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第166話 父
【異世界・転移した学園/校舎二階・明け方前】
校舎の中は、静かだった。
静かだが、安心できる静けさではない。
体育館に集められた生徒たちの気配。
どこかで軋む窓。
遠くで誰かが咳をする音。
その全部が、まだこの学園が“避難所であり戦場でもある”ことを思い出させる。
ハレル、サキ、リオは、使われなくなった情報処理室の前に立っていた。
ドアの下の隙間から、白い光が細く漏れている。
蛍光灯の光ではない。
もっと細く、もっと冷たい、プログラム層の線に似た光だ。
サキがイヤーカフへ触れる。
『ノノ、ここ』
『うん、見えてる』
ノノの声が返る。
『その部屋だけ、補助層の反応が濃い』
『さっきまでなかった線が、今だけ三重になってる』
セラの声も続いた。
『たぶん、匠さんです』
『でも長くは持ちません』
ハレルの喉が、わずかに強張る。
分かっていた。
ここまで匠が補助層へ手を入れているなら、
どこかで接触があるかもしれない。
そう頭では理解していた。
でも、実際に“父がいるかもしれない部屋”の前に立つと、
準備していた言葉は何一つ形にならなかった。
リオが横目でハレルを見る。
何も言わない。
ただ、先に行くなら行け、というように半歩だけ位置をずらした。
ハレルは小さく息を吸い、ドアへ手をかけた。
【異世界・転移した学園/情報処理室・明け方前】
部屋の中は、白い線で満ちていた。
床。
壁。
机の縁。
古いモニターの枠。
その全部の上に、細い数列と光の線が幾重にも走っている。
学園の古い情報処理室の形を借りて、
そこへ補助層が半ば食い込んでいるような光景だった。
部屋の中央。
机と机の間にできた白い層の裂け目の前に、男が立っていた。
匠だった。
以前の記憶のままではない。
頬は少しこけ、目の下には濃い疲れがある。
服も汚れている。
髪も整っていない。
だが、それでも間違えようがない。
サキが、最初に息を呑んだ。
「……お父さん」
その一言で、部屋の空気が変わる。
匠も、すぐには何も言わなかった。
ただハレルとサキを見た。
本当なら今すぐ駆け寄って抱きしめたいのに、
それを止めているような、苦しい静けさがそこにあった。
「来たか」
匠がようやく言った。
短い声だった。
感情を抑えているのが分かる。
ハレルは、返事をしようとして言葉が出なかった。
聞きたいことは山ほどある。
どうして今まで一人で動いていたのか。
なぜ何も言わなかったのか。
どうして自分たちを置いていったように見えたのか。
今どこまで知っているのか。
戻れるのか。
戻れないのか。
全部あるのに、喉のところで詰まる。
やっと出た言葉は、思っていたよりずっと短かった。
「……生きてたんだな」
匠の表情が、ほんのわずかだけ揺れた。
「ああ」
それだけだった。
それだけなのに、サキの目から涙が落ちた。
「お父さん……」
サキはもう耐えられなかった。
「いつ戻るの」
「一緒に帰れるの」
「ずっと、ずっと探してたんだよ」
声が震える。
途中から、うまく言葉になっていない。
匠は一歩だけ前へ出た。
だが、その足は途中で止まる。
白い線が足元で脈を打ち、補助層の裂け目が不安定に揺れたからだ。
「サキ」
匠の声は低かった。
「……帰る」
「帰らせる」
「そのために今は、まだここを離れられない」
サキは涙を拭うこともできずに首を振る。
納得したわけじゃない。
でも、それが今すぐ“戻れない”という意味だとは分かってしまう。
リオが、そこでようやく口を開いた。
「時間がないのは分かる」
「だったら必要なことを教えてくれ」
「中枢ログは取った。
でもまだ足りない」
匠の視線がリオへ向く。
短く頷いた。
「正しい」
「中枢ログだけでは戻せない」
「今の段階で一番危ないのは、本線を急いで太くしようとすることだ」
ハレルが、そこでやっと次の言葉を出した。
「補助層か」
「そうだ」
匠は答えた。
「補助層は裏道じゃない。
最後の反転で揺れを逃がす支えだ」
「本線を先に広げると、揺れが逃げずに出口側が死ぬ」
サキが涙声のまま言う。
「レアが言ってたことと同じ……」
匠はそれに反応した。
「レアに聞いたのか」
「聞いた」
リオが答える。
「全部じゃないけど、断片は出た。
急いで出口を作るな、先に広げるな、静かな層を選ぶなって」
匠は少しだけ目を閉じた。
その反応は、驚きより確認に近かった。
「……そこまで出たなら早い」
「なら次は、残支点の位置を絞ることと、補助層を三層まで安定させることだ」
ノノの声がイヤーカフ越しに跳ねる。
『今の拾った!』
『残支点を絞る、補助層を三層、ね!』
匠は部屋の隅へ走る白い線を見た。
まるでノノたちの方も、その向こうに見えているみたいだった。
「ノノ、聞いているな」
『聞いてる』
「今の補助層は細い」
「通すだけなら可能でも、戻し切る時の荷重に耐えない」
「だから三層だ。
一本目で道を作る。
二本目で揺れを逃がす。
三本目で出口側の形を保つ」
日下部が現実側で聞いていれば、そのまま図に起こしただろう。
ノノももう半分そういう頭になっている。
『了解。記録してる』
ノノが言った。
ハレルは匠を見たまま聞く。
「固定点は」
匠は、そこで少しだけ黙った。
