今までは意思疎通が取れるのはアベルだけで──やはり言語を話すのは苦手そうだったが──、彼を介すことでアッシュとも関係の構築を図れた。それが今後は必要なくなると言われれば、たしかにメリットではあった。
「だが……。それは本人が望むかどうかだ」
「なら起きてから聞けばよかろう。それまでは儂もおる」
イルネスは自身の魔力を使って、強引に根幹からコボルトとしての性質を変えたことで苦痛を伴わせたのもあって、夜までは目を覚まさないと言った。
「では、そのあいだに君のことを聞こうか」
「良かろう。何から聞きたいんじゃ」
「最初からだ。私たちが君を討ったあと、何があった?」
杖を振るうと、背の高い草が次々と伸びて絡み合い、雨風を凌げそうな小屋のようになる。足元にもしっかりと草が敷き詰められ、ヒルデガルドは腰を下ろす。イルネスもごろんと横になって肘で頭を支え、小さくあくびをした。
「……儂もよう分からん。多分、本当に死んでおったはずじゃが、誰かの声が聞こえたと思ったら目が覚めた。身体はぼろぼろで、魔力もほとんどを失い、自慢だった角はどこかへ引っ込んでしまった。彷徨い歩き、水辺に映った自分を見て、まるであの忌々しい人間のようだとショックを受けたもんじゃ」
傍で眠るアッシュを見つめながら、フッと笑みをこぼす。
「思えば下らぬ誇りであった。魔王などと持て囃され、あらゆる魔物を超越した我が身が、神にでもなったような錯覚を起こしていた。それゆえに弱く、地を這いずるしか出来ぬことに絶望した。儂はもはや存在する価値さえないのではないか、そんなことを考えながら彷徨っていたら、あの村に辿り着いた」
最初、イルネスは村の人間を襲うつもりだった。だが、その余力さえないままに倒れ、気が付けば今住んでいる小屋の中で眠っていた。村の人々が彼女を見つけて運び、傷の手当をして食事を用意し、目を覚ますまで面倒を見てくれたのを知ったとき、なんともいたたまれない気持ちが胸に込みあげた。
それから、彼女は不思議に思うことがいくつもあった。
「儂は人間に施しを受けたことに腹を立てて、彼らに吼えたこともあった。喰ろうてやろうかと生意気にも弱い身体での。……じゃが、村に住む若い娘に頬を引っ叩かれ、怒鳴られた。『お前なんか好きで生かす奴はいない』とな」
どれだけ憎くとも、目の前で弱って倒れているのを平然と見捨てたり、殺そうとしたり、普通の人間にはできないものなのだと言われた。魔物にはない心理。まったく理解の出来なかったイルネスだったが、自身の肉体がほぼ人間と同じだったからなのか、その言葉や雰囲気、彼らの生き方というものに強い興味を示すことになる。
「正直、驚いた。なぜそんなふうに出来るのか、と気になって仕方がなかった。彼らは儂が共に暮らすことを許したのじゃ。どこまでも憎くてたまらぬはずの儂を、村にいても構わぬと。その理由を知るために、あの家で過ごしておったのじゃ」
ごろりと仰向けに寝転がったイルネスに、ヒルデガルドは「理由は分かったのか」と尋ねる。彼女は満足そうに微笑んだ。
「よう分からんかった。じゃが、まあ、人間は好きになった」
「……なら良かった。これからもあの村で生活を?」
うむ、と小さく頷く。
「儂に出来るのは、ただ大人しく過ごして、守れる人間を守ってやるくらいじゃ。奪った命を取り戻すことは、儂にはできぬ。しかし、ただ謝るだけも違う」
横で心配そうにアッシュを見つめるアベルを羨ましそうに眺める。自分にはない、自由な姿。人間と手を取り合って生きる彼らのように、最初から自分もそうであったなら、といまさらに、重ねてきた行いを悔いた。
「不思議な気分じゃ。儂らはデミゴッドに至るとき、抱えた思想を覆すことが出来ぬ。じゃが、弱い肉体を得たことで、儂はその呪縛から解き放たれたのか、今は人類の殲滅など馬鹿げたことだと思うようになった」
「良いことだ。それで、今はどう考えている?」
難しい問いに真剣な眼差しで草の天井を見上げた。
「さあのう。少なくとも、儂は彼らを大切に想うておる」
「ま、君がそう言うだけでも安心できるよ」
日が落ち始め、外の景色の穏やかさを感じながら、ヒルデガルドは胸に抱えていたもうひとつの頼みを口にしてみる。
「クレイ・アルニムが人類の敵にまわった。……もしかしたら、大きな争いに発展するかもしれない。君の力を貸してもらえないか?」
がばっと起きあがったイルネスが目を白黒させる。
「はあっ!? あの小僧が、何があったんじゃ!?」
「さあ。私にはなんとなく理解できん話だが」
どちらにせよ、とヒルデガルドはため息をもらす。
「森に飛空艇が不時着したのは、もう知ってるだろう。奴は君とは違う方法で魔物を操り、襲撃を仕掛けてきた。当人はいなかったが、アバドンというデミゴッドと飛空艇で戦ったあと、森で忠告も受けている」
聞いたイルネスが首を傾げて、眉間にしわを寄せる。
「……アバドン? そんなデミゴッドは聞いたことがないがのう」
「かなり強かったが。君の翡翠の杖を使っても勝てるかどうか」
そう言われて、耳がピクッと動く。
「馬鹿を言うな。なぜ儂が魔王と呼ばれていたと思う? 魔界ならびに人の世において儂の右に出る者はおらんかったからよ。それを儂の杖を使っても勝てるか分からぬ怪物《デミゴッド》がおったとは笑止千万。何者じゃ、そいつは」