真島家を出た後も、和葉は地下で見た光景が頭から離れなかった。
隠されていた真実はあまりにも凄惨で、和葉にとっては少し重たい。
「……冥子さんは、カシマレイコさんの恨みを晴らそうとしていたんでしょうか」
ふと、和葉はそう呟く。
「……そうかも知れません。ですが何故……?」
冥子がカシマレイコの恨みを晴らそうとしていた。そう考えることは出来るが、浸の中ではイマイチまだ冥子とカシマレイコが繋がり切らない。
まだもう少し、パズルを完成させるには少しだけピースが足りない。
「まだ不明な部分もありますし、結論を出すのはまだ先になりそうですね」
そう言いつつ浸は携帯を取り出す。
「一度連絡しておきましょうか」
なんだかんだと使っている内に、もうすっかり浸も携帯に慣れた。まだスマートフォンに切り替えるのは難しいだろうが、ひとまず今持っている携帯は扱えるようになったし、習慣もついている。
「……おや?」
だが露子は、どれだけ待っても電話には出なかった。
「どうかしました?」
「朝宮露子が中々出ませんね……」
露子に電話をかけて待つことはあまりない。気づいていないのかも知れないが、どことなく厭な予感がして浸は顔をしかめる。
「マナーモードにしてて気づいてないとか……ですかね」
「あり得なくはないですね……」
言いつつ、浸は時計を見る。時刻はまだ午後三時過ぎだ。
「捜してみましょうか。日暮れまでに見つからなければ一度事務所に戻りましょう。その間に折返しの連絡があるかも知れませんし」
絆菜は携帯を持っていないため、露子と連絡がつかなければもう捜すしかない。
「ですね!」
もし霊との戦闘になっていれば、和葉の感知能力で見つけ出せるだろう。それ程焦ることでもない。
しかしそれでも、先程抱いた厭な感覚を浸は拭い切ることが出来なかった。
***
膨張と収縮を繰り返し、”赤羽絆菜”は急速に形を失っていく。最早ほとんど肉塊に近いソレは、赤羽絆菜と呼ぶにはあまりにも歪だった。
苦しげな呻き声が、肉塊から漏れ続けている。
露子はただ、ソレを見つめていた。
どうすれば良いのかわからないまま、ただ見つめることしか出来ない。
いや、本当はどうするべきなのか、とっくの昔に理解している。
完全に霊化し、更に悪霊化した絆菜を元に戻す術はない。
どんな霊魂でも、淀めば悪霊化する。それは不可逆だ。霊能者なら誰でも一番最初に学ぶ、或いは結果的に理解することになるこの世界のルール。
銃を向ける。
だがそれは、引き金を引けないまま下ろされた。
「つユ……こ……」
「!?」
不意に、聞き慣れた声が露子の名を呼ぶ。あり得ない。わかっていてもわずかにすがってしまう。まだ救えるのではないかと。そして露子は、思わず手を伸ばす。
そして次の瞬間には、飛びかかってきた肉塊によって弾き飛ばされていた。
「――――っ!?」
勢いよく吹き飛ばされ、露子は壁に背中から激突する。歪んだ視線の向こうで、奇怪な怪物が立ち上がった。
「ァァァ……あァあアぁァあ……」
狂った調子で呻きながら、ソレは歩み寄ってくる。
霊魂の淀み方が普通の悪霊とは少し違う。悪霊化しても霊はある程度原型を留めるが、この変化の仕方は異常だ。
抑え込み続けたせいなのか、半霊化していたことが原因なのか。
確かなことは何もわからないが、少なくともソレが絆菜だと思うことを露子は拒否していた。
あれは違う。
別の悪霊だ。
しかし何度言い聞かせても、露子はもう見てしまっている。赤羽絆菜があの姿へと変貌する瞬間を。
だらりと垂れた肉塊を引きずりながら、二本の足でソレは露子へ歩み寄る。ぶよぶよした身体のてっぺん付近には黒く裂けた穴があり、呻き声がそこから漏れていた。
「このおおおおおおおおおおおおお!」
