肉と鶏肉を全く口にしていなかった。大好きな焼き鳥や唐揚げも、かつては庶民の味方であった生姜焼きやトンカツも、今では庶民の財布では、なかなか口にできないほど高価な物になっていた。大豆やマグロなどを使った代替品は様々あるし、その中には代替品とは思えないほどクオリティーの高い物もあるのだが、大和にとってそれらは所詮『偽物』でしかなかった。マンガの中の主人公ではないが、肉体労働の大和は、肉というエネルギーを摂らなければ、本来の力を発揮することが出来ない。三ヶ月に一度、陽子と二人で奮発して食べに行く、最後の砦である焼肉だけを心の支えに、何とかこの一年を乗り越えて来たのだが。最後の砦を喪失した大和は、支えを失い、がっくりと肩を落とした。
「ホンマやな。肉好きの大和には辛いねぇ」
大和はリモコンを握ったまま、テレビのCMに見入った。
「最近のゲームって凄ぇな。俺らの頃はまだ二次元の世界だったのに」
「せやなぁ。この値段、ありえへんわ。子供生まれて、こんなん欲しがったら、ローン組まな買えへんで」陽子は、呆れた顔をしてテレビを見つめた。
画面が変わり、最近よく見る太った芸人が画面を支配し始める。初めて見る新しいCMだ。太った芸人は「超肉! マジ肉! ピクニック」と叫びながら、リュックを背負い、よくわからない踊りを必死に踊っている。大和は眉間にしわを寄せ、そのCMに見入った。
「なんだこのCM、なんか、意味がよくわからないな」
「アホなんちゃう」
「この人工食肉って、美味いのかな?」
「そんなん知らへんよ。スーパーにぎょうさん並んどったけど、あんまり売れてへんみたいやったで」
「てことは、不味いのかな?」
「さあ、どうやろな。何か、鶏肉に近い感じやってテレビで言うとったよ。明日、試しに買うて来よか?」
「そうだな」大和はテーブルの上にリモコンを置くと、キッチンにいる陽子のほうを向いた「つーかさ、明日休みになったから、病院に行こうと思うんだけど」
「何で? どっか悪いん?」
陽子は料理する手を止めた。陽子は、普段はあまり見せない表情を浮かべると、大和の顔を見つめた。
「いや、禁煙治療してもらおうかと思って」
「何や。やっとその気になったん? 産まれてくる子供のためにも、早よ止めなあかんもんな」陽子は表情を明るくすると、止めていた手を再び動かし始めた。
「うん・・・」
「最近の禁煙治療って、ずいぶん進化してて、一日で止められるようになるらしいやん」
陽子は、フライパンを持ち上げると、出来上がった料理を皿に移した。見た目は憧れのハンバーグにそっくりだが、鼻に感じる匂いが、それが偽物であるということを大和の脳に認識させる。
「みたいだな。でも、本当に一日で止められるのかな」
「どうやろな。それより大和、あんた最近ネットで何見てるん?」
何の前触れもなく発せられた陽子の言葉に、大和の心臓は止まりそうになった。嫌な汗が額ににじみ、大和は動揺を隠そうと、半ば睨むかのように自分を見つめる陽子から視線を逸らした。
「な、何って、何が?」大和はゆっくりとテレビまで視線を逸らし、平静を装った。
「あんた、最近携帯で、変なサイト見とるやろ。知ってんやで」
「な、何がだよ」大和は目を泳がせた。心臓の鼓動が早まり、かきたくもない汗が額から流れ落ちる。
大和は陽子に背を向けたまま、頭をフル回転させた。しかし、大和が上手い言い訳を思いつく前に、陽子が大和を畳み掛ける。
「あんた、最近流行り出したバーチャル風俗調べとったやろ。そんなんに興味あるん?」
陽子の口調はまだ冷静だったが、大和は振り向く事ができなかった。
「いや、あれは、吉田さんが行ったらしくて、かなりリアルで凄かったっていうから・・・」大和は、人のせいにしようとした「つーか、何で知ってんだよ」
「携帯には、ちゃんと履歴が残るんやで」
