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第1話:鉄の女と、美しき刑事
その日、帝都製薬の中央研究所は、文字通り狂乱の渦に包まれていた。
午後二時すぎ。第一高分子研究室の室長である大河内(おおこうち)が、自身のオフィスで死亡しているのが発見されたからだ。死因は、コーヒーに混入された即効性の劇薬。凄惨な毒殺事件だった。
「ひどい……なんてこと……!」
「誰が、どうして室長を……!」
廊下に締め出された研究員たちは、一様に青ざめ、涙を流し、互いに肩を寄せ合って震えていた。突然奪われた上司の命、そして自分たちのすぐ近くに殺人犯がいるかもしれないという恐怖。それは人間として当たり前の反応だった。
ただ一人、氷室律(ひむろ りつ)を除いては。
彼女は、騒然とする廊下の壁に背を預け、手元のタブレット端末に視線を落としていた。
指先を淡々と動かし、今日提出する予定だった論文のデータを修正している。彼女の切れ上がった一重の瞳には、涙の痕どころか、動揺の破片すら浮かんでいない。至っていつも通り、むしろいつもより集中しているようにすら見えた。
「ちょっと、氷室さん……不謹慎よ」
隣にいた同僚の女性が、耐えかねたように非難の声を上げた。ハンカチで目を真っ赤に腫らした彼女は、律の横顔を忌々しげに睨む。
「大河内室長が亡くなったのよ? あなた、よくそんな平気な顔で仕事なんてできるわね。少しは悲しくないの?」
律はタブレットから目を離さず、抑揚のない声で答えた。
「悲しむという情緒的反応が、室長の生命活動を再開させるトリガーになるのであれば、私は今すぐにでも大声を上げて泣きます。ですが、生物学的に見て彼の脳死および心停止は不可逆的なものです。であれば、私が今すべき合理的な行動は、締切が三時間後に迫った論文のチェックです。何か間違っていますか?」
「あなた……本当に血も涙もないのね」
同僚は吐き捨てるように言うと、律から距離を置いた。
律はそれ以上何も言わず、ただ事実を述べただけだという風に、再び画面に目を戻した。
幼い頃から、感情というものが希薄だった。
他人が怒る理由がわからない。他人が泣く理由が理解できない。律にとって世界は、因果関係と確率、そして合理性だけで構成されたシンプルなパズルだった。周囲から「冷酷な鉄の女」と気味悪がられようとも、その評価すら彼女にとっては「客観的事実の表明」に過ぎず、傷つくことすらなかった。
「――おい。お前が氷室律か」
不意に、低く色気のある声が律の頭上から降ってきた。
見上げると、そこにはひどく場違いな美貌が立っていた。
整ったアーチを描く眉に、切れ味の鋭い涼しげな目元。すっと通った高い鼻筋と、薄い唇。モデル顔負けの抜群のスタイルを、少しよれた黒いスーツに包んでいる。
男の手元には、これ見よがしに突き出された警察手帳。「遠藤」と書かれた身分証が揺れていた。
その容姿は、普段なら周囲の女性が一瞬で色めき立つほどのイケメンだった。だが、彼の瞳の奥にある光は、獲物を値踏みする肉食動物のように容赦なく鋭い。男は律の「異質さ」を瞬時に見抜き、露骨な警戒の目を向けていた。
「はい。氷室律です」
「ちょっと面貸せ。お前に聞きたいことがある」
*
即席の取調室として使われることになった臨みの会議室。
パイプ椅子を挟んで、律と遠藤は向き合っていた。遠藤は手帳を広げると、ペンを細い指先で弄びながら、律をじっと凝視する。
「単刀直入に言う。被害者の大河内室長が最後に口にしたコーヒー。あれを淹れて室長室に運んだのは、お前だな?」
「はい。間違いありません。午後一時四十五分、室長の指示に従って私が淹れました」
律は淀みなく答える。
「室長がお前を部屋に呼び出した理由は?」
「私が提出した新薬の実験データについてです。室長はその数値を改ざんし、成果を早く上げるよう私に命令しました。私はそれを拒否し、一分ほど口論になりました」「口論、ねえ。周りの奴らの話じゃ、お前は大河内と相当激しくやり合ってたらしいじゃないか。『あなたの存在は我が社の損失だ』とまで言い放ったとか」
