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かきまぜたまご
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通りのざわめきが背中に押しやられていくにつれて、音の輪郭がほどけていく。歩いている距離はたいしたことないのに、境目をまたいだような感覚がある。さっきまでの町と、いま足を踏み入れている場所とが、きれいにつながっていない。
朝倉恒一は、つい足をゆるめそうになるのをこらえた。前を行くソウタの背中には迷いがない。ミヤも同じ方向だけを見ている。その二人の歩き方に引っ張られるように、恒一の足も前へ出る。
ここで合ってるのか、と心の中でつぶやく。声にしなくても、同じ疑問は隣に伝わっている気がした。
「たぶん合ってるよ」
軽い返事が返ってくる。
「”たぶん”で来るのかよ」
「たぶんでも来るしかないでしょ」
言い返そうとして、やめる。言葉よりも先に、ポケットの中のスマホの存在が気になる。画面を見なくても分かる。さっき見た空白は、まだ消えていない。
角を一つ曲がったところで、空気がはっきりと変わる。音が落ちる。匂いも変わる。言葉にしにくいが、別の場所に入ったと体が判断する。
ソウタが足を止めた。
「ここだ」
恒一は前に出て、目の前の建物を見上げた。店のようにも見えるが、看板は出ていない。ガラス越しに中をのぞこうとしても、曇りが強くて奥が見えない。
「ここが”残す場所”か」
口に出したとき、言葉の軽さと内容の重さが合っていないことに気づく。
「見た目は関係ないよ」
ミヤの口調はいつも通りだ。
ソウタがノブに手をかけた。そしてそのまま、ためらいもなく扉を開いた。
中に入った瞬間、温度がわずかに変わる。外と切り離された空気。音も和らぐ。さっきまでまとわりついていた違和感が、別の形に変わる。
恒一は一歩踏み込み、視界の奥で足が止まった。
壁一面の棚。そこに、無数の札が並んでいる。
最初は意味が分からない。ただ”多い”としか思えない。だが目が慣れるにつれて、一枚一枚に書かれているものが見えてくる。
名前だ。
木の札にも、紙の札にも、すべてに名前が書かれている。
「……全部、人の名前か」
自分の声がやけに静かに響く。
「そう」
ミヤも静かに口を開いた。
「ここにある限り、消えない」
その言い方が、やけに現実味を持っていた。
恒一はゆっくり棚に近づき、一枚の札に目を落とした。知らない名前。なのに、その文字を見ていると、”そこにいた誰か”の気配だけが伝わってくる。
ここは名前を”置く”場所なのか、と考える。記録でも記憶でもなく、ただ名前だけを残す場所。
「仕組みとか、あるのか」
「知らない」
ミヤはあっさり答えた。
「でも効くよ。だから残ってる」
理屈より先に、結果がそこにあるという言い方だった。
横でソウタが動く。棚の前に立ち、こちらを見る。
「書け」
視線が恒一に向く。
「自分の名前を」
当然のように言われる。
恒一は一瞬、言葉を失った。自分の名前を書く。それだけで何かが守られる。そう言われている。
信じるかどうかではなく、もう選択の問題になっているとわかる。
ポケットからスマホを取り出す。履歴の画面。そこにあるはずの名前が、いまも空白のまま残っている。
あのとき思い出せなかった相手のことを考える。知っているはずなのに、届かなかった名前。あの感覚を、もう一度味わうことはできない。
「……わかった」
恒一は大きく息を吐いた。
「やるよ」
近くに置かれていた札を一枚取る。白い面が、何も書かれていないぶんだけ重く見える。ペンを持つ手に力が入る。
朝倉恒一。
一文字ずつ、確かめるように書く。自分の名前をなぞるという行為が、こんなに慎重になるとは思わなかった。
書き終えた瞬間、指先に触れていた感覚が、ふっと整う。
「……今の」
言いかけたところで、言葉が自然とほどける。
「つながった感じ、した?」
ミヤの声が入る。
「ああ……。さっきまであったイヤな感覚が消えた」
自分の名前を思い浮かべる。
朝倉恒一。
その音と意味と、自分という存在が、まっすぐにつながる。
「それでいい」
ソウタが頷く。
恒一は札を棚に戻した。自分の名前が並びの中に収まるのを見て、ようやく呼吸が落ち着いた。
そのとき、視界の隅で何かが引っかかった。
別の列。名前がびっしり並んでいる中に、一枚だけ違うものがある。
真っ白な札。
何も書かれていない。
「あれ……」
思わず目で追う。
「なんで、あれだけ空なんだ」
問いかけると、ミヤが少しだけ間を置いた。
「まだ決まってないんだよ」
「何が」
「誰の名前か」
その答えが、胸の奥に落ちる。
空白は、ただの空白じゃない。これから埋まる余地として存在している。
さっきの看板の空白と、同じ種類のものだと直感する。
「……やめろよ」
口から出る。
何に対してかは分からない。ただ、その場所に近づいてはいけないという感覚だけがある。
ソウタが視線を外さずに言う。
「長くいるな」
その一言で空気が戻る。
恒一は自分の札をもう一度見た。名前はそこにある。消えていない。
それだけで、わずかに安心する。
だが、同時に分かる。この場所を出れば、また同じ状況に戻る。
守られているのは、ここに置いてある間だけだ。
扉へ向かいながら、恒一は小さく息を吐いた。
「……ほんと、めちゃくちゃだな」
その感想に、誰も反応しない。
外の空気に触れた瞬間、さっきまでの静けさがほどけた。音が戻り、人の気配が戻る。
それでも、もう同じ場所には見えなかった。
自分の名前を、もう一度頭の中でなぞる。
朝倉恒一。
今はまだ、はっきりしている。
その確かさを踏みしめるように、足を踏み出した。