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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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縞の背広の男は、百合絵様の腕を掴んだまま、館の奥へ引いていった。
百合絵様は振りほどこうとしない。引かれるまま、暗がりに消える。
「奥様、あの人……」
「しっ。行くわよ」
私はお鈴の手を引いて、木戸銭を払った。
*
館の中は、むっとするほど暗かった。
正面の白い幕に、浜辺の娘が映っている。音のない絵が揺れるたびに、客席の頭の列がうっすらと浮かんだ。
幕の脇の台に、羽織袴の弁士が立っている。
「ああ、浜千鳥、浜千鳥。千代に八千代に変わらじと、誓いし君は今いずこ」
朗々とした声に合わせて、楽士の三味線とヴァイオリンが、すすり泣くような節を奏でた。
客席のあちこちで、洟をすする音がする。
目が慣れるまで、私は壁際に立っていた。
百合絵様のリボンは、一番後ろの列の端に見えた。
隣に、袴をはいた若い男が座っている。絣の着物に、丸い眼鏡。膝の上で、百合絵様の手を両手で包んでいた。
見覚えがある。屋敷の書生部屋の人だ。朝、本を抱えて門を出ていくのを、洋館の窓から何度か見た。
「篠原さんです。帝大の書生さん」
お鈴が私の耳元で囁いた。それから、あっと口を押さえる。
「……奥様、あたし、何も言ってません」
百合絵様と書生。大奥様が知ったら、どうなるかは考えるまでもない。
篠原さんは、百合絵様の耳に何か囁いていた。
百合絵様が、小さく首を振る。それから、篠原さんの肩に額を寄せた。
昼間、縁側で私に棘を飛ばす人と、同じ横顔ではなかった。年相応の、ただの十七の娘の顔だった。
百合絵様が藤棚の下で泣いていた理由は、この人なのだろうか。
そう思いかけたとき、二人のすぐ前の席で、誰かが振り向いた。
縞の背広の男だった。前の列の背もたれに肘をかけて、二人のほうへ身を乗り出している。
百合絵様を、待っていた篠原さんの隣まで引いていったのは、この男だったのだ。逢い引きの場所も時刻も、初めから知っていたことになる。
私はお鈴と、すぐ後ろの柱の陰に滑り込んだ。
弁士の声の合間に、男の声が切れ切れに聞こえる。
「百合絵ちゃん、そんな怖い顔しないでおくれよ。僕はね、親切で言ってるんだぜ」
軽い、浮ついた声だった。
「誠君の部屋の屑籠にさ、こいつが捨ててあったんだ。危ないじゃないか、こんなもの」
男が、懐から紙の束を出した。
幕の光が、ちょうど明るい場面に変わる。
白い封筒が何通も、紐で括ってある。表書きの字が、ちらりと見えた。「誠様」。
百合絵様が、息を呑む音がした。
「返して」
「返すよ、もちろん。従兄妹同士だもの」
男は束をひらひらと振ってみせた。その右手の薬指で、金の指輪が鈍く光った。印台の平たい面に、何かの紋が彫ってある。
「ただね、僕もちょいと物入りでさ。黙っていてあげるからさ、真珠を貸しておくれよ。伯母上に買ってもらった、あの首飾り。すぐ返すから」
「隆之さん」
篠原さんが、低い声で言った。
「それは、僕の不始末です。百合絵さんは関係ない。話なら僕が」
「書生さんは黙っててくれないかなあ」
隆之、と呼ばれた男は、篠原さんの眼鏡の前で指を鳴らした。
「君が騒げば、困るのは百合絵ちゃんだぜ。久遠寺の娘が、書生と活動小屋で手を握ってた。伯母上が聞いたら、卒倒なさる」
隆之。
将臣叔父様の一人息子の名だと、婚礼の席で耳にした覚えがある。夫の従兄。百合絵様の従兄でもある。
身内が身内を、強請っている。
「考えておいておくれよ。二十日までは待ってあげる」
隆之様は紙の束を懐に戻し、カンカン帽を軽く持ち上げた。
暗がりの通路を、口笛を吹きながら出ていく。
すれ違いざま、柱の陰の私にちらりと目をくれた。私は顔を伏せた。気づかれたかどうか、わからない。
幕の上では、浜辺の娘が波打ち際に崩れ落ちていた。
「ああ、無情。恋の千鳥は、波に呑まれて――」
弁士の声が、ひときわ高くなる。客席がわっと泣いた。