「まだ全部は言えない」
「位置を先に固定すると、逆に向こうへ読まれる」
「だが条件はある。
“始まりに近い場所”だ」
「始まり……」
ハレルが繰り返す。
「お前たちが最初に巻き込まれた中心」
匠が言う。
「完全に同じ点ではない。
だが、そこに近い重なりでないと持たない」
学園。
あるいは、その現実側の対応点。
ハレルの頭の中で、いくつもの場所が浮かび、まだ絞り切れずに消える。
リオが次の問いを選ぶ。
「現実側」
「警官に紛れてる敵がいる。
金属が錆びるみたいに崩れてる」
匠の目が変わる。
そこだけ反応が早かった。
「……ラストか」
部屋の空気がまた少し冷たくなる。
サキがすぐに顔を上げた。
「知ってるの」
「存在は」
匠が答える。
「黒い影の進化体の一つだ」
「錆そのものを起こしているんじゃない。
“止まった導線”と“閉じた金属”へ劣化を流し込んでいる」
リオが眉をひそめる。
「じゃあ弱点は」
匠は短く言った。
「止めるな」
「流しているものを、止めた瞬間に食う」
「逆に、循環している線、光が通っている結界、
仮でも回っている導線には乗り切れない」
ノノの息を呑む音が、イヤーカフ越しに聞こえた。
『……だから木崎さんたち、止まらずに動いてるのか』
「そうだ」
匠が答える。
「無意識でも正しい」
「あとで日下部に伝えろ。
金属を完全に捨てる必要はない。
“止まったままにしない”ことだ」
ハレルはその言葉を頭へ刻み込んだ。
これは後で要る。
必ず要る。
だが、それ以上に今は、目の前の父を見てしまう。
ようやく会えた。
なのに会話は、ほとんど全部が作戦の話だ。
それが正しいと分かっているから、余計につらい。
「……何で」
ハレルはそこで、やっと別の言葉を出した。
「何で今まで、直接来なかった」
匠はすぐには答えない。
白い補助線が、彼の足元で少し揺れる。
時間がない。
それでも、ここを誤魔化すわけにはいかないという顔だった。
「来たかった」
匠が言う。
「ずっと来たかった」
「でも、私が表へ長く出ると補助層の位置が読まれる」
「お前たちのそばにいることより、道を残す方を優先した」
サキが泣いたまま言う。
「それでも……」
「それでも来てほしかった」
匠の目が、そこで初めてはっきり痛んだ。
「分かってる」
「……分かってる」
ハレルは、拳を握った。
怒りたい。
責めたい。
でも今それを全部ぶつけたら、せっかく繋がったこの時間が壊れる。
だから、抑えるしかない。
抑えたまま、やっと言う。
「じゃあ、次は逃げるな」
匠は少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「ああ」
「次は、もっと話す」
その言葉が本当に守られるかは、まだ分からない。
でも今は、それで足りるしかなかった。
【異世界・転移した学園/情報処理室・直後】
白い補助線が、急に明滅を始めた。
ノノがすぐに言う。
『持たない、時間切れ!』
セラも続ける。
『匠さん、切れます!』
匠はすぐにハレルたちを見た。
「残支点を急ぐな」
「補助層を先に三層」
「固定点は“始まりに近い重なり”」
「それと――」
言いかけて、白い線が大きく揺れる。
サキが反射で一歩前へ出た。
「お父さん!」
匠はそこで、ほんの一瞬だけ笑った。
疲れていて、痛みもあって、それでも父親の顔をした笑みだった。
「帰るぞ」
「全員で」
次の瞬間、白い補助線が細く折りたたまれるように縮み、
匠の姿はその奥へ沈んだ。
部屋に残ったのは、古い情報処理室の静けさと、
机の縁を走るわずかな白い残光だけだった。
サキはその場で泣いた。
声を殺そうとして、でも殺し切れない涙だった。
ハレルはしばらく動かなかった。
動けなかった。
でも、崩れもしなかった。
リオが静かに言う。
「……必要なことは聞けた」
その言葉は冷たくない。
むしろ、二人を立たせるための言葉だった。
ハレルはゆっくり息を吸った。
まだ胸の中はぐちゃぐちゃだ。
怒りもある。
安心もある。
聞き足りなさもある。
でも、今は一つだけ確かだ。
父は生きていた。
そして、自分たちを帰すつもりで本当に動いている。
「……整理しよう」
ハレルがようやく言った。
「今の話、全部」
サキが涙を拭きながら頷く。
「うん……」
イヤーカフの向こうで、ノノも静かに息を吐いていた。
『拾えてる。
全部、拾えてる』
『これで次に進める』
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・明け方】
ノノの端末には、新しく補助線のメモが増えていた。
* 補助層は三層
* 一本目で道
* 二本目で揺れ逃がし
* 三本目で出口保持
* 固定点は“始まりに近い重なり”
* ラストは止まった導線と閉じた金属を食う
* 循環する光・結界・導線には乗り切れない
セラがその内容を見て、静かに言った。
「大きいです」
「うん」
ノノが答える。
「かなり大きい」
王都の北西では、まだ戦いが続いている。
現実側では、見えない錆が導線を削っている。
でも今、両側を繋ぐための言葉が一気に増えた。
帰還の光路は、まだ細い。
だが、その細い道をどう支えるかが、ようやく形になり始めていた。
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