しかしながら今の現状は、自分よりも頭の切れる牧野に弱みを握られ、じわじわと押されている状態。これを打破するには、それに匹敵するような何かを、高橋自身が所持していないと勝算はなかった。
「今の高橋くんは、まるで亀みたいだね。僕に対して、手も足も出ないだろ」
「亀なんていう動物に例えられるとは、思いもしませんでした。言うなれば蛇に睨まれた蛙のほうが、俺には似合いじゃないですか」
この場の雰囲気を上手く表現できたことに、高橋は笑ってみせた。作り笑いのせいか、引きつった笑みになったのを、頬の緊張具合で悟ってしまう。
いつもは追い込む側にいたせいで、自分の心情を隠せないことに焦りを覚えた。
「蛙は、そんな怖い顔をしないだろ。だったらそうだな、噛みついたら離れないスッポンなんてどうだろう? 性行為を強要している若い男に、そのしつこさをぶつけているみたいだし」
「……部下の弱みを握った今のご気分は、さぞかしいいものなんでしょうね」
変な切り返しをしてくる牧野に辟易して、本音がするりと口から飛び出た。
「逆の立場に立ってはじめて、自分の弱さを知るものさ。ネットでは狡猾だった高橋くんは、リアルでは残念なくらいに抜けていただけだろ?」
「そんなつもりは、まったくありませんでした」
住んでいる場所を知られないように、違うところで相手と逢っていただけじゃなく、偽名を使用した。プライベートを明かさないように慎重に話を進めながら、向こうのプライベートを上手く聞き出していた。
慎重に慎重を重ねていたというのに、牧野にこうして脅されているなんて、思いもしなかった。足元をすくわれた気分に陥った感じと、表現すべきだろうか――。
「君、怒っているとは違う、泣き出しそうな感じとも違うな。今まで自分のやってきたことを振り返って、後悔しているところだったりするのか?」
告げられた牧野からのセリフで、高橋の頭の中に青年の顔が浮かんできた。
無理やり行為に及んだあとに、写真を撮って脅したとき、青年の表情から絶望を見た気がした。怒りや悲しみを瞳に湛えながら見つめられただけで、高橋の支配欲が激しく疼いた。
青年が嫌がっているのを承知で辱めつつ、ひどく貶めるたびに、諦めに似た面持ちになっていくのを眺めるだけでも、悦びにつながっていった。
今はその立場に、自分がなっている。しかも情けないくらいに、徹底的に打ちのめされた状態で――。
『これは夢だと思えばいい』
この間、青年に向かって告げたセリフが、なぜだか流れた。
(あのときも今も、そんなことは無理だというのにな……)
「牧野さん、俺に決定的な証拠を突きつけて、何が望みなんですか?」
「うん? 最初に言っただろ。高橋くんには本社に来てほしいって」
「それだけのためにプロを雇って、こんなことをしたというのでしょうか?」
「そうだよ。僕の右腕になって、これから頑張ってほしいから」
牧野の右腕になる――つまり自分の手を汚さずに、部下に汚れ仕事をさせる気なのか……。
「安心してくれ、君のような趣味はない。男に無理やり縛られたり抱かれるのも絶対に嫌だし、間違ってそういうことになってしまったら、今度は僕が脅されてしまうのが目に見えるしね」
「襲う対象になりませんよ。末恐ろしい……」
顔を明後日に背けて、両手を握り締めながら吐き捨てるように告げた高橋の肩を、大きな手が触れた。
「物分かりのいい君が、傍にいてくれることを考えると、本社で随分と仕事がしやすくなるだろう。期待しているよ」
牧野に置かれた手の重さを、ずしりと感じた。それはまるで、足枷のようだと思わずにはいられない。
あしらうことはおろか、振り解く気力すら奪われた高橋の心は、違うことを考えていた。
自分に向かって柔らかく微笑む、はじめて青年に逢ったときの笑顔が、脳裏から離れなかった。この瞬間、彼との別れを強く思い知ったのだった。