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現在、慣れ親しんだスケートリンクの入り口で、明浦路司は稀に見る危機的状況に陥っていた。
「なら僕にもちょうだい」
「え?」
「あの子どもにもあげてるんだからいいでしょ?」
「なにが⁉」
司の人生を大きく狂わせた張本人からとんでもない要求をされている真っ最中なのである。
不可思議なものが広く遍あまねくこの世界、人間は男女の性別以外にも大きく二つに分けることが出来た。人外の血を引く者と引かない者の二種類である。
はるか昔から世界各国に伝わる様々な御伽噺、それらに登場する人以外の不思議な生き物。現代ではおおよそ妖怪と称される存在と交わった人間が過去に存在したのだ。
人の身に非ざる彼ら彼女らの血を引いた者達にはそうした先祖の力が脈々と受け継がれている。
もっとも純血の妖あやかしはとうに絶え、その血も薄まり、限りなく人間と同じ存在になっている。現代ではちょっと不思議な力が使えて、平均寿命が純粋な人間よりも二十年程長いだけの存在に落ち着いていた。
そんな人々を一般に「あわい生まれ」と呼ぶ。妖に固有名詞がある場合、短縮形としてその種族名で呼ぶことも多い。
そんな少数派のあわい生まれの人々ではあるが、容姿が優れていることが多く、現代では人前に立つ職に就いている者が多い。芸能人や舞台俳優に限定すると、約四割が何かしらの人外の血を引いている。
美しさを競うフィギュアスケートも例外ではない。
芸能界ほどではないが、他の競技と比べてあわい生まれの選手やコーチが多く、サポートも充実している。
そんなフィギュアスケートのアシスタントコーチとしてルクス東山に所属する明浦路司も無関係ではいられなくなってしまった。本人はいたって普通の、何の変哲もない一般人なのだが、彼の大切な教え子があわい生まれの中でも少々特殊な存在だった。
「先生、今度の大会で金メダル獲るので、ご褒美に私のプログラムを曲付きの通しで踊るか、ちょっとだけでいいので腕から直接血をください‼」
フスフスと鼻息も荒く、自分のコーチにおねだりをするのは司の唯一の担当生徒だ。ルクス東山に所属するシングルの選手で特別強化選手の指定も受け、女子シングルを牽引するまでに成長した結束いのりその人である。
「いのりさん、交渉上手くなったね」
どちらを司が選んでも自分には得しかないようになっている。出会ったばかりの、自信なさげだった小学生時代よりはるかに逞しく、強かに成長しているのは日の丸を背負って世界を相手に鎬しのぎを削ってきたからだろうか。
高校生らしくどこか憎めない表情で舌をぺろりと出しておねだりを続ける。
「ダメですか?」
年月と共に身長も伸びたとは言え、司の胸より低い位置から期待に満ちた瞳でねだられるとどうにも断りづらい。
「できれば両方がいいんですけど、それだとさすがに貰い過ぎかなって」
(どっちを選ぶべきだ)
たぶんどっちも本当に欲しいものなのだろう。でもここ最近は司の血を口にした後、明らかに調子が良くなるのだ。ジャンプの成功率とは関係ない。表現に深みが増すというか、感情が演技に乗せやすくなっているように思えてならない。
初めていのりが自分の血を口にした時の事を司は思い出し、深く考え込んだ。
あの時、接触しそうになった生徒を庇うのが精一杯で受け身も満足に取れず、リンクに思いっきり顔面を打ち付けてしまった。
鼻血は出るは唇の裏を切るはでリンクの一部を鮮やかな赤色に染めあげてしまい、中々の惨状を作り上げてしまった。
幸い生徒に怪我は無かったのだが、直後のいのりの行動が問題だった。あろうことか、リンクに散った司の血液が付着した氷の欠片を口にしたのである。慌てて吐き出すように言ったのだが、「美味しい!」と言う言葉と鮮やかな血の色に変化した両目を見て異変を察知した。
急遽、その日のレッスンを中止し保護者に連絡したところ、心当たりがあったのか、すぐさま専門の検査機関で調査する流れとなったのだ。
迅速な対応のおかげで三日後には吸血鬼の先祖返りだという確定判定が出た次第だ。
今後の方針や指導への影響を考え、親御さんも交えて話し合いを開いたところ、いのりの姉の結束実叶も同じ吸血鬼の先祖返りであることを知らされた。母方の遠い先祖に一人だけいるらしい。
姉で耐性もあり、対処法も知っていたからか大きな問題は発生しなかった。
だが、一つだけ大きく変ったことがある。
折に触れ、いのりが司の血を口にしたがるようになったのだ。専門機関の人間やいのりの母とも相談の上、何ら問題なし、それどころか体にあった血液を摂取することで健康に大きく寄与し、無闇に本能を抑制するよりも人らしい生活を送れるとも言われてしまった。
幸い、あわい生まれで吸血鬼の選手が他者の血液を摂取することはドーピング規定に抵触することは無い。他の種族も人とは異なる飲食物を摂取する必要が間々ある。それらは彼ら彼女らにとって生きるために必須な要素であり、飛躍的に身体能力が向上する訳ではないからだ。
家族以外で相性のいい血液の持ち主を見つけることは稀なこと、家族以外の血液を定期的に摂取する方が吸血衝動を抑えられること、などなど。他にもメリットはあるらしいが、スケートを続けていく上で重要なのはこの二つだろう。
本人・保護者・コーチ陣の相談の結果、定期的に司がいのりに血液を供給することで話がまとまった。
そう決まってから司は念には念を入れ、献血の規定を参考にし、元々お世話になることがほとんどなかった薬を全く服用しなくなった。おざなりだった食生活にもテコ入れが入り、鉄分を多く含む食材を積極的に摂るようになって今に至る。
「先生はどっちでもいいんだけど、なんで腕から直接?今まで普通にあげてたよね?」
「直接もらう方が美味しい気がしたので!」
なんの含みもない、単純に美味しいご飯を求めるのと同じキラキラと期待に満ちた瞳だ。
教え子を疑う事など夢にも思わない司の胸中とは裏腹に、いのりは出来る事なら司の血を直接貰える機会を前々から密かに狙っていた。
司先生にばかり負担をかけるのは申し訳ないと気を遣った両親、特にお母さんの勧めで他の人の血も飲んではみたものの、どれも美味しくなかった。家族の血も不味いわけではないけれど、先生の血には到底敵わない。
お父さんやお母さん、お姉ちゃんの血が普通のペットボトルの水なら、司先生の血はホテルで飲むようなお高い味がする果物のジュースみたいで、他の人の血は独特の臭いがする都会の水道水みたいな味だ。
先生の血は誰が口にしても絶対に「美味しい!」と目を輝かせ、もう一杯二杯と何杯も飲みたくなってしまうような、飽きが来ない病みつきになる味をしている。
採血してからだいぶ時間が経っているパック詰めされたものでもそれくらいの美味しさだ。
(絶対、直接噛ませてもらった方が美味しい)
お姉ちゃんもそう言ってた。
普段、誰から貰っているのか教えてもらったことが無いから分からないけど、人から直接血を吸ったことがあるお姉ちゃんが全然違うって言ってたし。
その時の美味しさを語る姉の表情はどこか恍惚として恋する乙女と言っていいほど可愛かった。