「人の携帯勝手に見んなよ」大和は振り向くと少し強い口調になり、逆切れして誤魔化してみようと試みた。
「なんなん? 何か文句あるん?」陽子の声のトーンが変わった。
「いや、だって、自分だって見たら怒るじゃん」誤魔化せない事を悟った大和は、陽子の顔色を伺いながら、遠慮ぎみに言った。
「で、行きたいん?」
「いや、べつに行きたくはないけど。風俗好きじゃないし」
実際、大和は風俗が嫌いだった。というよりも、苦手だと言ったほうが正しいのかもしれない。結婚する以前に、地元の友達や仕事の仲間に誘われ、三回ほど風俗店に半ば無理やり連れて行かれた事はあったのだが、結果はいつも同じだった。薄暗い店に入り、見ず知らずの女性にパンツを脱がされ、いざという時になると、普段は痛いくらいに硬くなる同士は物怖じし、うんでもなければ、すんでもない状況になってしまった。神秘的な装いの、良い香りを放つ魅力的な女性は苦笑いを浮かべながらも、懸命にそんな同士に奉仕してくれるのだが、同士は死んだナマコのようにぐったりとして、全くやる気を見せなかった。仕方なく、大和も苦笑いを浮かべ、役立たずの同士をかばおうと、女性とのトークに挑むのだが、普段から知らない女性と話すことが苦手な大和は、上手く話すことが出来ず「どうしてこんなところで働いてるの?」とか「借金があるの?」とか「ヤーさん絡みなの」などという会話しか出来なかった。それまで愛想のよかった女性は、急に幽霊のような冷たい表情になり、遠くを見つめ、禍々しいオーラを放ち始めた。店を出ると、仲間は艶やかな顔で満足そうな笑みを浮かべているのだが、大和はまるで、お化け屋敷から出てきたかのような表情を浮かべているのだった。三度目の正直が、二度ある事は三度あるに変わってからというもの、大和は風俗というものに興味を示さなくなってしまっていた。
「じゃあ、何でそんなん見るん?」陽子は、もっともな質問をした。
「いや、何でって、妊娠してからしてないし、やっぱ男は溜まるもんだし・・・」右手では満足できず、バーチャルならばいけるかもしれないと考えていた大和は、うつむきながら答えた。
「そんなん行ったら、許さへんで」陽子は、冷たく言い放った。
「ええ、何でよ。だってバーチャルだから本物の女じゃないんだよ」股の間に溜まった毒を早く出したいと願っていた大和は、懇願するかのように陽子の顔を見つめた。
「それでも、あかん」陽子は冷たい表情で、ハリセンで大和の頭を殴りつけるかのように言った。
「そんなのって・・・」理不尽な陽子の言葉に、大和は口を尖らせた。
「したいならしたいって、そう言えばええやん。だいたいそんな金があるんやったら、私に払いいや」
「なんだよそれ」大和は目を丸くした「だって、妊娠してばっかの時にせまったら、あかんって言ったじゃんよ」
「それは、まだ安定期に入ってへんかったからやろ。ほんま、くるくるパーやな」
陽子はいつもの馬鹿にした口調になった。大和は、そんな陽子の口調が満更でもなかった。
「じゃ、いいの?」大和は喜びを悟られないように必死に笑みを堪え、口を尖らせたまま上目づかいで陽子の顔を見た。
「そのかわり、洗物やってや」陽子は、顎を前に出しながら言った。
「ええ、何でだよ。それと、これと、どう関係あるんだよ」
「何なん? 何か、文句あるん?」
──そんなのずりいよ、洗物なんか絶対しねえからな。
男のプライドを捨てるような真似だけは絶対にしないと思った大和は、陽子に対し遺憾の意を表した。
──そして食事した後、洗い物して、久しぶりにしたんだよな・・・。
大和はベッドに座ったまま、自分の着ている服を見た。それは自分のパジャマではなかった。今着ている服は、まるで人間ドックで着る検査着のような服だ。ズボンにはポケットが左右に付いているが、ポケットの中には何も入っていない。
──もしかして、ここは病院なのか?