自分を奮い立たせるようにして叫び声を上げ、露子は震える手で握りしめた拳銃を向ける。薤露蒿里の弾丸は、明後日の方向へと放たれた。
「……撃てないの……? このあたしが……?」
膝から崩れ落ち、愕然とする。
霊は祓う。誰かを傷つける前に。
それがゴーストハンターだ。悪霊化した霊魂を祓うことで救い、そうすることで生者を悪霊の脅威から救う。
なのに、撃てない。
歯を食いしばり、両目いっぱいに溜まった涙をこらえながら、露子は立ち上がる。
それでも銃口の狙いは定まらなかった。
手も足も震え続けている。
こんなこと、もう覚悟出来ているハズだったのに。
「どうして……っ!」
赤羽絆菜の霊魂は、あの仮面から解き放たれた時点で危うかった。浸達に出会う前から仮面の力で半霊化して戦っていた絆菜の霊魂は、もう十分淀んでいたのだ。
だからこそ瑠偉は、あの時絆菜を祓ってしまおうとしたのだ。
そして絆菜は、その後も戦い続けた。半霊化することで得た再生能力を何度も何度も使った。
「だから言ったのよ! もうやめろって! アンタやっぱり、限界だったんじゃない!」
絆菜に救われたからこそ、もうこれ以上戦って欲しくはなかった。戦い続ければいずれこうなる。そうでなくても、遅かれ早かれ悪霊化の時は訪れる。霊化した霊魂というのは、そういうものなのだ。
「なのにアンタは出しゃばって! あたしは! 助けてくれなんて言ってない! 今日だってっ……!」
嗚咽混じりに叫ぶ露子の声が、もうどれだけ届いているのかわからない。
ソレはただ、歩み寄って来るだけだ。
「……ふざけんな! アンタはいつもそう! 勝手に出しゃばって! ずかずか踏み込んで! 迷惑なのよ! 冗談じゃない!」
それは突然だったように思う。
赤羽絆菜は朝宮露子の中に突然踏み込んできた。急速に距離を縮めてきて、どうすれば良いのかわからなかった。
気がついたらそこにいて、いつの間にか隣に居座っていた。
ああ、迷惑だな。そう思って突っぱねている内に、その距離感に慣れてきた。
そんなことをずっと繰り返していた。
今だってそうだ。
ソレは、いつの間にか目の前にいた。
「ツ……ゆ……子……」
どろりとした肉塊が、不快な声音で名前を呼ぶ。
けれど、それだけだ。
それ以上は何もしようとはしない。
「……いつもそうよ……アンタはそうやって……傍で名前を呼ぶのよ……」
ボロボロと流れ落ちるものを、もう抑えている余裕はなかった。
「たの……ム……」
「え……?」
「……ハらエ……」
次の瞬間、絆菜の意識が微かに露子の中に流れ込む。
絆菜は今、必死で自分を抑えている状態だ。
肉体は消滅し、霊魂は完全に悪霊化しているがまだ自我を失ったわけではない。だが、自我がなくなるのも時間の問題だ。このままでは抑えきれなくなり、ただの悪霊に成り下がって人を傷つけるだろう。
だから――――
「は……ラ……え……」
祓え。
「……っ……っ!」
絆菜が苦しんでいるのが、ハッキリと理解出来た。
今だけじゃない、ずっと前からそうだ。
絆菜は一度も顔には出さなかったが、常に自身の悪霊化を抑えるために苦しみ続けていた。そのことが今は、霊感応で少しだけ理解出来る。
「……わかった」
握りしめた拳銃を、露子は再び向ける。そうすると、肉塊に成り果てたソレに薄っすらと重なるようにして、赤羽絆菜の姿が見えてきた。
「……露子」
絆菜はそっと、露子に語りかける。
「すまない。こんな役回りをお前にさせるつもりはなかった」
「……だったら、あたしの忠告通りにしてれば良かったじゃないのよ」
「ふ……それを言われると痛いな。重ねて、すまなかった」
絆菜はそっと露子の頬に右手で触れたが、感触はない。
「最期は浸に頼もうと思っていたんだがな」
「悪かったわね、あたしで」
「いや、良いさ。お前なら」
はにかんで、絆菜は言葉を続ける。