何でもできて美人で優しいお姉ちゃんがあんなに夢中になるくらいなら、普段吸っているパックじゃない、直接その肌に牙を立てて吸い上げた血はどんなに美味しいか。
いのりだって欲しくなってしまう。
そんないのりの言葉を額面通りに、真正面から受けた司は物凄く悩んでいた。
普段から食事管理を頑張っているGOE+5のとっても偉い教え子が心から欲している好きな物を存分に味わってほしいという思いと、はたして自分なんかのスケートがいのりさんの金メダルに釣り合うご褒美になるのかという二つの複雑な思いがせめぎ合っていた。
普段の練習から自分のスケートを見せていることも踏まえたひっそりとした脳内協議の結果、前者に軍配が上がった。
「手首からならいいよ」
「やったー‼約束しましたからね!絶対金メダル獲ります!次に金メダル獲った時は曲付きでSPもFSも踊ってもらえるように頑張ります!」
長年一緒にいるせいか、いのりはコーチによく似た少々オーバーともいえるリアクションをするようになった。そんな彼女も司と同じように、もう一人のコーチである高峰瞳に軽く窘められてしまった。
(本当にいいのかな)
かなり喜んでいる教え子の姿を見るのは嬉しいのだが、どこか理性的な部分が司を苛んだ。直接血をあげてもいいのかどうか。自分的には問題ないとは思うのだが、それは人の価値観だからだ。
あわい生まれはそれぞれの先祖の血ゆえか、人とは違う独特な価値観を持っている。雪女の血を引く高峰瞳も本能がそうさせるのか、司や洸平とは大きく異なった特殊な恋愛観や情の深さを持っている。妻と娘至上主義で二人を溺愛する恩師はそうした違いも全肯定なためあまり参考にならない。
(頼りになる先輩に聞くしかない)
スマホのスケジュール帳に記された予定を見て、頼れる大人を一人、思い当たった。
「あわい生まれの子の指導で気を付けること、ですか」
「はい。最近、吸血鬼の血が覚醒したんですけど、どの研修に行っても資料を調べても全然出てこなくって。もうどうしたらいいのか分からないしで。いのりさんの自己申告も大変ありがたいんですけど、世間一般の常識とあわい生まれの人って常識が違うと聞きますから、全てを鵜吞みにするわけにもいかなくて」
司が半泣きになりなって相談する相手は名港ウィンドFSCのヘッドコーチで、時々夜のスケートに誘ってくれる頼れる大人代表の鴗鳥慎一郎だ。
「ある程度成長してから覚醒したということは、結束選手は『先祖返り』なんですね」
「はい。吸血鬼のこともそうなんですが、何より『先祖返り』の人のデータがあまりにも少なく。どうしたら正しい対応が出来るかと、瞳先生や洸平先生とも一緒に探しているんですが両方とも数が少なすぎて今のところ手掛かりがないんです。匠先生にも相談はしてるんですけど」
なんの進展もないんです。リンクに乗っているというのに常の明るさが鳴りを潜め、背景の効果音にしゅん、と付きそうなくらい気落ちしている。
後輩であり息子の恩人でもある司になんとか力になれないかと、慎一郎も一緒になって頭を悩ませた。なにせ『先祖返り』である。
あわい生まれの人間の中でも時折、純血だった先祖と同等の力を持つ者が生まれてくることがある。不思議なことにそうした者たちは皆ある程度長じてから、ほとんどは第二次性徴を終えた頃に突如としてその血が覚醒するのだ。一説によると、大きな力をコントロールするには成熟した精神が必要だからと言われているが、ハッキリとした理由は不明である。
「なんとかお力になりたいんですが、生憎、先祖返りの生徒の指導経験は無く………申し訳ありません」
いつものように深々と頭を下げられてしまい、相談を持ち掛けた司が大慌てで止めにかかった。
「うわああああ‼そんな、やめてください!相談にのっていただけただけで本当に助かってますから!」
三十路も過ぎたというのに、相変わらずの司に慎一郎も苦笑する。
「なんでまだ話してるの」
「うるさくしてすみません」
一人悠々とリンクで滑走していたもう一人の参加者が隅で話す二人に痺れを切らしたのか、いつもより低めの声で咎めてきた。
「明浦路先生、純くんなら私より知っていることが多いですよ。彼も同じなので」
何事かひらめいたように、慎一郎の明るい声が静かなリンクに響いた。
「え、夜鷹さんがですか?」
「はい。先祖返りではありませんが、結束選手と同じなので」
「え⁉」
一際大きくよく通る司の声がリンク中に木霊する。それが余程うるさかったのか、夜鷹の眉間にいつもより深い皺が刻まれた。
「うるさい」
言葉より早く手が出たせいで、司の顔の下半分が鷲掴みにされ、ほどなくして声量はゼロになる。
「ひうかにふうので、はあひてくあさい」
活舌が悪くなっている中で抗議した結果、なんとか開放してもらうことに成功する。が、依然として夜鷹はご機嫌斜めなようだった。
「夜鷹さん吸血鬼だったんですね」
(似合う~。言われればめちゃくちゃそれっぽい)
明後日に飛んだ思考が脳内を占めているのがバレたのか、三割増しで鋭い視線が突き刺さる。
「いいから早く滑りなよ」
「あ、そうですね。時間がもったいなかったです。鴗鳥先生もご迷惑をおかけしました」
「いいえ、とんでもないです。こちらこそお力になれず申し訳ない」
「いえ、そんな!話を聞いていただけただけでも心強かったです。ほんとに助かりました」
深々と礼をした後に司もリンクの奥へと滑り出していく。いくらか心は軽くなったが、吸血鬼の性質を持つ教え子への疑問は解消しない。
(終わったらちょっとだけ聞いてみよう)
まさか夜鷹も吸血鬼の血を引いているとは思わなかった。脳内の夜鷹純ウィキペディアを更新する。
(でも、やっぱり凄い似合うなぁ)
月のない夜がそのまま人の形をしたような綺麗な人が吸血鬼の血を引いているというのは大変似つかわしい。
ひょんなところから繋がった縁でお会いすることや言葉を交わす機会も増えたおかげで知ったことなのだが、生活習慣も完全な夜型のようで、やはり元々の体質も大いに関係しているんだろうなと思ってみた。
脳が忙しなく回転している司を横目に見やり、当の本人は今日も優雅に業を磨き続けている。
「今日も参加させていただきありがとうございました!とっても楽しかったですし、大変勉強になりました」
「いえ、こちらこそとても楽しかったです。またお声がけさせてください」
別れの挨拶をしあう二人を尻目に、夜鷹は早々に身支度を済ませ迎えを待っているようだった。
家族が待つ家に帰るため、手早く片付けを済ませた慎一郎は二人を残して先に家路についた。
夜鷹と二人きりで残される司を心配していたが、その気持ちだけ有難くいただいた当の本人に促され、チラチラ振り返りながらリンクを後にした。
(途中まで走って帰ろっかなー)
終電はとうに無くなり、朝に近しいこの微妙な時間帯。数駅分ランニングがてら帰れば、途中どこかの駅で始発に乗れるだろう。
クールダウンにちょうどいいと言わんばかりに、屈伸やアキレス腱伸ばしと、色々準備運動をしている司に天から声が降ってきた。
「ねぇ」
「なんですか?」
不意に夜鷹から呼ばわれた司は驚いて裏返った声で返事をしてしまった。
「君の教え子、そのうちもっと力が強くなるよ」
聞き捨てならない話だ。