百合絵様だけは泣いていなかった。篠原さんの手から自分の手を引き抜いて、膝の上で白くなるほど握りしめていた。
*
館の外は、まだ明るかった。
百合絵様は篠原さんと別々に出てきた。篠原さんは何度も振り返りながら、六区の人波に消えていく。屋敷へ戻る時刻をずらすのだろう。
一人になった百合絵様の前に、私は立った。
「百合絵様」
大きな目が、私を見て見開かれた。それから、すうっと細くなる。
「……つけてきたの」
「藤棚の下で、これを落とされましたから」
番組の紙を差し出す。百合絵様はそれをひったくって、くしゃりと握りつぶした。
「あの方は、隆之様ですね。将臣叔父様の」
「あなたに関係ないわ」
「真珠を、渡すおつもりですか」
「関係ないって言ってるでしょう!」
甲高い声に、通りすがりの人が振り返った。
百合絵様は唇を噛み、私を睨みつけた。目のふちが赤い。
「三人目さんに、何がわかるのよ。どうせ一年もしないで、いなくなるくせに」
言い捨てて、百合絵様は停留所のほうへ駆けていった。
袴の裾が人波に紛れる。私はお鈴と顔を見合わせた。
帰りに本所へ寄った。
父は寝床から半身を起こして、侯爵様の握り飯をゆっくり一つ食べた。
「塩がきついな」
そう言って、少し笑った。久しぶりに見る笑い顔だった。
「侯爵様が、ご自分で握ってくださったのよ」
「侯爵様が?」
父は手の中の握り飯を、しげしげと眺めた。いびつな三角を、職人が刷り見本を見るような目で。
「……毎週、医者をよこしてくださる。薬も上等のに替わった。おまえは、大事にされているのか」
私は答えに詰まった。帯の間の蝦蟇口に、思わず手をやっていた。
「わからないの。でも、ご飯は毎日作ってくださる」
父は何か言いかけて、咳き込んだ。背中をさすりながら、私は六区のことも、十二階のことも、話さなかった。
借家の窓から、川向こうの空に、赤煉瓦の塔の先がかすかに見えた。
*
屋敷に戻ったのは、日が落ちる少し前だった。
渡り廊下を歩いていると、和館のほうから、障子を叩きつけるように閉める音がした。百合絵様の部屋だ。
私は少し迷ってから、和館へ足を向けた。
障子の前で声をかける。返事はない。
「百合絵様。栞です」
しばらくして、中から震える声がした。
「……入って」
思っていた返事ではなかった。
百合絵様は、文机の前に座り込んでいた。
机の上に、封の切られた洋封筒が一通。午後の便で届いたのを、女中が置いていったのだという。
宛名は「久遠寺百合絵殿」。差出人の名はない。
中から出てきたのは、一枚の用箋と、もう一通の手紙だった。
用箋には、筆の字ではなく、機械で打った文字が並んでいた。
邦文タイプライターの字だ。家令室で、真柴さんが打っていたのと同じ種類の。
「五月二十日マデニ百円。サモナクバ恋文ヲ大奥様ヘ」
百円。女中の月給の、十か月分。
「隆之さんは、真珠を貸せって言ったわ。でも、これは違う。隆之さんじゃない誰かが、ほかにも手紙を持ってるのよ。そうでしょう?」
百合絵様の声が、どんどん早くなる。
「お母様に知れたら、誠さんは追い出されるわ。あたくしは修道院みたいな女学校に入れられて、二度と……」
百合絵様の手が伸びて、私の袖を掴んだ。
初めてのことだった。指が、冷たく震えている。
大きな目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……お義姉さん、どうしたらいいの」
コメント
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いやあ、第12話、ぞくぞくしましたね……。活動写真館の仄暗い空気、弁士の声や三味線、ヴァイオリンが織りなす音景が鮮やかに浮かんで、まるでその場に立っているような臨場感でした。 何より、普段は棘を見せる百合絵様が「お義姉さん」と震える手で栞さんの袖を掴むラスト。あの瞬間、胸が締め付けられました。強請りの手口が隆之様だけじゃなくて、邦文タイプライターの脅迫状が別に来る——複数の圧力が重なる構造の巧みさに、思わず唸りました。真珠の首飾りと、まだ見えぬもう一人の影。次が待ち遠しいです!