魔界にいた頃から、イルネスは最強の名をほしいままにしてきた。ただでさえドラゴンと呼ばれる種の頂点に君臨していた彼女は、デミゴッドへ至るに十分な資質を持ち、圧倒的な力で他のデミゴッドすらねじ伏せる実力もあった。
五年前の戦争で、彼女は数多くの魔物を率いて進軍。結局は誰も屈しこそしなかったが、彼女は知りうる限りのデミゴッドと接触を図り、協力を仰いだこともある。知らぬ者はいないと豪語できるほど魔界には詳しい。
しかし、アバドンの名を聞いたことがなかった。
「……リッチは元々、人間の怨嗟や後悔が死後に邪念となって亡骸を蘇らせた魔物だ。その際にデミゴッドになったのなら、君が知らなくても無理はない」
そう言った途端、イルネスはムッとした顔をする。
「いくら資質があろうとも、神に近い領域に至るには数十年以上を要する。そのアバドンとやらの強さを聞けば、ポッと出の魔物ではあるまい。今ならともかく、全盛期の儂からは、あの白狼のシャロムすら逃れも隠れもできぬのだぞ」
納得がいかずふくれっ面をして、今すぐ会ってみたいと言い出す始末だった。ヒルデガルドは、ますますアバドンという魔物がなんなのか分からなくなった。彼がデミゴッドであることには間違いないはずだが、と頭を抱えたくなる。
「そやつはクレイの味方をしておるのか?」
「今のところは。だが、シャロムは敵にはならないと言った」
「ふうむ。ではシャロムにもう一度確認を取らねばならぬな」
イルネスは彼が過去を視る力を持っているのを知ったうえで、もういちどシャロムに会わねばならないとヒルデガルドに助言した。
「奴は、どうもぬしに隠し事をしておるようじゃの」
「隠し事……あっ、そういうことか!」
魔王にさえ、その存在を知られていないデミゴッド、アバドン。彼についてシャロムの口ぶりは、まさに面識のあるようなものの言い方だった。
「ぬしはいつ、町へ戻るんじゃ。明日か?」
「予定ではそうなっている」
「なら、ぬしらだけでも儂の家に残るがよい」
傍で眠るアッシュの頭を撫でながら言った。
「こやつの経過も見なければならぬし、村の者も、事情を説明すれば理解してくれるじゃろう。それくらい気の良い者たちばかりでのう」
「そうだな。まだアッシュも安心はできないし……」
目が覚めて、もし暴れられでもしたらを考える。ロード級の魔物を止めるのは難しくない。しかし、彼らコボルトが物音ひとつ立てずに移動するのが得意なのを知っているので、眠っている隙にでも抜けだされては大いに困る。見張っていられる人数が多く、村のように家の数が少なく開けた場所なら被害も出さずに済むだろう、と至った。
「では、ここで夜まで過ごすつもりでおったが、村まで運ぼう。このあたりは魔物もおらんゆえ、村にも結界はないし、既にぬしらと長時間一緒におるのなら、そもそも肉体への影響は皆無じゃろう」
「ああ。だが、ずいぶん身体が大きいぞ。家に入るのか?」
どしっと胸を叩いたイルネスは自慢げに答える。
「儂の家の裏に、以前まで使っていた納屋があるんじゃ。先日に改装を終えて、今のぼろ家から近いうちに荷物を運び込む予定だったところでな。せっかくだから、ぬしらを招待して、さっそく自慢させてほしい!」
「……すっかり人間の生活に馴染んでないか?」
見目に魔物としての名残はあるし、できることも当然、昔に比べれば減っているとしても間違いなく魔王としての器があると言える。にも関わらず、今の彼女はどちらかといえば、人間そのものだ。角が生えているだけの。
「もうあれから五年じゃからのう。思えば、馬鹿なことをしていたもんじゃ。こうしてぬしらに人間界の良さを教えてもらったのも事実。毎日食うパンは美味いし、スープも絶品じゃ。着るものだって布一枚で十分と思うておったが、見よ、このシャツを。黒地に金の刺繍で『イルネス・ヴァーミリオン』と小さく名前まで!」
饒舌についていけず、ヒルデガルドはたじろぐ。とはいえ気に入ったのは良いことだし、もう敵ではないのだと分かるのは有り難かった。
「ただ、ひとつ残念なことはあるんじゃ」
「そんなに早口で喋るくらいなのに?」
「失礼な。……まあよい、儂も寛大だからのう」
こほん、と咳払いをして、彼女は少し悲しそうに言った。
「ミモネという同居人の若い娘がおるんじゃが、儂が村に居ついてからは、一度も村から出ようとせんらしい。昔は首都へ旅行もしていたそうなんじゃ。多分、儂が危険なことをしようとするまいか心配なんではないかと思うてな」
人の姿に近いとはいえ、所詮は魔物。出会い頭に喰ってやると脅しもしたのを、未だに後悔している。おそらくはそのせいで、五年間、一度たりとも気の休まる日などなかったはずだ、と。そんな彼女に、少しでも恩返しがしたい。そんなイルネスの想いに、ヒルデガルドは「それなら」と自身の紅い髪を元の灰青に戻す。
「アッシュのこともある、まだ世話にもなるだろう。だから礼をさせてほしい。そのミモネという娘のために、一度くらいは大賢者として君の助けにならせてもらえないか」
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