慣れたとはいえ、司の人生を大きく変えた張本人と二人きりの緊張感は途轍もない。が、何よりも大事な教え子である結束いのりが関係することなら、いとも簡単に緊張を抑えられるのが明浦路司という人間だった。
「それ、本当ですか?」
「わざわざ嘘をつく理由がない」
手持ち無沙汰だったのか、煙草を喫し始めた夜鷹は一度煙を深く吸い込んで吐き出してから話を再開する。
「先祖返りなら吸血衝動も目の力もこれからもっと強くなってくる」
「目の力?」
いのりの担当医からも家族からも聞いていない不穏な単語を鸚鵡返しに呟いた。
なにも知らない司に呆れたのか、小さく溜息を吐いた夜鷹が言葉を継ぐ。
「吸血鬼の血を引く人間は目に魅了の力を宿してる。個人差はあるけどね」
「は~そうなんですね」
(初めて聞いた。今度いのりさんやいのりさんのお母さんにもお聞きしよう)
「普通の人間らしく生きるなら自分に合った血を定期的に摂った方がいい」
摂りすぎもまずいけど。と小さく付け足された言葉は司の耳に入る前に空中に消えてしまう。
言葉も表情も乏しい夜鷹ではあるが、優しさの出力が不器用なだけで悪い人ではないのを司も知っていた。だから、本当なのだろう。
「じゃあ、今から直接血をあげるのに慣れた方がいいか」
小さな小さな独白だったのに、深夜、自分のホームグラウンドのスケートリンク、煌々と夜空を照らす満月と夜鷹にとって好条件が重なった結果、その耳は司の独白全てを正確に捉えてしまった。
「は?」
いきなり誰がどう見ても不機嫌だと分かるほど険悪な空気を纏った夜鷹に司も顔色を悪くした。
運動直後でほんのりと赤くなっていた頬から一瞬でサッと血の気が引く。
「ど、どうかしましたか?」
原因が分からず、大きな体全体を縮こまらせてオロオロうろたえ始める。そんな司の狼狽を無視して夜鷹は重々しく口を開いた。
「それどういう事?」
「なにがですか?」
気に入らない返しにさらに怒りが大きくなり、こめかみにうっすら血管が浮き出ている。
「直接血をあげるって」
「なんだ、そんな事ですか。びっくりさせないでくださいよ」
不機嫌の理由が判明し胸を撫でおろした。
「元々俺の血がいのりさんと相性が良くて定期的にあげていたんです。といっても、専門機関で採血したものをあげてるんですけど、この間直接血を吸いたいって言われまして」
そうして話しているうちにも夜鷹の不機嫌はどんどん加速する一方だ。教え子の事に集中している司はそれに気が付かず、現在の悩みを言葉に紡いで思考を整理し始めている。
「いつも食事管理をとっても頑張ってますし、俺なんかの血で喜んでくれるならいいかと思って。次の大会で一位を獲ったらあげるって約束したんです」
一瞬どこまで話していいのか迷ったが、無暗矢鱈に口外する人ではないし、万が一話すとしても鴗鳥先生ご夫婦だけだろうから大丈夫。
出会ったばかりの緊張感は大分薄れたおかげなのか。間違っても口には出さないが憧れの人に対してそれなりに失礼なことを司も腹の裡で考えるようになっていた。
そんな司がもつ常識を軽々と超えてくるのが、目の前の夜鷹純という男だった。
「なら僕にもちょうだい」
「え?」
「あの子どもにもあげてるんだからいいでしょ?」
「なにが⁉」
(いきなり何言い出すんだこの人⁉)
「俺がいのりさんに血をあげているのは専門のお医者さんやご家族の同意の下にあげてるんです!相性がいい血を見つけるのは難しいし、血の繋がった家族よりも効果が高いから、非血縁者で身近な俺に白羽の矢が立ったんです!」
血液をあげるようになった経緯を洗いざらい話してしまうが、相手はそれで納得する性格ではなかった。
「相性が良いかどうかなんて一滴でも舐めたら分かる。だからちょうだい」
「今の話を聞いてだからになる意味が分かりません!無理です!駄目です!絶対嫌です!俺の血が原因で夜鷹さんが体調崩しでもしたら死んでも死にきれない」
突拍子もない夜鷹の提案を即座に却下して後退りする司だが、ジリジリと距離を詰めてくる夜鷹の迫力に気を取られ、足元にある段差に引っ掛かってしまった。
「あだっ‼」
手を着いた場所が悪かったのか、落ちていた枯れ枝に全体重をかけたせいで派手に擦り剥き、掌底には所々小さな棘が刺さっていた。
「いってぇ」
小さな街灯が唯一の光源となっている暗闇の中、照らされた手のひらにはぷくぷくと赤い血が玉のように浮き上がってきた。怪我は認識するとさらに痛みが増すのか、傷口の痛みがどんどん大きくなり始めた。
「ちょっとコンビニかドラッグストアに寄ってから帰りますね。今日はありがとうございました」
咄嗟のハプニングに紛れて、さっきの提案を聞かなかったことにしたい司は言い捨てるように、いつもの倍以上の早さで別れを告げる。
しかし、大変残念なことにその逃亡作戦は失敗した。
「待って」
逃げようとした司の腕をがっしりと掴んだ夜鷹は、おもむろに自分の目線より高い位置にある琥珀色の瞳をジッと見つめた。結構な力で引き留められた理由も分からず、司は疑問符を浮かべたまま視線を逸らさなかった。
(どうしたんだろ?知らないうちに何かやらかしてたとか?具合は悪くなさそうだし)
キョトンとしたままの司の何が気に喰わなかったのか、盛大な舌打ちが未明の闇に響く。
「だ、大丈夫ですか?」
ついさっき血をくれと言われたことをすっかり忘れてしまったお人好しは、俯いた夜鷹の顔を横から覗き込むように首を傾けた。
つまり、完全に油断していたのだ。
思い出した時には既に司の手のひらを熱く湿った何かが這っていた。
「あーーーーーーー‼汚いですって!ほらこれにペッてしてください!口も早く漱すすいで!」
自分の怪我を余所に、急に黙り込んだ夜鷹を心配した司の虚を突き、当の本人は達成感に浸っているのか反応が無い。
痛々しく血が滲んでいる司の手のひらを薄い舌で一息に舐めあげた。夜鷹の腕から逃げようと暴れる体の持ち主のせいで次々と血が浮かび上がってくるのが、かえって好都合だ。
「美味しい」
「なにが美味しいですか!人の血液ですよ!砂利とかゴミも混じってて汚いんですから今すぐ吐いてください!ほら、ティッシュ!」
自分の荷物を漁り、ポケットティッシュを差し出した。何枚か抜き取り、口元を拭おうとしても頑なに開かない。
「痛いからやめて」
「やめてじゃないでしょ!ばっちいんですから吐いて!」
顔色を悪くして、夜なのに大層騒がしい司を見る夜鷹の瞳は僅かに赤味がかっていた。街灯しか灯りの無い暗闇では見えないほど些細な変化に、普通の人間の司が気づける筈もなかった。
「ねぇ。相性が良いって分かったんだから、これから僕にも君の血をちょうだい」
口を拭わせるのを諦めた司は、未開封のミネラルウォーターを夜鷹に差し出したまま固まった。
「駄目です。ちゃんと専門機関に行って然るべき検査を行って、問題無い事が証明されたら検討します」
梃子でも意思を曲げぬ頑固な司に、元からそんなに気が長くない夜鷹の我慢は限界だった。
「吸血鬼なんて享楽主義のくせに、ほぼ全員が秘密主義者ばかりだから、機関に行ったところで得るものなんてないよ。本人が問題ないって言ってるんだからそれが最優先でしょ」
苛立ちを隠そうともしない刺々しい声が大気を震わせた。
「ぐうっ」
(確かに、お医者さんもそう言ってたけどさ!)
