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栞へ、十二階。
千鶴さんの鉛筆の字は、そこで途切れていた。
十二階と聞いて、帝都の人が思い浮かべるものは一つしかない。浅草の凌雲閣だ。
私は書庫の床に座り込んだまま、『白萩集』の見返しを何度も見直した。
書き込みは薄く、急いで書いたように右へ流れている。日付も、ほかの言葉もない。
見返しの右下に、小さな朱の蔵書印があった。「白河」。
千鶴さんの生家の名だ。
この歌集は、千鶴さんが嫁入りのときに持ってきた本なのだ。それなら、萩の間にあるはずだった。
閉め切られた部屋の本が、どうして侯爵様の書庫の一番下の段に差してあるのだろう。
誰かが運んだのだ。誰が、いつ。
私は歌集を元の場所に、元の向きのまま戻した。一冊抜けていれば、持ち主はきっと気づく。
書き込みは、もう目に焼きついている。
*
茶会から三週間あまりが過ぎて、暦は五月に変わっていた。
屋敷の中の風向きも、少しずつ違ってきている。
女中たちは廊下で私に道を譲るとき、前より深く頭を下げる。お鈴はすっかり元気になって、用もないのに洋館の階段の下をうろうろしている。
大奥様は相変わらず私を「志摩のお嬢さん」と呼ぶ。けれど、目を逸らさなくなった。
変わらないのは、百合絵様だけだった。
「あら、三人目さん。今日も洋館でお兄様のお料理? お安くないこと」
縁側ですれ違うたびに、棘のある声が飛んでくる。
「百合絵様も、いかがですか」
「結構よ。焦げたものなんて」
ぷいと顔を背けて、編み上げブーツの音が遠ざかる。茶会で雑誌を掲げてくれたことなど、なかったことにしたいらしい。
その夜、私は寝つけずに洋館の窓を開けた。
庭の藤棚が、月明かりの中で薄紫に垂れている。嫁いできた日には固い蕾だった房が、いつの間にか満開になっていた。
甘い匂いが二階まで上がってくる。
その下に、人影があった。
海老茶の袴ではなく、寝間着に羽織。百合絵様だった。
藤棚の柱にもたれて、手の中の紙を見下ろしている。
肩が、小刻みに揺れていた。
声を殺して泣いているのだと、少し遅れてわかった。
昼間のあの棘だらけの声と、同じ人だとは思えなかった。
声をかけるべきか迷っているうちに、百合絵様は紙を胸元に押し込み、和館のほうへ駆けていった。
その足元から、何かがひらりと落ちた。
私は羽織を引っかけて、庭へ下りた。
藤棚の下の飛び石に、細長い紙が一枚、裏返しに落ちていた。
拾って月にかざす。活動写真の番組だった。
「浅草六区 金鈴館 五月興行」。演目の一つに、鉛筆で小さな丸がついている。その脇に、百合絵様の字で「十日 四時」。
紙の手触りが、指に引っかかった。
安いざら紙に、活版で刷ってある。押しの強い、少し雑な刷り。下町の小さな印刷屋の仕事だ。
六区。凌雲閣は、六区の目と鼻の先に建っている。
千鶴さんの書き込みと、泣いていた義妹の行き先が、同じ町を指していた。
*
翌朝、厨房で卵焼きを待ちながら、私は切り出した。
「旦那様。今日の午後、本所の父のところへ行ってもよろしいでしょうか」
侯爵様は鍋から目を離さなかった。
「医者の報告では、変わりないそうだが」
「顔を見たいのです。お鈴を連れていきます」
嘘ではない。帰りに本所へ寄れば、嘘にはならない。そう自分に言い聞かせた。
侯爵様は卵焼きを皿に移し、しばらく黙っていた。
それから、竹皮の包みを二つ、台の上に並べた。
「一つは父上の分だ。君は外で何も買って食べるな」
「はい」
「自動車を出させる」
「いえ、市電で参ります。お屋敷の自動車が本所の路地に入ったら、また近所中が覗きに来ますから」
侯爵様は、左の眉を指でなぞった。
それから、チョッキの隠しから小さな蝦蟇口を出して、私の手に載せた。黒い革の、使い込んだものだった。
「電車賃だ」
蝦蟇口を開くと、白銅貨が何枚も入っていた。電車に何十回も乗れる。
「こんなに、要りません」
「余ったら持っていればいい」