一瞬大和はそう思ったが、朝、目を覚ました記憶も、病院に向かった記憶もない。それにこの部屋は、どう見ても病院の病室とは思えない。まるで海外ドラマで目にした、刑務所の中の独房だ。ぼうっと考えていた大和は、口淋しくなり、右手の人差し指と中指を立て、自分の唇にそっと当てがった。すると外から、ガラガラと引き戸を開くような音が聞こえてきた。
大和は鉄格子を握り、顔を押し付けると、外の様子をうかがった。音は右の方から聞こえた。大和の位置からは扉は見えない。しかし、建物は見えた。それは、赤いレンガが積まれた古ぼけた建物だった。窓は曇っていていて中の様子は見えない。窓の数から、高さがある割に平屋建てだということはわかった。窓の横に大きな排気ダクトが三つ見える。部屋の正面にも建物が建っているが、こっちはトタンで覆われた。ボロい牛舎のような建物だ。その建物の扉は閉まっていて、南京錠がかけられている。
それまで静かだった正面の建物の中から、うめき声のような声が微かに聞こえ始める。それはひとつではなく、複数の声だった。
右側のほうから、足音が近づいて来る。足音はすぐに止まり、何か硬い物がこすれる音がした。そしてまた足音が聞こえ、硬い物がこすれる。それが何度か繰り返されると、大和の部屋の前に影が見え始めた。
大和は、鉄格子に左の頬をこすり付けた。ステンレス製の箱が見える。その箱が動き出すと、足音が近づいて来た。
──デカい・・・。
それが第一印象だった。大和は無意識に、ゆっくりと鉄格子から身を離した。
おそらく2メーターはあろうかと思える化け物が、ステンレスで出来たワゴンを力強く押している。薄汚れた革製のエプロンをかけ、黒く長いゴム手袋をつけ、黒い長靴を履いている。肌は見えない。「化け物」大和がそれを人ではなく、化け物と認識したのは、その体とはバランスのとれていない異様に大きな頭がその体についていたからだ。顔は分からなかった。なぜならその顔は、エプロンと同じ革で出来ていると思われる大きなマスクで覆われていたからだ。見えているのは目の部分だけで、人のものとは思えない大きな瞳が大和のことを見つめていた。
化け物は、ワゴンの中に手を差し込むと、何かを取出し、床に置いた。それが金属製のプレートの上に置かれた「食事」であるということは容易に理解出来た。化け物は床の隙間からプレートを押しこむと、無言のまま再びワゴンを押し始めた。
「おい」
思わず声を出した大和を化け物は無視した。
大和は、再度化け物を呼び止めようとしたが、化け物の腰にぶら下がっている、血の付いた棒を見て声を出すのを止めた。まるでマンガに出てくる原始人が持つような、太く短いバットのような棒だった。
大和が、床に置かれたプレートに手をかけると、左側から愚痴が聞こえてきた。
「なんだよ、またこんなにビール飲めってのかよ。いくら酒好きでも、三度三度の飯のたんびに、こんな量のビールが飲めるわけねぇだろ」
男の言葉に化け物は答えなかった。足音が遠ざかり始めると、チッ! という舌打ちする音が聞こえた。
大和はベットに腰を下ろし、プレートを膝の上に置いた。カレー皿ほどの大きさの皿に、煮込み料理のような物が盛られている。鼻に上がってくる匂いは、それほど悪く無い。プレートの上には、木製のスプーンと、水の入ったプラスティック製のコップ。それとなぜか、折りたたまれたフェイスタオルと、真新しい歯ブラシが置かれていた。
「なあ、新入りさん。あんたのメシは何だい?」
大和が、スプーンを持つと、右側から男の声が聞こえた。大和は、首をひねった。
「新入りって、俺のこと?」
「そうだよ」
大和はスプーンを置き、顔を鉄格子に近づけた。
「あのさ」ここはいったい。そう続けようとした大和の言葉の間に、男は質問を割り込ませた。
「メシ、何を出された?」
──どうやら、隣の男は俺より前からここにいるらしい。歳は分からないが、一応先輩だ。仕方ない。
そう思った大和は、膝の上にある食事に目をやった。それは、何かの肉と雑穀米のような物とをごった煮にした物だった。見た目からして、味は付いていたとしても、おそらく塩味であろうと大和は予測した。
「なあ、聞いてるのかい?」
隣の男は、モゴモゴとした口調で大和を急かした。