いのりの主治医曰く、あわい生まれの中でも吸血鬼の血を引く者に関する情報は特に少ない。
その大きな理由として、彼らの強固な結束にある。
古来から現代に至るまで、日本の吸血鬼は一族の結びつきが他の種族に比べて異様なまでに強いのだ。
独自のコミュニティを形成し、他者、特に普通の人間からの介入を嫌っている。加えて、どうも同じあわい生まれや同族同士で婚姻を結ぶ事が多く、他の種族より妖(あやかし)の血が濃い状態で現代まで残っているのだそう。
また、男女問わず他者の血を啜るという忌避されがちな特性から、自身が吸血鬼であると公表して表舞台に立つ者は皆無と言っても過言ではない。
あわい生まれの中で、最も閉鎖的な一族なのだ。
そのせいで子が二人揃って吸血鬼の先祖返りである結束家は情報の少なさに大変困らされていたりもする。
純粋な人間である司にあわい生まれの考えることはサッパリ分からぬ。こう常識を説くように堂々と意見を述べられると、反論する術が無い。
「夜鷹さんは食事管理も徹底してるって伺いました。俺じゃなくてもっと良い血を貰うべきです」
自分の血液があの夜鷹純の口に入るなんぞ、解釈違いも甚だしい。絶対に嫌だ。
長年拗らせた複雑なファン心理も手伝って、断固拒否の構えをとった司だが、幸運の星の下に生まれた夜鷹はそんな彼の考えをを簡単にひっくり返す交渉材料カードを持っていた。
「君の教え子の性質について正しい情報をあげる」
教え子至上主義のこの男なら確実に食いついてくるだろう、とっておきの切り札を切った。
正直、気に掛けるほどの事でもないが、あの子どもに不調があれば目の前の男どころか、やたらと高く評価している自分の教え子にも影響が出るだろう。それを防ぐためにも必要なことだ。でも、わざわざこっちの事情を教えてやる義理もないので交渉材料として使わせてもらう。
「先祖返りならこれからもっとその血のせいで苦労する。でも、一般の機関に僕らに関する情報はほとんど無い。君が僕に血をくれるなら、正しい情報を教える」
どう?と断られるとは欠片も思っていないひどく傲慢で一方的な取引だった。
それでも悩み応えあぐねて口を開けたり閉じたりしている様子を見て、ダメ押しにもう一つ条件を提示してやった。
「吸血鬼の本能との上手い付き合い方を教える。現役の時どうやって対処してきたか、とか」
「本当ですか?」
夜鷹の提案は司が今最も必要としているものだった。
急に降って湧いた大きな体質の変化に一番困っているのは、いのりさん本人だ。血との付き合い方を、しかも、同じ道の先達から直接教えてもらえるなんて願ってもない。
(正しい情報がこれから絶対に必要になってくる)
わざわざ自分から現役の頃、と、普段なら絶対に口にしない事を引き合いに出してまで交渉するなんて。
司が知る中で誰より美しいスケートをして、自身のそれに絶対的な自信と矜持をもつ夜鷹が言うなら、決して偽りではないのだろう。
司の推測を裏付けるようにいつもと同じ大きさの声の中に、確信めいたものを覗かせて夜鷹は言葉を紡ぐ。
「誓ってもいい」
「分かりました。俺の血なんかでよければ。貧血にならない程度にしてもらえればお好きにどうぞ」
「言ったね」
目論見通りだった。
教え子のためなら我が身を犠牲にすることを厭わないどころか、それを犠牲だとも思っていないこの男なら、絶対にこの提案をのむと分かっていた。
(でも、どうしてだか腹立たしいな)
夜鷹の胸に煙草の煙より黒く苦い何かが広がった。それを振り払うかのように、掴んでいた司の手をもう一度口元に運び、今度はハッキリと口元にある一対の牙をちらつかせた。
「じゃあ、もらうよ」
司が許可を出すより早く夜鷹が動く。
擦り剥いた掌底より先、薄暗い中でも良く見える太くハッキリとした司の手首の血管に、白い毒牙がゆっくりと埋まっていった。
ブツリと皮膚が突き破られた瞬間だけ、火傷のような痛みが走るがそれきりだ。
(もっと痛いのかと思ってた)
献血と同じく、刺し口をまじまじ眺めてしまう司はしばしその不思議な光景を眺めていた。
すっかり手首の肉に沈んだ夜鷹の牙がもたらす痛みはほとんどなく、刺されているこちらが拍子抜けするほどだった。
それでも不思議なもので、痛みはないが己の血液が体外に流れていく感覚は献血や健康診断の採血よりハッキリ伝わってくるのが妙な感じだった。
痛みはないのに、一対の牙を通じて自分の血と熱が直接他人に奪われている。それを冷静に眺めているのも変な気分だ。
満足したのか、手首からゆっくり牙が抜かれた。白く美しい大理石のようなそれが、自分の血で紅く染まり、先端から血を滴らせている。
「んっ!」
流石に抜く時は少々痛むのか、覚悟していなかったせいで声が漏れてしまった。
手首には二つの小さな丸い刺し傷が残るものの、動作になんの支障もない。なんなら、傷口から血が滲むこともなかった。転んで擦り剥いた箇所の方がよほど痛いくらいだ。
「注射とか献血より痛くないんですね」
「……痛かったら吸血鬼の血なんてとっくに絶えてる」
薄い唇に残った司の血を舌先で掬い上げ、顔を上げた夜鷹の両目はいのりが司の血を初めて口にした時と同じように、常の月色から一転して朱色に染まっていた。
「確かに。なんか蚊に血を吸われても気付かないのと同じみたいですね」
今まで純人間の環境に身を置いてきたせいか、あわい生まれの者にとって少々デリカシーに欠ける発言だった。
蚊と同列に扱われた夜鷹は露骨に機嫌を損ねた。せっかく美味しい血を貰って、スケート以外では初めてと言っていいほど高揚した気分が台無しだ。
「君って意外とデリカシーに欠けるよね」
「それ、あなたにだけは言われたくないんですけど」
悪意が無いのに、少ない言葉数で的確に相手の心を抉る名人にそんなことを言われるのは心外だ。
呆れてついそんなことを口にしてしまったのだが、言われた本人は納得していないのか、不服そうに眉間に皺を寄せていた。すっかり元の色に戻った両目で司を軽く睨みつける。
「普通人と虫を一緒にしない」
「痛みもなく血を吸うという点では変わりないのでは?献血する時より痛くないのには流石にびっくりしましたけど」
全く応えた様子のない司に認識を訂正させることを諦めたのか、一度深くため息を吐いた夜鷹はそれ以上何か言うことは無かった。
「これから定期的に貰うから」
「分かりました。よろしくお願いします!」
教え子の事しか考えていない能天気なお人好し。
無駄に元気な返事をする目の前の男は、この約束が吸血鬼の血を引く人間にとってどういう意味を持つのかなんて考えもしないのだろう。
「そんなに痛くないことが分かったので、いのりさんにあげる時も手首からで全然大丈夫ですね」
注射針より遥かに太さのある牙を使って直接吸うのだから、それよりずっと痛みを伴うものだと想像していたが、幸運にも、司の仮説は見事に外れた。今後いのりが望んだだけあげられることを思うと嬉しくなる。
少しでも痛みに耐える素振りを見せたりしたら、優しくて人の機微や痛みに敏い彼女は例え不調が出ても司の血を飲まないようにしてしまうだろう。
「その痕、少なくとも一週間は消えないから。それが消えるより前にもう一度もらう。あと、これ登録しておいて」
ポンと司の手に乗せられたのは、ほんの少し前に見た時とは違う、最新式モデルのスマートフォンだった。
(また壊したのか)
夜鷹の破壊癖の矛先が向かいやすい彼のスマホは驚くほどのスピードで変わる。司の知る限り、最短記録は一週間だった。不運にも、偶然その破壊現場に居合わせてしまった司はご臨終されたスマホに手を合わせたことがある。
今回手渡されたそれも画面には既に盛大なヒビが入っていた。保護フィルムが張ってあるから辛うじて機能しているような状態だった。
「また投げたんですか」
「君には関係ない」
「まぁ、そうですけど。でもこれ危ないですよ。破片でも刺さったらどうするんですか」
薄い保護フィルムで首の皮一枚繋がっているような画面だ。こんなものを持ち歩いていたら、いつ指や手に破片が刺さってもおかしくない。
「まだ動くからいい」
買えないということはありえないので、単に携帯ショップに行ったり、手続きをしたりするのが面倒なのだろう。
勿体ない精神の持ち主である司も方向性は異なるが、ボロボロになった物を長く使っている自覚はあったので、それ以上言えることは無かった。
怪我していない方の手のひらに乗せられた端末を粛々と操作して自分の番号を登録する。
(夜鷹純の携帯に俺の連絡先があるなんて解釈違いだ)
何ともないはずの胃が痛んだような気がしたが、逆らえるほどの気概もなく、黙って指示通りに動き、端末を持ち主に返却した。
「じゃあね」
登録されたデータを確認し、満足したのかいつの間にか迎えに来ていた黒塗りの高級車に乗り込んだ夜鷹は司の前から悠々と去っていった。
「俺も帰ろ」
時間にしてほんの数十分程度なのに恐ろしいほど精神が疲弊した気がする。
(ともかく、正しい情報源は確保できた!これで少しはちゃんとした対応が出来るぞ!)
