テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第10話「かたつむりレース」
「おまたせ。今日のイベントは、これだよ」
ユキコが両手で大切そうに抱えていたのは──かたつむりの入った小さな透明ケース。
中には色とりどりの巻き貝がゆっくり動いていた。
灰色、飴色、淡いピンク、そして不自然な金属光沢をしたものもいた。
「この子たち、レースするの。ナギちゃんの、選んで?」
ナギはしゃがみこんだ。
今日のナギは、いつもより短い黒髪が汗で頬にはりつき、
ゆるいミントグリーンのシャツの襟元が少し広がっている。
虫刺されで膝を掻いたあとが、かすかに赤く残っていた。
ケースの中のかたつむりは、どれも静かで、
それでいて、ひっそりと誰かを待っているように見えた。
「……じゃあ、この子」
ナギが選んだのは、殻に小さな葉っぱの模様が浮いている、まるいかたつむりだった。
「うん、似合うね。名前は?」
「……ナ、ナミ」
ユキコはうれしそうに笑った。
でもその笑みは、ガラスにうつった光みたいに薄く、
ほんの少しだけ──さびしく見えた。
レースは、神社の石段で行われた。
古びた苔むした階段に、小さな「スタート」の札が刺してある。
「ここから、一番上まで。先についたら、勝ちだよ」
ユキコはそう言った。
でもナギには、その“勝ち”がなにを意味するのかわからなかった。
ユキコのかたつむりは、名を「セキ」と言った。
赤い殻を持ち、動きはとてもゆっくりだった。
それなのに、なぜか、始まってすぐ──ナミを追い越した。
「……あれ?」
ナギのナミは、まったく動かない。
それどころか、ほんの少し後ろへずっている気がした。
ナギは目をこらした。
ナミのまわりだけ、時間が止まったような感覚があった。
セミの鳴き声が、まるで遠くの鐘の音みたいに、ゆっくり遠ざかっていく。
「がんばれ、ナミ……」
ナギが小さくつぶやいた瞬間、
ユキコのセキがふっと殻をしめて動かなくなった。
「……あれ、負けちゃった」
ユキコはさらりと笑った。
「でも、勝ったらね、この子は“遠くへ行っちゃう”んだって」
「遠く……?」
「うん。この町じゃない、もっと時間が進むところ」
ナギは階段の上を見上げた。
その先には、また鳥居があった。でもさっきまでなかったはずだ。
「ナギちゃんは、ナミといたい?」
「……いたい」
「そっか。じゃあ、このままここにいようか。次のイベントまで」
ナギはナミの入ったケースを両手で包んだ。
その殻の中に、かすかにあたたかいものを感じた。
ほんとうにいたのか、もういないのか──
それでも、いまは確かに、ここに“いる”と感じた。
ナギは下を向いたまま、石段のすみで静かに息を吐いた。
ユキコの姿は、ふと見ると、すこしだけにじんでいた。
まるで、雨が降る前の空のように。
次は第11話「釣りっ子の川べり」。
水面に映るものと映らないもの、ナギの輪郭と記憶が揺れます。
続けてよければすぐ書きます!
「おまたせ。今日のイベントは、これだよ」
ユキコが両手で大切そうに抱えていたのは──かたつむりの入った小さな透明ケース。
中には色とりどりの巻き貝がゆっくり動いていた。
灰色、飴色、淡いピンク、そして不自然な金属光沢をしたものもいた。
「この子たち、レースするの。ナギちゃんの、選んで?」
ナギはしゃがみこんだ。
今日のナギは、いつもより短い黒髪が汗で頬にはりつき、
ゆるいミントグリーンのシャツの襟元が少し広がっている。
虫刺されで膝を掻いたあとが、かすかに赤く残っていた。
ケースの中のかたつむりは、どれも静かで、
それでいて、ひっそりと誰かを待っているように見えた。
「……じゃあ、この子」
ナギが選んだのは、殻に小さな葉っぱの模様が浮いている、まるいかたつむりだった。
「うん、似合うね。名前は?」
「……ナ、ナミ」
ユキコはうれしそうに笑った。
でもその笑みは、ガラスにうつった光みたいに薄く、
ほんの少しだけ──さびしく見えた。
レースは、神社の石段で行われた。
古びた苔むした階段に、小さな「スタート」の札が刺してある。
「ここから、一番上まで。先についたら、勝ちだよ」
ユキコはそう言った。
でもナギには、その“勝ち”がなにを意味するのかわからなかった。
ユキコのかたつむりは、名を「セキ」と言った。
赤い殻を持ち、動きはとてもゆっくりだった。
それなのに、なぜか、始まってすぐ──ナミを追い越した。
「……あれ?」
ナギのナミは、まったく動かない。
それどころか、ほんの少し後ろへずっている気がした。
ナギは目をこらした。
ナミのまわりだけ、時間が止まったような感覚があった。
セミの鳴き声が、まるで遠くの鐘の音みたいに、ゆっくり遠ざかっていく。
「がんばれ、ナミ……」
ナギが小さくつぶやいた瞬間、
ユキコのセキがふっと殻をしめて動かなくなった。
「……あれ、負けちゃった」
ユキコはさらりと笑った。
「でも、勝ったらね、この子は“遠くへ行っちゃう”んだって」
「遠く……?」
「うん。この町じゃない、もっと時間が進むところ」
ナギは階段の上を見上げた。
その先には、また鳥居があった。でもさっきまでなかったはずだ。
「ナギちゃんは、ナミといたい?」
「……いたい」
「そっか。じゃあ、このままここにいようか。次のイベントまで」
ナギはナミの入ったケースを両手で包んだ。
その殻の中に、かすかにあたたかいものを感じた。
ほんとうにいたのか、もういないのか──
それでも、いまは確かに、ここに“いる”と感じた。
ナギは下を向いたまま、石段のすみで静かに息を吐いた。
ユキコの姿は、ふと見ると、すこしだけにじんでいた。
まるで、雨が降る前の空のように。