「あ、すんません。多分、何かの肉と雑穀米のごった煮だと思うけど」
「ふーん。美味いのかい?」
大和は、言葉に詰まった。
「いや、あんまり美味そうではないかな」
「ん? 美味そうじゃないって、食べてないの」
「ええ、まあ」
大和はスプーンを使って、器に盛られた食べ物を弄った。肉だと思っていた物をよく見ると、どうも何かの臓物のようだ。臓物以外に肉っぽい物も入ってはいるのだが、あきらかに量は少ない。モツは嫌いではなかったが、このモツは自分の記憶にある物とは重ならなかった。その為、大和はそれを口に運ぶのを躊躇っていた。
「ちゃんと食べねえと、無理やり食わされんぞ」
左の男が、突然話に割りこんで来た。
「兄ちゃん、名前何てんだい?」
「大和、松波大和です」
「ふーん。俺は柳田だ、柳田之治。宜しくな。分かってっとは思うけど、あいつらは人じゃねえ。血も涙もねえバケモンだ。棍棒でぶん殴られねえように気を付けた方がいいぞう」
左の男は酔った口調で言った。そして大きなゲップの音が聞こえた。
「あーあ、ユキジイまた酔っ払っちゃって。大丈夫かユキジイ?」
「おう、ダイジョブだぁ」
それから右の男は、網野リョージと名のった。歳は大和よりも二つ下だった。
それから大和は食事を口に入れた。薄味だが思ったよりも悪くなかった。大和がそのことを伝えると、リョージは羨ましいと言った。リョージは、ここへ来てからずっと、山盛りのコーンばかり食べさせられているのだという。もういい加減うんざりなのだが、残すと化け物に体を押さえつけられ、無理やり口に押しこまれるのだと言った。それならば、トイレに流してしまえばと大和は促したが、リョージは無駄だと答えた。
「そうそう、無駄無駄。俺も飲みきれねえビールを便所に流したけどよう、そのとたんにやつらすっ飛んできやがって、棍棒でボコボコよう。メシの交換も、すぐにバレるしなぁ。たぶんどっかに監視カメラがついてんだべなぁ。でもよう、床にビールをこぼしちまった時は、すぐにすっ飛んではこなかったんだよなぁ」
大和は周りを見回し、カメラを探しながら、リョージにいつからここにいるのかと尋ねた。リョージは、それはわからないと答えた。理由は、ここには夜が無いからだと言った。ここには常に太陽の光が降り注いでいて、今が朝なのか昼なのかもわからないのだという。
大和は食事を口にしながら、更に質問を続けた。
「あの目の前の、ボロい建物は何だ?」
「あれは家畜、いや、人間小屋さ」
「人間小屋?」
大和が眉をひそめると、ワゴンを押す化け物が戻ってきた。化け物は前の建物の前で止まると、エプロンのポケットから鍵を取出し、扉についていた南京錠を外した。ガラガラと大きな引き戸を苦も無く開いていく。三分の一ほど扉を開くと、化け物は薄暗い建物の中へと入って行った。
大和は、スプーンを咥えながら目を凝らした。ネコ(手押しの一輪車)を押す化け物に、無数の白い棒のような物が群がっている。化け物は時折立ち止まると、ネコにスコップを刺し、何かを周りにばらまいた。すると群がっていた白い棒は、ばらまかれた物を追いかけていく。その白い棒が人間の手だとわかったのは、化け物が扉に近づいて来た時だった。
それらに、何故髪が無いのかはわからなかった。剃っているようには思えない。肌艶からして年寄ではない。頭と腕しか見えないため、男なのか女なのかも分からない。気が狂ったかのように、化け物がばらまく「餌」を両手でむさぼっている。それが大和の目に映ったすべてだった。そして大和は、自分に起こっているこの状況は、非常にまずいのではないかと思い始めた。
大和は、急に不安な気持ちになり、リョージに自分が運ばれてきた時の事を尋ねた。リョージは運ばれてきたのは大和一人だったと答えた。続けて、ここには女は運ばれてこないのかと尋ねた。リョージは、女も運ばれてくることもあると答えた。ユキジイの隣は女だが、妊婦ではないし、大和よりもだいぶ前に運ばれてきたという。
それを聞いた大和は、ホッと胸を撫で下ろした。どうやら陽子は無事なようだ。
食事の手を止めていた大和が、正面の建物を見つめていると、建物の向こうから銃声のような音が二回聞こえ、辺りにこだました。