何より大切な教え子のための貴重な情報源を確保できたことにばかりに司は気を取られていた。
問題解決の糸口を手に入れ浮かれてしまった代償に、夜鷹が別れ際に告げた一言を綺麗さっぱり脳内から消し去ってしまったのだった。
未だ星々が煌々と輝く未明の空、東の方角がほんのり藍色に染まり始めた中に一人取り残された司もようやく家路についた。
司の手首にくっきりと残った二つの牙の痕を、冷たい風が撫でていった。
(いのりさん、今日もとっても調子が良くて教えてるこっちがビックリするくらいだ)
約束通り、先日の名港杯で見事表彰台の頂点に輝き、司の血を直接口にしたいのりは、それはもう、誰が見ても分かるくらいにすこぶる調子が良かった。
本人も自覚しているのか、ちょっとしたステップの練習が周囲の人の目を惹きつけてしまうほどキラキラしている。
氷の上に居る時は集中して、余計な事を考える暇など無いのだが、レッスンも終わりストレッチをしているとどうしても先日の出来事がいのりの脳内に鮮やかに蘇る。
(直接貰った先生の血があんなに美味しいと思わなかった)
あんなに美味しい血を知ってしまったら、もう他のものや施設で採血したパックの血液では我慢できない。
この世界のありとあらゆる美味しいものの良いところだけを集めたら、あんな味になるのだろう。それくらい最高に美味しかった。
これまでの美味しいご飯と比べ物にならなかった。お母さんが作ってくれるご飯も美味しくて大好きだけど、もしかしたらそれ以上かもしれない。
人知れず自分の肥えてしまった舌に葛藤しながら、練習終わりの大切なストレッチを黙々と熟すいのりをコーチは温かい目で見守っていた。
手早く自身もストレッチを行い、次のレッスンの準備を進めていると後ろから遠慮がちな声がかかった。
「司先生、ちょっといいでしょうか?」
「はい。どうかしましたか?」
リンク受付の瀬古間が非常に申し訳なさそうに、少しばかり顔色を悪くして司に声をかけてきた。
「レッスンが終わったばかりの時にすみません」
「いえ、そんな!気にしないでください。それでどうされたんですか?」
「司先生にお客様がいらっしゃってまして」
「俺に?誰だろう?」
記憶や携帯のスケジュールアプリをさらってみても、この時間、リンクで約束した相手などいない。しかし、こうして直接リンクに来ているのだから俺の知っている相手なのかもしれない。
「騒ぎにならないよう瞳先生から許可を貰って奥にご案内しました」
「お手数おかけしてすみません。というか、騒ぎになるって誰が来てるんですか?」
瀬古間の歩調に合わせながらリンクからゆっくりその人物が案内された別室に向かっていくと、六月も半ばを過ぎたはずなのに廊下が異様に肌寒い。客人の名前を聞く前に二人ともそちらに意識が逸れてしまった。
「うわ、さむっ!」
平熱が高く代謝のいい司でさえ寒いのだから、一緒にいる老齢の瀬古間は言わずもがな。すぐさま薄手の上着の袷を閉じていた。
(この寒さ、瞳先生なんか怒ってる?)
司が心当たりを探そうと頭を捻るが、ここ最近怒られるようなことはしていない。怒りの原因はどうも急な来訪者にあるようだった。
「たとえあなたでも、うちの司くんを傷つけようものなら絶対許しませんので。そうなった場合父も巻き込んで厳正に対応させていただきます」
いつも明るく、時には冷静に司や同僚の洸平の手綱を握るルクス東山FSCヘッドコーチの恐ろしく低い声だ。
(なになになに、本当に誰?)
現役時代やアシスタントコーチになりたての頃、しばしば洒落にならない言動をしてしまった時に出てきたこの寒さ。冬のそれとは異なり、皮膚の内側を直接突きさすような冷気が彼女の感情に呼応して広がるのだが、部屋の外までとなると司も未知の世界のものだった。
「瞳先生どうしたんですか!何がありました?かなり冷えてますよ」
只事ではないと察した司がわざといつも以上に大きめの声をあげて冷たい空気が流れ出ている半開きになった部屋のドアを開けた。
室内には予想通り、ルクス東山FSCヘッドコーチである高峰瞳と予想外の人物の夜鷹純がそこにいた。目の前の瞳の怒気をシレっとした顔のまま真正面から受け止めている。
待ち人が来たことに気付いた二人は入室したばかりの司を思い思いの表情で出迎えた。
夜鷹は秀麗な顔の眉間に深い皺を刻みながら、遅い。と言いたげな呆れた視線をよこした。
一方、問題はこの寒さを生み出している瞳である。
「司くん!」
こめかみに青筋を立て、いつもと何ら変わらぬ顔なのに静かに怒りの炎を燃やしている彼女はやけに迫力があった。
「はいっ‼」
なにか怒られるのかと、反射的に元気よく返事をして身を固くしていた司だったが、お怒りどころか心配の声がかけられた。
「いのりちゃんのために頑張るのは良いことだけど、ちゃんと自分の事も考えて動きなさい」
「はい。すみません!」
心当たりしかない正論は司の心に深く突き刺さる。
「特に、私たちみたいなあわい生まれの人間と軽々しく約束しないこと。とんでもない約束なのに、相手に言質を取られたら助けるのが難しくなるんだから」
「以後気を付けます!」
弟を叱る姉のように、厳しくも愛のある言葉であった。至極真っ当な内容なので、司も粛々と受け入れるしかなかった。
「話は終わった?」
完全に蚊帳の外だった夜鷹の声に二人は揃って我に返った。常の無表情も相まって、心なしか機嫌が悪そうである。
「お待たせしてすみません。それで、どういったご用件でしょうか?」
(ヤバい。完全に忘れてた)
この場に司が呼ばれた原因たる夜鷹の存在が意識からすっぽり抜け落ちてしまっていた。慌てて空いていた正面の椅子に座り、肝心の用件を尋ねる。
「なんで電話に出ないの」
「電話?」
何のことか分からない司が首を傾げると、正面から舌打ちが返って来た。
「二週間前からずっと連絡してるのに、無視してる」
「……二週間前」
夜鷹からの連絡に覚えはなかったが、今言われた時期から司の携帯に番号非通知の相手から電話が架かってくるようになったのだ。しかも、時間帯など関係なく引切り無しに。そろそろ本格的に鬱陶しくなってきたので、非通知の番号からの着信を拒否しようかと思っていた頃だった。
「もしかして、昨日夜中二時過ぎに電話しました?」
嫌な予感がする。いつもより血の気の失せた顔で司が恐々聞くと、目の前の人物の首が静かに縦に動いた。
電話を架ける時間や番号の非通知設定など、言いたいことは山ほどあるが、一旦全て飲み込んだ。
「結果的に連絡を無視したことは謝ります。今後こうしたことが起こらないように、今から対策をします」
いつも快活な表情を浮かべ、年齢のわりに幼く見える顔をこれでもかと歪めた司は非通知発信がデフォルトになっているだろう夜鷹の携帯の設定を変更すべく、本体を貸してもらった。
(新しいやつがもう画面バキバキになってる)
ほんの少し、約一か月前に見た液晶が大きくひび割れていた本体とは異なる機種だったが、既に先代と同じ状態になっている。ひびが入っている面積が画面の四分の一以下に留まっているのは幸いと言えるだろう。
何故か非通知になっていた通話設定を変更し、自分の携帯にも夜鷹の番号を登録した。もしまた連絡を無視してこちらに直接来られでもしたら、とんでもないくらいの大騒ぎになることが火を見るよりも明らかなのだから。
伝説の金メダリストで、現在進行形で女王の座を結束いのりと争っている狼嵜光のコーチだ。いのりのホームリンクに来ているのが目撃されたら、騒ぎになるに決まっている。
「なんで非通知設定なんかにしたんですか。詐欺とか、なんかの営業電話だと思ってずっと無視してましたよ」
「うるさいから」
あまりにも端的すぎる言葉に当事者の司も同席していた瞳も頭を抱えた。
要するに、誰からも電話が架かってきてほしくないし、誰かに番号を知られたくないというところだろうか。知らない相手から電話が架かってくるストレスは察して余りあるが、対応が極端すぎる。
「携帯電話の存在意義が問われますよ」
力無く肩を落とした司の苦言が聞き入れられることもなく。ほんの少しだけピリピリした空気を収めた夜鷹は、ツーンとそっぽを向いたままで改める気はないようだった。
そのままゆるりと椅子から立ち上がると、おもむろに椅子に座ったままの司の腕を掴み、どこかへ連れて行こうと割と強めの力で引きあげた。
「行くよ」
「どこにですか⁉まだ仕事中なので無理です!」
思いのほか強めの力で引っ張られて、二、三歩たたらを踏みながらどうにか部屋に踏み留まった司に対し、返事代わりの舌打ちが再び返って来た。
「あと二時間で終わるのでそれまで待っていただけるなら、どこへでも一緒に行きます!」
「司くん!」
(今さっきあれほど不用意に言質を与えるなって警告したばっかりなのに!)