「お前は本当にうるさい奴だったよ。口を開けば悪態ばかりだ。なのにそんなお前が放っておけなかった。自分でも不思議だった」
露子がどれだけ悪態をつこうとも、絆菜はいつだって笑って聞き流していた。
どれだけ突っぱねられても、笑って傍にいた。
「私はお前を妹と……春子と重ねていたのかも知れない。春子が成長して、中学生くらいになって反抗期になったらこんな感じかも知れない……とな」
「……なにそれ。ちょっと無理があるんじゃない?」
「そうか? じゃあ単純に、お前に惹かれていたんだろうな」
真っ直ぐで、堂々としていて、いつも自信満々で。
そんな朝宮露子に、いつの間にか赤羽絆菜は惹かれていたのかも知れない。
「……ありがとう、露子。お前はあの時も、私が誰かを傷つける前に止めようとしてくれたな」
絆菜が仮面によって暴走したあの時、子供を襲いかけていた絆菜の前に現れたのは露子だった。
「……お礼なら浸に言いなさいよね。アンタに一番世話焼いて、助けるために粘ったのはあいつなんだから」
「……それもそうか。だがもう叶いそうもない……お前が、伝えておいてくれ……頼んだぞ」
「……わかった」
薄っすらと消えていく。
もう時間はない。
絆菜の自我は、もうほとんど残されていない。
「最……つ…………む……名前…………を」
言葉はもう跡切れ跡切れで、ほとんど聞き取れない。けれど露子は、絆菜の最後の言葉をハッキリと理解した。
彼女の姿が消えていくと同時に、露子はゆっくりと引き金を引いた。
「……絆菜」
薤露蒿里の弾丸が、肉塊に食い込む。
それは奥まで深く食い込んでから、中で一気に炸裂した。
跡形もなく爆散させれば、もう再生することはない。
薤露蒿里によって砕かれた絆菜の霊魂が、粉々になって消えていく。
「ありがとう」
最後に、彼女が微笑むのが見えた。
「…………」
佇む露子の耳に、慌てて駆け寄ってくる二つの足音が聞こえてくる。
「つゆちゃん!」
「朝宮露子!」
駆けつけてきた二人の方へ向き直りながら、露子は袖で涙を拭う。
「あ、あの……」
和葉のことだ。ここに近づいた時点でほとんど察しているだろう。
露子は何も言わなかったし、二人も何も言えなかった。
ただ静寂だけが残って、そこにはもうそれ以外何もなかった。
寂寞とした廃工場に、薄っすらと夕日が差し込み始めた。
***
ある日のドリィで、浅海結衣は退屈そうにレジの奥で座っていた。
ドリィは基本的に客足が少なく、ハッキリ言って経営も怪しい。
ぼんやりと来客を待っていると、不意に店のドアが開く。
「いらっしゃい!」
すぐに立ち上がり、張り切って声をかけると、そこには見慣れた少女が立っていた。
「待ってたよ露公。ちょっと久しぶりじゃないか?」
普段通りに軽く声をかける結衣だったが、露子から応えはない。
そして今にも泣き出しそうな彼女の表情に気がついて、結衣はすぐにレジを離れて露子へ歩み寄る。
すると、露子は躊躇なく結衣に抱きついた。
「……どうした?」
力強くエプロンを握りしめるその両手が、震える背中が、普段の彼女からは考えられないくらい年相応のものだった。
じんわりとエプロンが濡れて、結衣はそっと露子を抱きしめた。
「お願い……ちょっとだけ、このままで……」
「……何言ってんだ。ずっとそうしとけ。強がんな」
その言葉を聞いた途端、露子はその場でわんわん泣き始めた。
泣きじゃくる背中をそっとさすりながら、結衣はただ受け入れる。
「あたし……言えなかった……! ごめんねも……ありがとうも……!」
「……そうかい」
何も聞かず、結衣はそっと受け止める。
彼女の涙を見るのは、初めてだった。
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