コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
辰彦が居なくなってから一ヶ月。
育代は、パートを始めた。結婚前以来の仕事だ。物流会社の事務作業で、最初はトラック乗務員相手の受付とその間に、伝票整理を行なっている。
理恵を学校に送り出し、掃除洗濯を済ませて九時から十五時まで働く。終わればスーパーで買い物、帰って洗濯物を取り込んでたたむ。それから、夕飯の準備に取りかかる。
生活は変わった。けれど、音だけは変わらなかった。
ガッチャ
「ただいま」
「理恵、お帰り!もうすぐご飯出来るからね!」
「おかあさん、ポストにこれあった」
理恵は、一通の封筒を育代に手渡す。
東京第一信用銀行……
あの人の作っていた個人口座?
封筒はそのままにして、育代は料理を続けた。
「美鈴ちゃんのママから聞いたんですが。黒川の夫、事業に失敗して狂って出て行ったみたいですね」
ピアノ販売の町田が言った。
「あぁー、もっと絞り取れたんやけどなぁ……」
流元が、口の端を噛む。
「次のターゲットは……松川英治かな」
メモ帳をめくりながら長田。
「松川の親父は、都議だから固いっすね」
シャトー・マルゴーをグラスに注ぎながら鹿野。
スマホに眼を落とす町田が、
「地価価格暴落、値下がりかぁ。マンションでも買おうかなぁ。」
「暴落っぷりが酷すぎるよ。」
「まぁ、普通に平凡に暮らすのが一番やろ」
「一回の飲食でウン十万の店居んのにか?」
笑い声が響いた。
誰も、音を聞いていなかった。
「おかあさん、寝るね。お休みなさい。」
「はい、お休みなさい……」
全ての家事が終わった。
仕事をしながらの家事は、身体がズシンっと重くなる。
育代は、理恵がポストから持って来た封筒に手を伸ばす。
ふと、思う。
……辰彦は、どこかで生きてるんだろうか。
あの時、そのまま出て行って。
会社ダメになったんだったら、一からやり直せばいいじゃない。
結婚して、11年目。当時、辰彦は街金の営業をしていた。育代は、派遣社員として携帯電話会社で働いていた。
辰彦が会社の携帯電話を無くした、と大慌てで店に来た事がきっかけとなった。まるで昨日の事のように思い出せる。
育代は、東京第一信用銀行から届いた封筒を開けた。
封筒を開けた瞬間、紙の匂いと共に「現実」が流れ込む。
『担保評価見直しのお知らせ』
拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素より弊行をご利用いただき、厚く御礼申し上げます。
さて、昨今の不動産市況の急激な変動に伴い、
お客様がご契約中の下記物件に関し、
担保資産の再評価を実施いたしました。
その結果、担保価値の下落により 38,000,000円(参千八百万円) の追加返済が必要となりましたことをお知らせ申し上げます。
――― ご入金期日:平成15年11月30日 ―――
期日までにご入金の確認が取れない場合、
契約約款に基づき、担保不動産に対する
法的手続き(抵当権の実行等)を行う場合がございます。
何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
敬具
東京第一信用銀行
融資管理部 担当:佐原
な……な、なにこれ………
『追加返済額 3,800万円』
曲が、
消えた
……………………………………………………
「音は、止まっても、そこに残響がある。
静寂もまた、音楽の一部なんです。」
― 坂本龍一(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』2013年)
……………………………………………………