それをあっさり破ってしまう手のかかる後輩に声を荒げる事など滅多にない瞳も思わず悲鳴のように、咎めるように叫んだ。
「分かった。それならいい」
司の妥協案が無事に採用され事無きを得た。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、多分に苛立ちと怒りを含んだ低い声がその場に響く。
「待ってるから逃げないでね」
鋭い三日月のような眼光が司を射抜く。
「はい」
標本に用いられる針と同等かそれ以上に司の心にぶすりと突き刺さる。
獲物を前にした猛禽類の威圧に只人が逆らうなど出来るはずもなく。生まれたてのひよこ並みにぷるるぷる震えながら司は頷いた。
その様子に満足したのか、夜鷹はぎっちりと握っていた司の腕を放し、部屋から出ていった。
「は~ビックリした~」
「ビックリしたのはこっちよ!どんな約束してるの!」
一気に脱力して行儀悪く机に突っ伏す司の背を割と強めの力で瞳は数度叩いた。
「仕方ないじゃないですか。正しい情報もなしにこれから進むわけにいかないですし、ちょっと俺が血を分けるくらいで正確な情報がいのりさんと同じ吸血鬼の人から教えてもらえるなら良い取引だなと思ったんですよ」
「たしかに、あわい生まれの中でも吸血鬼はちょっと特殊だけど、だからって司くんが身を削る必要はないの」
「そんな削ってないですって」
心配性だな~。と突如襲来した大嵐が去って、ほけほけ暢気に笑うこの男を本当にどうしてくれようか。
「生徒にも関わってくる事なんだから、次からはちゃんと相談しなさい。上司命令です」
「分かりました!」
(本当に分かってるの?)
いつも通り大変元気のあるお手本のような返事が返って来るものの、心配でたまらない。あわい生まれ特有の、好きな物への一際面倒な執着心を舐めている。
他人を使うなり、誰かに、それこそ彼の友人の鴗鳥先生経由で連絡すればいいものを。わざわざ自分で司がいるリンクに直接足を運んでくるほどだ。
自覚こそ無いようだったが、ほとんど手遅れと言ってもいい。同じくあわい生まれの瞳には何となく分かる。
今なお、色褪せることなく多くの人の記憶に残る演技をしたあの全身黒づくめの男が、大切な後輩に向ける感情にハッキリと名前をつける日はそう遠くはないと思っている。
「司くん、あの人に言い聞かせておいてね。騒ぎになるからやめてって」
「俺が言って聞いてくれますかね」
「聞かせるのよ」
「はい」
窓の外から覗く夕暮れ色の空に司の頼りなさげな背中が映った。
本日の勤務が終わってしまった司を待ち受けていたのは、入り口に佇む全身真っ黒の職質間違いなしの怪しさを持った男だった。藍色の空に溶けて消えてしまう、車の運転する身としては絶対に遭遇したくない服装の人間だ。
「お待たせしました」
速攻で後片付けなども終わらせて最速であがってきたおかげで、ただでさえ汗っかきなのに尋常じゃないほど全身から汗が噴き出していた。
タオルで乱雑に拭っているとそのまま空いていた手を引かれた。
「行くよ」
先ほどと全く同じ言葉で慣れ親しんだリンクから連れ出され、そのまま黒塗りの高級車に乗り込んだ。
「それでどこに行くんですか?」
既に加護家には連絡済みなので遅くなっても問題はないのだが、行き先が分からないのは流石に不安だ。
おずおずと夜鷹に聞くと、僅か一言、ごく短い返答があったが、無視よりましだろう。
「料亭」
「もしかして、もっと人間らしい食生活を送る気になったんですか?」
以前、本人と鴗鳥先生から伺ったとんでもない食生活の事が脳裏に鮮やかに蘇る。本当にスケートに特化した生活をしていた。食生活について自分も問題があるため、あまり強く言えないが、改善の兆しが見えたのは良いことだ。
「食べるのは君だけだよ」
既に目的地に向かっている車のエンジン音が静かな車内に響く。
「いや、本格的に意味が分からないんですけど!ちゃんと説明してくれます⁉」
司の悲痛な訴えも空しく、見るからに敷居が高い料亭の一室に通されるまで、夜鷹から連れてこられた詳しい話を聞けることは無かった。
「そんなことになってるの」
若干呆れが入っているが明らかに心配の色が勝っている声をあげつつ、肩を落としている司に瞳は同情した。
「別に血をあげるのはいいんです。そういう約束でしたし。でも、なんで毎回毎回お高そうなお店に連れて行かれるのか分からないんです。一緒に行っても、俺一人分の料理しか出されなくて。マナーに気をつけながらちょっとずつ食べてるところを無言でジッと見てるだけで、夜鷹さん一切手を付けませんし。メチャクチャ緊張して美味しいはずの料理が全然味しないんですよ」
いつもはしゃんと伸びている背筋も今は余程しんどいのか、途中で力無くだらんと曲がっていた。
「それで、前回までは和食で今度は洋食?」
「星が付いてそうなフランス料理のレストランでした」
遂には顔を覆ってしまった司の手首の内側には真新しい牙の痕がくっきりと残っている。
二人の視線の先に気が付いたのか、女性が腕時計の文字盤を見る仕草で手首に残った痕を見ながら司はぼやく。
「味のチェックをするみたいにちまちま吸われる。でも、なんにも言われないから逆に怖い」
人の血吸ってんだから、何でも良いから感想くらい言えよな~と、行儀悪く机に突っ伏したまま呟いた。
本人に自覚があるのかはさておき、普段生徒たちの前では決してしない、正しく先輩二人に甘える後輩の姿をしていた。
そんな司の姿に先輩二人は揃って顔を見合わせる。
対人スキルやコミュニケーション能力が抜群に高く、天性の人誑しとも言える後輩がここまで一個人の対応に苦悩しているのは珍しい。
基本的に他人を不愉快にしない距離の取り方と、自分の内側に立ち入らせない無意識の線引きを絶妙な加減で引く後輩も憧れの人を前にしたらこうなるのだろうか。
「まぁ、そのうち夜鷹さんの奇行も納まるんじゃない?」
「それまでの辛抱か~」
項垂れてしょんぼりしている司を慰めるように、洸平はその肩を叩いて励ました。その言葉に釣られて机から顔を上げた司の顔も少しだけ明るくなっている。
だが、一般的な感性の持ち主である二人にこの場で唯一人外の血を引く瞳が待ったをかけた。
「二人とも甘い!」
同僚の予測をピシャリと遮る瞳に司も洸平も面食らってしまう。そんな二人に構わず、肩を竦めて先を続けた。
「終わる訳ないでしょ。それどころかエスカレートするに決まってるじゃない」
いまいち事態が飲み込めていない二人にも分かるように簡単な説明を始めた。
「二人とも、小さい子どもがどうしても欲しくて仕方なかった玩具がプレゼントされたらどうすると思う?」
なんの脈絡もない唐突過ぎる話題に首を傾げながらも、司と洸平は思ったままに答えた。
「凄い喜んで飽きるまで離さないと思う。俺だったら宝物にして寝る時も布団まで持って行ったかも」
「司くんらしいなぁ。新潟の教え子にもいたけど、いろんな人に宝物見せに行くかもね。俺も何回か見せてもらったことあったし」
地元でコーチをしていた頃を思い出す。綺麗なセミやヘビの抜け殻、理想的な形の木の棒など、やんちゃ盛りの教え子たちが洸平には懐かしい。
「洸平くんだったらどうする?」
「間違って壊したり無くしたりしたら嫌だから部屋の宝箱にしまっておくかも。部屋から持っていきたいけど、万が一があったら嫌だしね。珠那とか仲の良い友達が家に来た時自慢するかも」
「洸平くんっぽい!」
それぞれの幼少期に思いを馳せ、きゃいきゃいと歓談する二人に瞳も数度大きく頷いた。この男たちに共通認識を持たせることができそうで安心したのだ。
「あわい生まれが特定の人に向ける執着ってそれを百倍くらいに濃縮したものだから」