侯爵様はもう流しに向かっている。
「暗くなる前に帰れ」
嫁いでから、自分のお金というものを持ったことがなかった。
私は蝦蟇口を帯の間に挟んだ。革が、まだ少し温かかった。
和館の玄関で草履を履いていると、真柴さんが奥から出てきた。
「奥様、お出かけでございますか。ただいま自動車を」
「いえ、市電で本所まで。お鈴に付いてきてもらいます」
「市電で」
真柴さんは眼鏡の奥で、少しだけ目を見開いた。それから、目尻に皺を寄せて笑った。
「千鶴様も、よく市電でお出かけになりました。華族の奥様が吊り革など、と大奥様はお嘆きでしたが。お若い方は、身軽でいらっしゃる」
千鶴さんの名が、こんなに何気なく出てくるとは思わなかった。
「千鶴さんは、どちらへ」
「さあ。浅草のほうが、お好きだったようでございますね。お帰りの際は、どうぞお気をつけて」
真柴さんは深々と頭を下げた。
門を出るとき振り返ると、廊下の暗がりにタキさんが立っていた。何も言わずに、私とお鈴の背中を見ていた。
*
昼過ぎ、お鈴を連れて神田へ出た。
白鷺女学校の門は、二年前と同じ色に塗られていた。
中退してから、一度も来ていない。門の脇の銀杏の陰に立つと、懐かしさより先に、喉の奥が詰まった。
千鶴さんと、この門を何度くぐっただろう。
「奥様、どなたを待ってるんですか」
「百合絵様よ。……内緒にしてね」
お鈴は目を丸くして、それから両手で口を押さえた。
鐘が鳴って、海老茶の袴の群れが門からあふれ出てきた。
大きな臙脂のリボンは、遠くからでもすぐわかる。
百合絵様は友達の誘いを手を振って断り、一人で大通りのほうへ歩いていく。
停留所で止まったのは、浅草行きの市電だった。
チンチン、と鐘が鳴る。
百合絵様が前の乗り口から乗るのを見届けて、私とお鈴は後ろから乗り込んだ。
市電に乗るのは、嫁いでから初めてだった。床が揺れて、吊り革にしがみつく。車掌さんに蝦蟇口から運賃を払うと、お鈴が「奥様、お金持ちだ」と小声で目を輝かせた。
窓の外を、神田の古本屋の軒が流れていく。
百合絵様は前の方の座席で、膝の上の風呂敷をずっと握りしめていた。一度も振り向かなかった。
浅草の停留所で降りて、人波についていく。
仲見世を抜けると、急に音があふれ出した。
呼び込みの声、楽隊の太鼓、どこかで鳴る蓄音機。軒を連ねる活動写真館に、色鮮やかな看板が掲げられている。
六区だ。
お鈴が、人形焼の屋台の前で足を止めかけた。
「お鈴、だめよ。今日は何も買わないの」
「……はい」
しょんぼりした顔に、竹皮の包みを半分あげる約束をした。侯爵様が握った握り飯だ。この町の何よりも、安心して食べられる。
人波の向こうに、赤煉瓦の塔が見えた。
八角形の、空に突き刺さるような高い塔。窓がいくつも並び、てっぺんに小さな屋根が載っている。
凌雲閣。十二階。
千鶴さんは、あの塔に何を残したのだろう。
百合絵様の足が止まった。
金鈴館。番組と同じ名の、派手な看板の館だった。
「涙の浜千鳥」と大書きした絵看板の下で、弁士の名を書いた幟がはためいている。
百合絵様は一度だけ左右を見回し、木戸銭を払って、暗い入口に吸い込まれていった。
私たちも急いで木戸へ向かう。
その時、入口の暗がりから、誰かの手が伸びた。
百合絵様の細い腕を、ぐいと掴む。
派手な縞の背広に、カンカン帽。ポマードで光る髪。
男は、百合絵様の耳元に顔を寄せて、にやりと笑った。
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#謎解き
コメント
1件
うわぁ…百合絵様が藤棚の下で泣いてたの、めちゃくちゃ切なかった😢💔 昼間の棘のある言葉と同一人物とは思えない。しかも浅草・六区、千鶴さんの栞の「十二階」と繋がるのが鳥肌もんだった…!侯爵様がこっそり蝦蟇口を握らせてくれるシーンもじんわりきた…「余ったら持っていればいい」って、不器用な優しさすぎる。最後に百合絵様の腕を掴んだカンカン帽の男…え、誰!? 次が気になりすぎて叫ぶしかない😭🌸