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その日は、家に帰る前からおかしいなと思っていた。
環菜に電話してもメッセージを送っても全く折り返しがないのだ。
いつもだったら、時間が空いてもあとで何かしら連絡がくるのに、今日は一切音沙汰がない。
なんだか胸騒ぎがして、残業で遅くなってしまったけど少しでも早く家に帰ろうと大使館を出る。
そんな急いでる時に限って、また音大生の三上さんが待ち伏せしていた。
「智行さん、お仕事お疲れ様です!今日は遅かったんですね」
「三上さんもこんな時間に一人で出歩くのはやめておいた方がいいんじゃないかな」
笑顔で応じながらも、早く帰れというニュアンスを言葉に含ませる。
残念ながら三上さんには全く届いていないようで、逆に喜び出した。
「心配してくださるんですか!嬉しい!」
「邦人がトラブルに合うと大使館が対応しないといけないですからね。だからぜひ仕事を増やさないで欲しいと思っています」
微笑みながら毅然とした態度で事実をストレートに伝える。
するとお嬢さま然とした笑みにピシッとヒビが入った。
「それじゃあ僕は急ぎますので。気をつけて帰ってくださいね」
サッサとその場を去ろうとしたら、「ちょっと待って!」と大声で呼び止められる。
これ以上騒がれたら面倒なので、しょうがなく足を止めて彼女に視線を向けた。
「なんですか?」
「智行さんの婚約者だっていう女、クロワッサンが美味しいことで人気のあの店で働いてますよね?」
「‥‥それが何か?」
平然とした態度を保ったが、内心驚いていた。
僕のことだけでなく、まさか環菜のことまでつけているのだろうか。
以前恋人がいた時には三上さんは静観していたし、恋人に近づくという様子はなかったから、環菜を気にするとは思っていなかった。
「まだ別れないんですか?そろそろ飽きる頃かなと思ったのに、なかなか離れないんですもの。パーティーにも連れて行ってるって聞きました。大企業の重役の娘である私の方がお役に立てると思うんですけど」
つらつらと自分勝手なことを言い出す三上さんにイライラしてくる。
役に立たないどころか、僕が目論んでいた以上に環菜は役に立っている、いや立ち過ぎているというのに。
先日のノヴァコバ議員宅への訪問をふと思い出す。
レセプションパーティーで約束を取り付けたあの件が実現され、邸宅へ再び招かれ、ノヴァコバ議員夫妻と僕と環菜の4人だけで食事をしたのだ。
環菜が家で作って持参した日本食は大絶賛され、夫妻は大喜びだった。
環菜の振る舞いも友人夫妻に会いに来たという雰囲気だったこともあり、リラックスしたノヴァコバ議員が結構重要なことをペラペラ話してくれたのだ。
それが重要な情報だと思っていない環菜が、普通の世間話のようなトーンで話を聞いて相槌をうつから、議員も警戒することなくポロッと漏らしてくれたのだった。
今まで掴むことのできなかったチェコ側の経済や政治状況の内情について情報を得ることができ、心の中でニンマリ笑ってしまったものだ。
しかも次は友人を呼ぶからまたお願いしたいと熱心に口説かれていて、さらなる縁が繋がりそうなのには驚いた。
後日、大使に得た情報を報告すると、大使も思わぬ収穫にホクホク顔だった。
「桜庭くんの婚約者は大活躍だね。まさかノヴァコバ議員夫妻の心を鷲掴みするとは!彼女はもっと色んなレセプションパーティーに連れて行った方がいいんじゃないかい?また大物を釣りそうだ」
こんなことを提案された。
あくまで女避けとして利用したいと思って持ちかけた婚約者役だったが、仕事面でも利用することになるとは想定外だった。
「ほら、やっぱり図星なんですよね。私の方が桜庭さんの役に立てるもの」
「そんなことはありません。僕の婚約者は最高のパートナーですよ。もちろん仕事面においても。それにたとえ役に立たなかったとしても、愛する女性がそばにいてくれるだけで僕は十分幸せなので」
「そんな‥‥!」
「それでは本当に急いでいますので、今度こそ失礼させていただきます。お気をつけて」