「事実です。データの改ざんを要求する上司など、研究機関においては負の遺産でしかありませんから。合理的な判断としてそう伝えました」
遠藤はふっと鼻で笑った。冷たい三白眼の瞳が、さらに細められる。
「動機は十分。凶器のコーヒーを最後に扱ったのもお前。さらに、被害者が苦しんで死んだっていうのに、お前は涙一つ流さずさっきも廊下でパソコンを叩いていた。……なあ、氷室。普通、人間ってのは目の前で人が死んだらショックを受けるもんだ。殺した相手なら、なおさらボロが出る」
遠藤は机に身を乗り出し、律の顔に自身の顔を近づけた。端正な顔立ちがすぐ目の前に迫る。整った容姿とは裏腹に、泥臭い煙草の匂いと、圧倒的な威圧感が律の肌を刺した。
「だけどお前にはそれがない。まるで行ってきますの挨拶でもしたかのような顔だ。お前がやったんだろ。大河内が邪魔だったから、お得意の薬品でサクッと片付けた。違うか?」
普通の人間なら、この美貌と威圧感に気圧され、赤面するか怯えて弁明を始めるだろう。
しかし、律の心拍数は一分間に六十二回。極めて安定していた。彼女は遠藤の美しい目を真っ向から見つめ返し、静かに口を開いた。
「刑事さん。あなたの推論は非常にエモーショナルですが、論理的(ロジカル)ではありません」
「何だと?」
「もし私が室長を毒殺する計画を立てた場合、私が容疑者になる確率は計算上九八%を超えます。なぜなら、最後に部屋に入ったのが私であり、動機が公になっているからです。そんな愚かな犯行を私が選ぶと思いますか? 私なら、もっと足のつかない遅効性の毒物を使い、自身のアリバイが完璧に成立するタイミングで執行します」 淡々と、淡々と、律は「自分が殺す場合の最適解」を述べる。
遠藤の美しい眉がピクリと跳ねた。彼の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けるのが分かった。この女は、自分が疑われている極限状態のなかで、なおも冷徹な計算式を披露している。
「……お前、本当に人間か?」
遠藤の薄い唇から、困惑と、ほんの少しの嫌悪が漏れた。
だが、彼はただ容姿が良いだけの無能な刑事ではなかった。遠藤は律の瞳の奥をじっと見つめ、そこに「嘘」や「怯え」のシグナルが一切ないことを、刑事としての野生の勘で見抜いていた。
(……こいつ、本当に犯人じゃないのかもしれない。犯人なら、ここまで開き直ったサイコパスを演じるメリットがない。だが――)
「面白い屁理屈だ。だがな、氷室。警察ってのは感情じゃなく証拠で動くんだよ。お前がどれだけ論理的だろうが、状況証拠はお前を犯人だと指し示してる」
遠藤はスラリとした長身を揺らして椅子から立ち上がり、手帳をポケットに仕舞った。
「今日からお前を重要参考人としてマークする。勝手に遠くへ行くなよ、氷室」
「お止めになるのは自由ですが、時間の無駄かと思います」
律の冷淡な言葉を背中で受けながら、遠藤は不敵な笑みを浮かべて会議室を後にした。
一人残された律は、静かに自分の胸に手を当てた。
遠藤という男の、泥臭く、それでいて射抜くような鋭い視線。あれは彼女の脳にとって、今までにない『不確定要素(バグ)』として記憶された。
(刑事・遠藤蓮。……私の計算を狂わせそうな、不合理な人間)
それが、後に二人の運命を大きく変えることになる、最悪で最高なファーストコンタクトだった。
コメント
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# 感想 琥珀さん、第1話読んだよ!めっちゃ好みのスタートだわ🔥 「鉄の女」氷室律とイケメン刑事・遠藤のファーストコンタクト、めちゃくちゃ刺さった。律の「泣いても室長は生き返らないから論文チェックする」って論理一辺倒な思考、最高にクールで好き。でも遠藤の「人間かお前」って台詞にグッときた。最初は犯人扱いだったのが、彼女の論破で「本当にやってないかも」って揺れる刑事の直感、熱い。 あと「私が♡♡♡ならもっと足がつかない方法を選ぶ」ってリスク解説しながら容疑をはねのける律、かっこよすぎるだろ…!これからバディっぽくなるのかな?続き待ってる!✨