大和は、ぼうっと鉄格子の外を眺めていた。食事が済んでも、まだ木製のスプーンを咥えている。口さみしいとは、まさにこの事なのかと実感していた。
──一服したい。
大和が、そう思っていると、化け物がトレイを回収しに来た。大和はやむなくスプーンをトレイに置いた。
大和は、壁に向かい、拾った小石で壁に線を引いた。壁に書かれた「正」の字は、それが七度目の食事であることを示していた。大和は便器の前に行き、タンクの上に置いてあった歯ブラシを手に取ると、水を流し、タンクの上から出てくる水で歯ブラシを濡らし、コップに水を注いだ。そして歯ブラシを口に入れると歯を磨き始めた。歯磨き粉がないので爽快感はない。大和は歯を磨き終えると、口を濯いだ水を便器に吐き捨て、そのまま便器に座り込んだ。大和は部屋の隅々に目をやった。何かおかしい。それほど新しい建物ではないのに、どこにも蜘蛛の巣が張られていない。この状況ならば、外から入って来た便所虫やらカマドウマやらがいてもおかしくはないのに、アリンコ一匹見かけない。まあ、虫なんていなけばいないほうがいいのだが。
大和は深く考える事を止め、排便に集中した。ずっと酒を飲んでいないせいか、いつもよりも便が硬かった。
水を流し、タンクの上の蛇口から出てくる水で頭を洗う。大和は下を向いたまま手を伸ばし、ベットの上をまさぐった。フェイスタオルを手にした大和は頭を拭き、タオルを絞ると顔を拭いた。上着を脱ぎ、痒みを感じる首輪の内側を拭き始めると、周りが少しざわめき始めた。大和はフェイスタオルを脇に置くと、硬いベットから立ち上がった。
「うーん、やっぱ外はいいなぁ」
リョージの声が聞こえると、大和の部屋に差し込まれていた光を遮るように、化け物が現れ、大きな影を作った。化け物は不器用な手つきで扉の南京錠を外すと、部屋の扉を引き開けた。大和は戸惑った。何故突然こんなことをするのか、その意が全く理解出来なかった。何かの罠かと思うほどだった。
大和がベットの横で立ち尽くしていると、化け物は「早くしろ!」と言わんばかりに手招きをした。大和は化け物を警戒しながら扉へと近づいた。
化け物は、近づいた大和の首に手をかけた。驚いた大和は、怯える子猫のように化け物の手を振り払った。
「ヴオォーン」と低く太いうなり声を出す化け物は、脅しをかけるかのように、腰に着けていた棍棒に手をかけた。
「わかった、言う通りにするから」
大和は両手を広げると、自然と万歳のポーズをとっていた。化け物は大和の首輪をつかむと、付いていた輪っかに不器用な手つきでロープを結びつけた。大和が引きずり出されるように外へと出ると、肉まんに目鼻を付けたような顔をしたロン毛の男が声をかけてきた。
「やっと、顔を見られたね。結構恐い感じすね。もしかして元ヤンとか?」
それがリョージである事はすぐにわかった。大和は微笑を浮かべた。
大和の顔を見つめるリョージは「思ったよりデブだったから?」と笑いながら首を傾げた。リョージには大和が苦笑したように見えたようだ。大和は「そんなんじゃないよ」と優しく答えた。大和が微笑を浮かべたのは、隣人が、まともな人間だとわかった安堵感からだった。
「ユキジイは?」
大和は、左を向いた。そこには黄色い歯をむき出しにして笑う、豆もやしのような老人が立っていた。髪は白髪で短髪だ。前歯は上下合わせて三本しかない。大和はもっとヒゲゴジラのような人物を想像していたのだが、口の中以外は、意外と小奇麗な老人だった。
──そういえば・・・。
大和は自分のあごを触った。ここへ来てから髭を剃った憶えがない。だが、髭は全く伸びていない。
「不思議だよな」
ここへ来てから随分と経つのに、髪も髭も全く伸びないのだとユキジイは言った。よく見ると、ユキジイの左手が無い事に大和は気付いた。しかし、大和は手が無い理由を聞こうとはしなかった。
ユキジイの前に繋がれていたのは女だった。大和がその女に声をかけると、女は背を向けたまま何も答えなかった。大和が首を傾げると、ユキジイは苦笑いを浮かべた。
「ほっときなって、化け物に殴られ過ぎて喋られなくなっちまったんだよ」
「来たばかりの時は、かなりの美人だったんですけどねぇ。今じゃ、見る影もないよね」
「だな、歯なんか殆んどねぇんじゃねえか」