昔話に花を咲かせていた二人が瞳の言葉で一瞬ポカンとしたものの、揃って訳が分からないと言いたげな表情を浮かべた後にほぼ同時に吹き出した。
「そんなまさか。いい年した大人が?」
「そんな子どもみたいなことをあの夜鷹純がするわけないって。たしかに物によく当たるけど、中身は大人だよ」
完全に冗談として真面目に受け取らない、あわい生まれに対する危機感が欠片もない二人に、瞳はその恐ろしさを強制的に理解させられる一言を放つ。
「私がお父さんを捻じ伏せて結婚できたのがその証拠よ」
ほんの一秒前まで笑い合っていた司と洸平がピタリと静まる。あの娘バカな師でもどうすることも出来なかったという一点だけでなによりも説得力がある。
師の親バカの犠牲者二人は神妙な面持ちになった。神妙に聞く姿勢になった二人に瞳は続ける。
「吸血鬼の事は正直私もよく分からないけど、あわい生まれの人間には普通の人が理解できない感情があるのは覚えておいて」
姿勢を正して拝聴していた司も洸平も、分かりました。と現状を受け入れる。
「それで、また明日の夕方呼び出されてるんでしょ?」
「はい。加護さん家に迎えに行くから絶対家にいろと言われました」
「休みのはずなのに休めないね」
社会人である司の貴重な休日は既にだいぶ先まで夜鷹に予定が抑えられていた。
お互いコーチとして公式の場ですれ違うのと、呼び出されて一対一で会うのとでは緊張感がまるで違う。憧れた人に無言で見られながら自分だけお高いフルコースを堪能できるほど司の精神は図太くなかった。連れて行かれる度に確実に精神がすり減っている。
「本当に無理だったら言いなさい。お父さんも巻き込んで何とかするから」
「瞳さんっ!」
頼もしすぎる元パートナー兼上司に感激する司ではあるが、そんなに大変なことにはならないと踏んでいた。
「大丈夫です!約束したことですし、ちょっと血をあげるだけなんで!その過程が色々大変ですけど、今のところ夜鷹さんから教えてもらったことに間違いはないので」
そう。本人が全く手を着けないくせに、色々な高級レストランに連れまわされ、胃を痛めながら出されたもの全て完食した価値はあった。なんならお釣りが出るほどに。
吸血鬼が苦手とするもの、銀やニンニクなどが俗説として非常に有名だが、それらは全く平気らしい。
そんなものより、自分のものを無くしたり、勝手に誰かが使ったりすることの方が精神的にキツいのだとか。
人間や他のあわい生まれの種族より殊更、《自分の所有物》に対して執着心が強く、奪われると精神的に不安定になるのが吸血鬼の大きな特徴だ、と。
その結果、視野狭窄、身体の硬直といった諸症状がフィジカルにも現れるらしい。これは個人差が大きく一概には言えないとのことだったので、今度、折を見ていのりさんと相談しよう。
スケート以外ではミミズに対して並々ならぬ熱量を持つ彼女ならミミズとお姉さんが作ってくれた人形なのかもしれない。
さらに大事なのは、人狼に次いで月の満ち欠けに影響を受ける体質であるということだ。
月が満ちるにつれて気分が高揚し、欠けるにつれて抑鬱的な気分になりやすいのだと。
これを受けて月齢を念頭に置きながらレッスン中のいのりさんを観察してみると、確かに新月や繊月の日には比較的落ち込みやすく、十五夜や満月の日にはテンションが高めの事が多かった。
先祖返りとして覚醒してからどうにも情緒の振れ幅が大きいと感じることが多くなっていた。リンクの上だとそれが更に顕著になっていたから聞けてよかった。
(年齢的に思春期だからなのか、何か他に理由があるのか分からなかったら、これは本当に教えてもらってよかった)
あげた血の量以上のものを貰っているので、高級店に連れまわされる心労もギリギリ許容範囲内だ。
頓珍漢な返答をする司に、先輩二人は交わした視線だけで会話をする。
瞳と洸平が心配しているのはそこではない。
自分に対する好意へのアンテナが死んでいる、可愛い後輩に現在進行形で魔の手が伸びているのを心配している。
「なにか嫌な事されたら、必ず言いなさい。私とコーちゃんが殴りに行くから」
瞳の横で洸平も深く頷いた。日本のスケート業界における生きる伝説は恐ろしいが、危機感の薄い可愛い後輩のためなら鬱陶しい幼馴染みを巻き込んででも動く。
そんな二人の心配を他所に、司は明日の事で再び頭を悩ませていた。
(あ~~~でも、明日はほんとどうするんだろ)
どうか家主と鉢合わせになりませんように。という司のささやかな願いは無事に叶えられる。
その代わりに、もっととんでもない事態がその身に降りかかる事を本人はまだ知らずにいた。
翌日、夜鷹の言いつけ通りに司は大人しく加護家で待機していた。
どうせ今日もドレスコードがありそうなお店に連行されるのだろうと、貰ってから一度も袖を通したことがなかったサマージャケットを着ていた。見た目はしっかりした生地なのに、通気性が抜群で汗っかきの司にも着心地がよい。
目にも涼し気なライトブルーが司の髪と瞳の色によく映えた。白い無地のシャツも相まって、モデルさながらの育ちがよさそうな爽やかな好青年が爆誕した。
(そろそろかな)
指定された時刻が近づき、時計の文字盤をチラリと窺う。いのりの練習記録やデータをまとめていた手を止め、一階に降りて行った。
司がダイニングへ降りて冷蔵庫の麦茶を飲んでいると、タイミングを見計らったかのように、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
コップをシンクに置いて、足早に駆けて扉を開けた。
「不用心だよ」
今日も今日とて初夏の日差しの中、全身黒で統一されたコーディネートに身を包んだ年齢不詳の麗人が佇んでいた。
「その言葉、そっくりそのままあなたにお返しします」
以前慎一郎の使いで夜鷹の忘れ物を届けに行った時、あろうことか玄関に施錠されていなかった。いくら下にコンシェルジュがいて許可した人間しか通せないのだとしても、防犯的にはありえない。そう思って少々苦言を呈した司だったが当の本人がそれを聞き入れることは無く、次に行った時も同じままだった。
「時間的に心当たりは夜鷹さんしかいませんでしたから」
そう言った司の姿を夜鷹は無言で上から下まで眺め、あろうことか舌打ちをした。
「え、なんかダメでした⁉今日の服は加護さんから頂いたものなので何も問題ないと思うんですけど」
出会い頭にいきなり舌打ちされる心当たりが全くない。
「いいから、行くよ」
「行きますから、引っ張らないでください」
結局不機嫌の理由を教えてくれないばかりか、夜鷹は急かすようにして司の腕を引く。
このまま連行されそうだった司はつっかけを履いたままだったことを思い出し、慌てて、事前に用意していた革靴に履き替えた。普段は機能性と価格を最重視しているため、スニーカーで過ごしているのだが、本日、その長い脚の先を飾るのは加護家プレゼンツの見事な一品だった。
この季節と使用者の雰囲気に似つかわしい、艶を帯びたマロン色の皮はよく手入れが行き届いている。使い込まれた革の風合いとウィングチップの細かなメダリオンが美しく、持ち主に華を添えている。
優れた審美眼の持ち主で司より遥かに上等な日用品に囲まれている夜鷹の目に止まるのは、ごく自然なことだった。
「その靴」
真上から少し傾いた太陽の日差しを受けて輝くそれに少ない言葉数で触れた。
すると、夜鷹が今まで一度も見たことが無い、パッと破顔した司が嬉しそうに話し始める。
「二十歳の誕生日プレゼントに加護さんたちからいただいたんです。カジュアル寄りらしいので、いのりさんの引率の時には使いませんけど、時々、特別な日に履いてます」
キラキラとして楽しそうな司とは正反対に、夜鷹は苦い薬でも口に含んだかのような、表情に乏しい男にしては珍しく分かりやすい渋面を作り、深いため息をついた。
