テラーノベル
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朝の教室は、いつもより少し騒がしかった。
窓の外から聞こえる運動部の声。
廊下を走る足音。
誰かの笑い声。
いつもと変わらない、学校の朝。
私は自分の席に座り、頬杖をついて窓の外を見ていた。
海は見えない。
校舎と住宅の向こうに隠れている。
それでも、風が吹くと、ほんの少しだけ潮の匂いがする気がした。
「……由良。」
隣の席の友達が、私の机を軽く叩いた。
「なに?」
「昨日、また海行ったでしょ。」
「うん。」
「本当に好きだね、海。」
「……好き、なのかな。」
そう答えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「好きだから行くんじゃないの?」
私は少しだけ考える。
好きだから。
そうなのかもしれない。
でも、私の場合は少し違う気がする。
海に行きたいと思う前に、いつの間にか足が海へ向かっている。
まるで、自分で行っているのではなくて。
――呼ばれているみたいに。
「海瀬。」
突然、後ろから声をかけられた。
私は振り返る。
そこに立っていたのは、雲川空雅だった。
昨日、海で会った男の子。
「……空雅くん。」
名前を呼ぶと、彼はほんの少しだけ目を見開いた。
「覚えてた。」
「昨日会ったばかりだから。」
「そっか。」
空雅はそれだけ言って、私の机の横を通り過ぎようとした。
けれど、ふと足を止める。
「今日も、行く?」
声は小さかった。
周りの人には聞こえないくらい。
私は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「たぶん。」
「そっか。」
昨日と同じ返事。
なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
空雅が自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、私はふと気づいた。
昨日まで、教室の中にこんな人がいたことを知らなかった。
同じクラスだったのに。
毎日、同じ場所で過ごしていたのに。
知らない人だった。
それなのに、昨日一度海で話しただけで、今はもう、教室の中で彼の姿を探してしまう。
そんな自分に気づいて、私は少しだけ視線を逸らした。
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放課後。
教室の窓から差し込む光が、机の上に長い影を作っていた。
私は鞄を持って立ち上がる。
いつものように、海へ向かう。
校門を出て、坂道を下る。
潮の匂いが近づく。
波の音が聞こえる。
今日も海は、そこにあった。
防波堤の先に、誰かが座っている。
黒い髪が風に揺れていた。
「……早いね。」
声をかけると、空雅は振り返った。
「由良が遅い。」
「私、いつもこの時間だけど。」
「じゃあ、俺が早い。」
そう言って、空雅は少しだけ笑った。
私は彼の隣に座る。
夕方の海は、昨日よりも穏やかだった。
「空雅くん。」
「ん?」
「昨日のこと、誰かに話した?」
「何を?」
「鯨の唄が聞こえるってこと。」
空雅はしばらく黙った。
波が寄せて、返っていく。
「……話したことはある。」
「あるんだ。」
「信じてもらえなかったけど。」
私は何も言えなかった。
きっと、私も同じだった。
小さい頃、海から聞こえる音のことを話した。
母は笑った。
友達は気のせいだと言った。
だから、いつの間にか話さなくなった。
「由良は?」
「私も……信じてもらえなかった。」
「そっか。」
空雅は、それ以上聞かなかった。
どうして聞こえるのか。
いつから聞こえるのか。
何が聞こえるのか。
何も聞かなかった。
ただ、隣にいた。
それが、少しだけ嬉しかった。
夕日が海に溶けていく。
空の色が、少しずつ変わっていく。
その時。
また、聞こえた。
低く、遠い音。
波の音の奥にある、どこか懐かしい唄。
私は息を止めた。
隣を見る。
空雅も、同じように海を見つめていた。
「……聞こえる?」
尋ねると、空雅は頷く。
「うん。」
その声は、いつもより少し低かった。
私は海を見る。
何もいない。
水平線の向こうにも。
波間にも。
それでも、唄は聞こえる。
遠くから。
ずっと遠くから。
誰かが、誰かを呼ぶように。
「ねえ、空雅くん。」
「ん?」
「鯨って……誰かを呼ぶのかな。」
空雅は、少しだけ考えた。
それから、海を見たまま答える。
「……どうだろう。」
風が吹く。
唄が、少し遠ざかる。
「でも、もし呼んでるなら。」
空雅は静かに続けた。
「きっと、誰かに聞いてほしいんじゃないかな。」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
理由は分からない。
ただ、遠い昔から知っている誰かに、
「やっと見つけた」
と言われたような気がした。
私は海を見つめる。
夕暮れの海は、何も答えない。
ただ、静かに波を寄せては返していた。
その日から。
私たちは、放課後に海で会うようになった。
約束はしなかった。
待ち合わせもしなかった。
それでも、どちらかが先に海へ来ていて。
もう一人が、あとからやって来る。
まるで。
海が、私たちを呼んでいるみたいに。
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コメント
1件
「第三話、読み終えたよ……。空雅くん、ちゃんと覚えてたんだね。同じクラスなのに、昨日まで知らなかった存在が、今は教室でつい探してしまうって感覚、すごくわかる気がする。毎日変わらない場所に、ふとしたきっかけで新しい色がつく瞬間って、ちょっと切なくて、でも胸がぎゅっとなるよね。海が呼んでるみたいに、ふたりが自然と集まる感じも、すごく好き……」 (200字)
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M.S
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