夜明け前の街は、まだ息をしていなかった。カーテンの隙間から差し込む淡い光が、
リビングの空気を薄く照らしている。
ノートPCのディスプレイ。
数字の波が止まり、チャートが凍りついたまま。
通信が切れたのか、画面の右上で
「再接続中」という文字が、虚しく点滅している。
酒臭い、息を吐きながら、
辰彦はしばらく、その光を見つめていた。
マウスを握る手に、汗が滲んでいる。
ほんの数時間前までは、
数字が踊っていた。音を立てていた。
緑と赤が入れ替わる、その瞬間瞬間こそが「ライブ」だった。
けれど今は……何も鳴っていない。
画面の中の世界から、「音」が消えた。
「……止まったな」
誰に言うでもなく、呟いた。
モニターの光だけが、辰彦の顔の半分を青白く照らしている。気持ち悪さが増幅していく。
時計の秒針の音が、やけに大きく響く。
まるでそれが「テンポ」を刻んでいるように。
キーボードを叩く指が動く。
入力しても、応答はない。
カチ、カチ、カチ……その音がだんだん速くなっていく。
(まるで……アダージェットだな)
三拍子の中に、自分が沈んでいく。
仕事ではなく、「儀式」のように。
数字は動かない。けれど音は鳴っている。
そして……画面が真っ暗になった。
酒!!!!無ぇのか!!!
辰彦は台所にあった料理酒を、がぶ飲みした。
電話の着信音が、静寂を破った。
スマホの画面に映る名前は「林」。
かつての部下。山下と共に酒を酌み交わせた仲間だ。
「……林か。」
「課長っ……会社、終わりました」
電話の向こうの声が震えている。
「代表、いません。飛びました。
口座も空です。……銀行も、あと警察が……」
辰彦は黙っていた。
林の声がだんだん遠くなる。
まるで、水の底から聞こえてくるみたいだ。
昨日までの現実とは、ほど遠い。
電話を握る手が冷たい。
理恵のピアノの音が、
遠くから、薄く流れてくる気がした。
マーラー交響曲 第5番「アダージェット」
時間が……止まる。
静かで、残酷なまでに美しい。
(誰の葬式だ? 会社か。俺か。)
笑いそうになったが、声が出なかった。
喉の奥に何かが詰まっている。
その場で、昨日までの物を吐いた。
テーブルの上には、冷めたコーヒー。
濁った水面に、自分の顔が映る。
揺らめくその影が、誰か別の男のように見えた。
「……止まったんじゃない。終わったんだ。」
辰彦は呟いて、スマホを静かに伏せた。
夜明けと共に通知音が、ひとつ鳴った。
「アカウント削除完了」……会社からの最後のメールだった。
朝日なんて、勝手に登って来んじゃねぇ。
夕方。
理恵が帰ると、リビングの床に紙が散らばっている。
チャートの印刷、手書きの数字、破られた領収書。
辰彦はソファにもたれて笑っている。
「なぁ理恵、なぜ俺は負けたんだろうな……」
「……知らない」
「お前の音は、止まらないのにな……」
理恵は無表情のまま、自分の部屋に戻る。
夜。
育代が買ってきた惣菜を机に並べる。
「私……パートでも何でもしますから……」
辰彦は酒も飲まず、ただ指で机を叩いている。
ずっと、ずっと、ずっと…………
リズムは──三拍子。
時計と同じ速さで、机を叩いていた。
育代が気づく。
「やめて。そのリズム、やめてよ。」
「……音がないと死ぬ。」
テレビからニュースが流れる。
【個人投資会社レガート・トレーディング、破産申請】
育代の箸が止まる。
辰彦の目だけが、ピアノの方を見ている。
「あそこに、俺の音がある。俺は……まだ弾ける。」
彼は立ち上がる。
ピアノの蓋を開ける。
降りてきた理恵が止める間もなく、
鍵盤を、拳で叩き始める。
低音が割れ、弦が悲鳴を上げる。
白と黒の鍵が、血で染まる。
「お前の音は、俺のだ……返せぇえぇ!!」
次の朝。
ピアノの前には、折れた椅子。
床には乾いた赤黒い点。
辰彦の姿は、もうなかった。
ふふふ……
この子が……世界で。
育代が、残った料理酒をがぶ飲みしていた。
誰も見ていないテレビからニュースが流れている。
「地価指数、過去最大の下落——都心部でも平均32%の値下がり……」
育代はただ、料理酒をがぶ飲みしていた。
あはは
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「死は終わりじゃない。
音が止まっても、響きはどこかで続いている。」
― 坂本龍一(最晩年のインタビューより)
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