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及川視点
「今日、誰といたの?」
母さんの声は低くて、静かで、逃げ道を塞ぐような響きだった。
ここで間違った答えを言えばどうなるか、ずっと知ってる。
だから息を飲んだ。
「…別に、誰とも」
「本当かしら?」
爪が頬に食い込む。
その痛みだけで、心がすぐ萎縮する。
ずっと昔からそうだった。
嘘が通じる相手じゃない。
でも本当のことなんて言えない。
だから沈黙した。
その沈黙が、母さんの機嫌を一層悪くさせる。
「徹。嘘をつく子は母さんの子じゃないわ」
「…ごめん」
反射的に口から出た謝罪に、
母さんは冷たく笑った。
「やっぱりね。
部活なんてやめさせるべきだったのよ」
胸が締め付けられた。
その言葉だけは嫌だった。
息が詰まり、喉が痛くなる。
「やめない…」
震えながら告げた。
言った瞬間、自分でも驚くほど声が弱かった。
「徹?」
「やめない。俺、バレーやめたくない」
母さんの瞳が細くなり、手が頬から離れる。
その後に来る「音」を、身体が知っている。
やばい。
でも引けない。
母さんの手首が僅かに動いた――その瞬間。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
音が家の空気を切り裂いて、母さんの動きが止まる。
「…誰?」
「わかんない」
母さんが鋭い目で俺を見てから、玄関へ向かう。
心臓が喉で暴れる。
誰?
こんな時間に?
玄関の向こう、扉が開く。
「…及川、いるか」
その声を聞いた瞬間、呼吸が止まった。
岩ちゃん。
なんで。
どうして来たの。
母さんと顔を合わせたら…危ないのに。
「あら、はじめちゃん、どうしたの?」
母さんの声は、氷みたいに冷たい。
岩ちゃんは、たぶん嘘がつけないタイプだ。
危ない。
やめて。
帰って。
お願いだから――。
「及川に、忘れ物渡しに来たんで」
そう言った岩ちゃんの声は、
いつものぶっきらぼうなのに、妙に落ち着いていた。
嘘をついた。
俺のために。
母さんはじっと岩ちゃんを見つめる。
空気が張り詰めて、肌がピリピリする。
「徹、来なさい」
呼ばれて玄関まで行くと、岩ちゃんが手に持っていたのは、
体育館に置きっぱなしにしたタオルだった。
「これ、忘れてたぞ」
俺を見ずに、ただ前だけ見て言った。
「…ありがとう」
受け取る手が震えていた。
岩ちゃんは一瞬だけ、俺の揺れる指先を見て――
ほんの少しだけ眉を寄せた。
母さんは、岩ちゃんの態度を値踏みするように眺めたあと、
「もう遅いから帰りなさい」
冷たくそう言って扉を閉めた。
バタン。
玄関の静けさが刺さる。
母さんは俺に向き直る。
その顔は、怒りを押し殺した分だけ怖かった。
「徹。あの子とは二度と話さないで」
息が止まった。
「聞こえた?」
「……」
「徹?」
「いやだ」
今度ははっきり言った。
震えながらでも、言葉は消えなかった。
母さんの手が上がる――
けれど、振り下ろされる前に俺は一歩下がった。
「…もう、そういうのやめてよ」
母さんの目が見開かれた。
驚きと怒りと、理解できないという表情。
「徹、あなた――」
「俺、もう耐えてるんだよ」
言葉が勝手に溢れてくる。
止まらない。
止められない。
「バレーも、友達も、普通も、全部必死に守ってんだよ。これ以上奪わないでよ…っ」
初めて母さんの前で涙を見せた。
見せたら終わると思ってた弱さを、
隠さずに出してしまった。
母さんは一瞬だけ固まり――
「徹、どうしたの?おかしいわよ」
その一言で、俺は悟った。
母さんには届かない。
俺の気持ちは届かない。
だから、もう違う方法を選ばなきゃいけない。
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