呼び止められる隙を作らないように、今度は振り返らず足早にその場を立ち去った。
三上さんのせいで無駄な時間をくってしまい、家に着いたのは22時半頃だった。
携帯電話を確認するが、その時間になっても環菜からの音沙汰は一切ない。
玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗だった。
いつもならどこかしら電気が付いているし、夕食の残り香が感じられたりするのだが、今日は怖いくらい真っ暗で物音ひとつしない。
電気を付けてリビングとキッチンを覗くが環菜はいない。
こんなに真っ暗で静かだから、そもそも家にいない可能性もあるのではないかと思った。
もう夜中だし、もし家にいないなら何かトラブルに巻き込まれた可能性もある。
胸騒ぎが大きくなるが、まだ環菜の部屋を確認していなかったことを思い出した。
環菜の部屋からは、物音はしないし、ドアの隙間からは電気の光も漏れていない。
やっぱり部屋にもいないのだろうかと思いながら、「環菜、いる?」と呼びかけてドアをノックする。
何度もノックしてみたが、一切返事がない。
やっぱり部屋にもいないのかと思ったその時、わずかに布の擦れるような音が聞こえた。
もう一度ノックするがやはり返事はない。
ドアノブを回すと鍵はかかっていなかったので、そのまま扉を開ける。
すると目に飛び込んできたのは、真っ暗な部屋の中、ベッドの上で布団にくるまる環菜の姿だった。
よく目を凝らすと、顔色がものすごく悪く、小刻みに震えている。
明らかに様子がおかしい。
名前を呼びかけるも、ビクビク震え、顔を隠すように布団を被ってしまった。
「環菜、そんなに震えて一体どうしたの?何があったの?」
見るからに普通じゃない様子の環菜に近寄って声をかけるが、震える声で「なんでもない」「大丈夫だ」と言われるだけだった。
顔を見ようと布団を剥がすと、焦点が合っていない虚な目の環菜と目が合う。
その目には明らかに泣いた跡があるし、今も目に涙が溜まって潤んでいた。
一体どうしたのかと理由が気になって仕方なかったが、話したがらないので聞き出すことを諦めて、ただ抱きしめた。
一瞬身を強ばらせたものの、しばらくすると環菜も僕の背中に腕を回してきて、身体を密着させるように抱きしめ返してきた。
僕から抱きしめることはこれまで何度かあったが、思えば環菜から抱きしめ返されるのは初めてだった。
環菜の小さな身体は僕の腕の中にすっぽり収まっている。
無言のまま抱きしめ合いながら、以前話してくれた環菜の家庭環境の話を思い出した。
両親を早くに亡くし、バカにされることもあった、祖父母も亡くなって今は天涯孤独だと言っていたが、こうやっていつも1人で耐えてきたのだろうか。
最初に環菜を見かけた時は、か弱そうで男がいないと生きていけなそうな女性だと思ったが、むしろその逆だったなと今は思う。
人に頼らず1人で力強く生きている女性だ。
生活に必要なことを身につけ、努力し、こんな小さな身体で懸命に生きている。
そう思うと、環菜を守ってあげたい、力になりたいと思った。
こんなことを女性に思うのは初めてだ。
しばらく無言で抱きしめ合っていると、環菜が沈黙を破り、ポツリと小さくつぶやいた。
「‥‥智くん、お願いがあるんだけど」
「なに?」
「今日一緒に寝てくれる?こうやって一晩抱きしめていてほしい‥‥」
予想外のお願いをされて驚いた。
いつもはむしろ僕から離れようとするくせに、自分から一緒に寝たいと言ってくるとは。
それだけ心が弱っている証拠だろう。
環菜の方からお願いしてくること自体が稀なのでぜひ応えたいと思い了承する。
ただ、のちに知ることになるのだが、このお願いはとんでもない拷問だったのだーー。
シャワーを浴び終わって部屋着になった環菜が部屋を訪ねて来た。
まず目を奪われたのは、環菜の白いほっそりとした生足だ。
8月になって暑い日が続いていることもあり、かなり薄着で寝ているのだろう。
Tシャツにショートパンツという格好だ。