その女は檻に入れられ目を覚ますと、物凄い勢いで化け物に対し罵声を飛ばした為に、化け物にこっぴどく殴られたのだとユキジイは言った。普通の人間ならば、一度痛い目に会えば、大人しくなるものなのだが、その女は、化け物の姿を見る度に罵声を飛ばし続けたので、顔の形が変わってしまうほど殴られてしまったのだという。
女の首輪にロープを結びつけた化け物は、何故か女の先にある二部屋を飛ばし、奥の左角まで行くと、そこで立ち止まった。
皆の首輪に結ばれたロープは、一本の太いロープと繋がっている。前後の間隔は、およそ三メートルほどだった。檻から出された全員が一本のロープに繋がれると、化け物の指示に従い、皆は右回りに歩き始めた。大和の部屋から左の方向へと進んで行く。部屋は左に五つ、右に四つ、大和の部屋を合わせて全部で十部屋ある。開けられなかった部屋の中には顔を腫らした男達が鉄格子をつかみ、恨めしそうにこっちを眺めている。手前の男は痩せ型のイケメンで露出した肌には派手な入れ墨が入っている。奥の男は身長が高く、マッチョでタフそうだ。二人とも頭は五分刈りだ。どこか見覚えのある二人だが、どこで見たのかは思い出せない。その奥の端の部屋は空き部屋のようだ。大和は足元に落ちていた小指ほどの小枝を拾うと、それを服でこすり、口に咥えた。煙の味は堪能することはできないが、口淋しさは、いくらか解消することができた。
左の奥には木造の倉庫のような建物が並び、部屋の正面側には、大きな「人間小屋」と呼ばれる建物が三つ。そして部屋の右側はレンガの建物だ。建物との間に隙間はない。つまり、今いる場所は、建物で囲まれていることになる。
──鉄格子を上れば。
大和は顔を上げた。だが、鉄格子の上の壁は、思ったよりも高さがあった。唯一可能性があるとすれば、一番奥の部屋の鉄格子から、木造の倉庫の屋根に飛び移るという方法なのだが、やつらもそれをわかっているのか、その場所には化け物が立ちはだかっている。
大和はゆっくりと歩きながら、化け物に気付かれないように、その場所の様子を観察し始めた。
「何を考えてる?」
千鳥足で前を歩くユキジイが、大和に尋ねた。
「たぶん、皆と同じ事だよ」
大和が答えると、ユキジイは肩を揺らした。
「無駄ですよ、あそこは。皆同じ事を考えるんだな」
リョージは後から、ささやく様に言った。
「確かに、あそこから外に出たやつは何人かいる。でもよ、そのとたんに、ズドン! だ」
「ズドン! て?」
大和が尋ねると、ユキジイは頭を横に振った。
「外にはハンターがいるのさ。たとえその場で見つからなくても、森をさまよってるうちに見つかって、ズドン! だ。たまに銃声が聞こえる時があるだろ。あれがそうさ」
大和は、言葉を詰まらせた。ユキジイは背を向けたまま続けた。
「それに、ここを抜けだして、あんたどこへ行くつもりだよ?」
大和は歩きながら首をひねると、左右に揺れ動くユキジイの背中を見つめた。
「どこって、そりゃ家族の待つ家でしょ」
再びユキジイの肩が揺れた。
「あんたな、ここがどこだかわかってんのか?」
「どこって、たぶんここは、養鶏場や養豚場のような所なんでしょ。おそらく俺達は食糧にされる為にさらわれて、ここで飼われている。奴らに食われるために。いや、もしかしたらCMで見た人工食肉っていうのは本当は・・・」
大和は、眉をひそめた。
「そんなこっちゃなくてよ、なんつったらいいのかな・・・」
ユキジイは、歯がゆそうに頭を掻いた。
「大和さん、上、上」
リョージは大和の肩に手を置くと、大和の顔の横で空を指差した。
大和は、空を見上げた。
「あれは、そんな・・・」大和は振り向き、後ろの空を見上げると、すぐさま前を向き、また空を見上げた。
「わかったろ? ここは地球じゃないんだよ。たぶんな」
大和は、空を見上げながら肩を落とした。さっきは倉庫の屋根の上に昇る眩しい朝日が見えた。だが、今はレンガの建物の向こうに沈みゆく美しい夕日が見える。夜が来ない理由を理解した大和は、青紫に染まる空を茫然と見つめながら、足を前へと動かしていた。
コメント
3件
コメントありがとうございます。 ご期待に添えるよう、頑張ります。
初コメです! 続きがめちゃくちゃ楽しみです!! ♡しときます!