さらにシャワーを浴びた後ということもあり、化粧を落とした素顔の顔はいつもよりあどけなく、頬は上気するように赤みが差している。
それだけでも悩ましいのに、ベッドに入ると、環菜の方からぴったりと僕にくっついてきたのだ。
ちょっとの隙間も空けたくないと言わんばかりに密着され、薄着だということもあり、身体の柔らかさがダイレクトに伝わる。
疲れていたのか環菜は安心するかのようにすぐに眠ってしまったが、逆に僕は目が冴えてくる。
正直、この状態で手を出せないというのは、理性を試されているようなものだ。
(やばいな‥‥。これはとんでもない拷問だ‥‥。手を出したいのに出せないっていう状況の経験が今までなかっただけに、それがこんなにキツイとは思わなかった)
これは今夜寝れないかもなと思っていると、寝ていたはずの環菜が急に震え出した。
悪夢を見ているのか苦しそうに喘いでいる。
それを振り払うように、さらに強く抱きしめられ、僕の胸に寄せた顔をグリグリと押しつけてくる。
「‥‥!」
(環菜はもしかしたら拷問の天才かもしれない。キツイなこれ‥‥)
そのあとも、ちょっと身体を離そうと動けば、逃さないとばかりに無意識にくっついてくる。
なんとも悩ましいため息が何度となくこぼれ落ちた。
結局、朝方まで眠れず、日が昇る頃に一瞬寝れたかと思ったらアラームに起こされて出勤するはめになった。
「おはようございます。あれ、桜庭さん、何か今日顔色悪くないですか?眠そうですね」
出勤するやいなや、渡瀬に目敏く気付かれた。
鈍い男ではあるが、やはり外交官として人の顔色はよく見ているらしい。
「あぁ、ちょっと昨日色々あってね」
ニコリと笑顔を作ってやんわりと誤魔化せば、何を思ったのかニヤニヤ笑って耳元でコソッと囁いてくる。
「昨夜はお楽しみだったんです?環菜さんが寝かせてくれなかったんですか?」
ある意味そうだが、渡瀬が思い描いているのは違うことだろう。
面倒なので特に訂正はせず、曖昧に答えておく。
「まぁそんなところかな」
「ラブラブですね。羨ましいです!」
羨望の眼差しを向けられたが、残念ながら渡瀬が思ってる方の意味で僕は環菜と寝たことはないのだ。
婚約者《《役》》だから、当然といえば当然なのだが。
そんなことを暴露したらさぞ驚かれることだろうなと思った。
「そういえば、渡瀬は環菜が働いてるカフェに何度か行ったことがあるって言ってたっけ?」
「ありますよ。あそこはもともと僕がよく行ってた店ですから。環菜さんに接客してもらいましたよ」
「その時に、前にスリの件で対応した音大生の子って見かけなかった?」
「三上さんでしたっけ。そういえば1回だけ店内で見かけたような気がしますね」
やはり彼女はカフェまで行っていたらしい。
環菜が何か言ってきたことはないから、接触はしていないのだろう。
(いや、もしかして昨日の環菜のあの取り乱し様は三上さんが原因とか?でもそれなら僕にも関係があるから環菜はあんなに頑なに話そうとしないことはないだろうし)
そういう点では、環菜は理性的な判断ができる女性だと思う。
僕に関係することであれば間違いなく報告してくれるだろう。
それならあの怯えるような混乱ぶりは何が原因なのだろうか。
頑なに口を開かないし、あの様子だと日を改めたとしても話してくれなさそうだ。
それについては後々探るとして、とりあえず三上さんの件は手を打っておく必要がありそうだ。
「もしまたあのカフェに行ったら、三上さんがいないか、不審な行動をとっていないか見ておいてくれない?」
「何か懸念があるんですか?」
「僕が三上さんに付き纏われてるのは知ってると思うけど、どうやらその範囲を環菜にまで広げてるようなんだよね。ちょっと心配でさ」
「そういうことなら分かりました!あそこには割と頻繁に行ってる方だと思うので気にかけておきます!」
ストーカー対策は、周囲の協力を得ることが重要だ。
渡瀬を巻き込んだことで、少しは手が打てていれば良いが。
あのお嬢さまが何を企んでいるのか分からないから、環菜に害が及ばないように他にも何か考えておく必要があるかもと、僕は思考を巡らせ始めたーー。