「分かったから、もう行くよ」
待たせていた車の後部座席に司を押し込み、その隣にさっさと乗り込んだ。
「ちょっと、いきなり人を突き飛ばすの止めてください!危ないですよ」
「出して」
自分への抗議を丸無視した夜鷹は運転手に指示を出し、黒塗りの車は颯爽と加護家を後にした。
ところ変わって、某所の星付きレストランの個室、座り心地のいい椅子に司は腰かけていた。
眼前に広がる真白いクロスの上にはコース料理の前菜が一人分だけ鎮座している。
夜鷹の前には水の入ったグラスだけが置かれていた。
「夜鷹さんは食べないんですか?」
返って来る答えが分かっていても、聞く以外の選択肢はない。一人だけ食べるのは落ち着かないし、場違いでいやになるからだ。
そんな司の内心を気に掛けることなく、夜鷹もまたいつも通りに答えるのだった。
「何回聞いても変わらないよ」
「そうですか」
シュンと肩を落とした司は仕方なしに、独りで目の前のフレンチを食べ始める。
良いか悪いか、テーブルマナーは最初に連れて行かれた店で覚えてしまった。マナーが分からず手を付けられないでいたら、それを見かねた夜鷹が教えてくれたので、つぶさに観察して覚えた。
それでも緊張することには変わりはない。慣れない空間、料理、服装、その他諸々がそれなりに長い間極貧生活を続けていた司の精神を確実に削っていった。
(美味しいけど、胃がツラい)
メニューは渡されたが、残念ながら司にフランス語。しかもオシャレな筆記体はまったく読めなかった。いのりのコーチとして恥ずかしくないように、英語は日常会話レベルを習得しているが、それ以外はまるで分からない。
食前酒の後に提供されたその皿には、目にも鮮やかなたくさんの野菜を四角に固めた物が載っていた。野菜それぞれの触感もそれらの旨味がギュッと集まったジュレも非常に美味しい。美味しいはずなのに、十分に楽しめないのは、正面からジッと観察されるせいだろう。
提供された水にも口をつけることなく、夜鷹は司の顔と手元を飽きることなく眺めていた。
「あの、なんか変なとこありますか?」
ナイフとフォークを一旦止めて、恐る恐る聞くが、半ば睨みつけているような視線に晒される理由は分からなかった。
「いいから食べて」
再びカトラリーを動かしている最中、ポツリとそんな声がかけられた。
(それが緊張するんだよな~)
言っても仕方の無い事はジャガイモの冷製ポタージュと共に喉の奥に流し込んだ。とても美味しい。
居心地が悪い中、途中から無心になってコース料理を堪能した司はようやく最後のデセールに辿り着いた。
季節に合わせたのか、桃のジュレは口直しに最適で喉越しも大変良い。次に提供されたクレープシュゼットも素晴らしい味だった。緊張で固く張り詰めていた司の頬も思わず緩んでしまう。食後のコーヒーに舌鼓を打つ。
(いつの間にか満腹になってる)
緊張で美味しさこそ半減したものの、意外とお腹には溜まるようで、アラサー男性の胃袋は十分満たされていた。
「行くよ」
コースの全ての料理を腹に収めた司が一息ついたのを見計って、席を立つ。
早く店を出たかったのかいつも以上に動作が機敏である。
「ちょっと!待ってください!」
慌てて司も夜鷹の後に続いてドタバタと音を立てながら個室を出た。
会計は事前に全て済んでいるせいで、今まで一度も司は財布を出したことが無い。初めていった店で自分の食べた分くらいは出します!と力強く主張したのだが、鋭い眼光と常より低い「僕に恥をかかせるつもり?」との言葉で撃沈した。
それ以来、夜鷹に連れられて食事をする時には素直にご馳走になっている。美人の真顔と静かな怒りを湛えた顔は健康に悪いのだ。
「もう、待ってくださいって!」
片腕を掴まれ、割と容赦ない強い力でグイグイと引っ張られながら司は店を後にした。
いつからか、食事が終わると腕を掴まれながら退店するのが習慣となっていた。最初こそ司は全力で抵抗していたが、大人しくしていた方が早く終わると学習したのか、最近では無駄な抵抗はほとんどしていない。夜鷹にされるがままになっている。
(ご馳走様でしたってちゃんと言えてないのに)
後ろ髪をひかれながら退店し、来た時に乗っていたのと同じ車に乗り込んだ。
「あれ、吸わなくていいんですか?」
いつもなら食事が終わって司を駅まで送り届けるのだが、今日は様子が違っていた。車も駅ではなく、どこか別の場所へ向かっているようだった。
「今日はまだいい」
「他にも行きたいところあるんですか?」
「家うち」
「鴗鳥先生のお宅ですか?」
それなら、俺は途中でお暇しますけど。と続けようとした言葉は、紡がれることなく喉奥に沈んだ。
「ちがう。僕の家」
「いや、行きませんが」
ほとんど反射で答えた己を褒めたいと心から思った。うっすら痛む頭と胃に気を取られながら、無駄かもしれないと覚悟しつつも、説得を試みる。
「あのですね。前にもお話したかもしれませんが、俺はあなたのファンなんです。人生変えてしまったくらいの。そりゃ俺の血をあげると約束したので他の人と比べてお会いする機会は多いかもしれませんが、自宅に友人でもない他人をホイホイ気軽に招いたらいけません。もっと有名人の自覚を持ってください」
自分に対してこんなに長々と話す司が珍しかったのか、最初は大人しく耳を傾けていたが、途中から飽きてきたのかそっぽを向いた。
「ちょっと、大事な事なんですからちゃんと聞いてください!聞き流してるの分かってるんですからね!」
司とて人にものを教える職に就いてからそれなりの時間が経っている。相手がこちらの話をしっかり聞いているかどうかくらい判別は容易い。
「うるさいな。誰を家に招こうが僕の勝手だ。君には関係ないよ」
「招かれてるのが俺じゃなかったら、ここまでうるさくしませんけど⁉」
よく通る声とオーバーリアクションのせいで、司はルクスにいる時は瞳から、一緒にいる時は夜鷹からうるさいと注意されることが多い。だが、今回ばかりは見逃してもらいたい。それくらい衝撃的な事なのだから。
「そもそも、君とは他人じゃないでしょ」
ひたりと真っ直ぐに夜鷹の視線が司を捉えた。逸らすことは許さないとでも言いたげな圧を放っている。
これにはファン心理が根底にある持論を滔々と展開していた司も思わず押し黙る。
「そう思っていただけるのは正直凄く嬉しいですけど、それとこれとは別です。ファンとしての分は弁えておいた方が良いんです!」
とんでもない紆余曲折の末、現在は正式に狼嵜光のコーチとして表舞台に戻っている夜鷹だが、現役の頃から変わらぬ美貌とさらに大きくなった威圧感で大会や様々な行事でも直接話しかけられる猛者は少ない。いるにはいるが、話しかけられた当の本人が何もいないかのように振舞い、完全な無視を繰り返した。
その結果、夜鷹と会話が成立するのは長年の親友である鴗鳥慎一郎、教え子が所属するクラブのヘッドコーチ、ライリー・フォックスの二人だけだ。
しかし、ここにいる明浦路司は夜鷹が自分から話しかけに行く唯一の存在であることを本人だけが知らずにいた。そのせいで周囲から仲良し認定されていることも全く感知していない。
教え子の結束いのりガードがたびたび発動するものの、司と仲のいいコーチ陣からも仲良し認定を受けている。
つまり、夜鷹としてはとうに司を少し年の離れた友人として認識いたのだが、司本人はそうではなかったらしい。他の人より少しだけ話す機会が多い雲の上の人と本人的には思っているようだった。
静かな車内に盛大な舌打ちが一つ響く。司は顔色を悪くしてビクリと背筋を正すが、己の意見を曲げるつもりはこれっぽっちもないのが分かる。
「過去の僕の映像を解説しながらいろんなの見せてあげる」
「んぐぅっ!」
とんでもなく魅力的な誘惑に司は奇声を上げながら胸を抑えた。
(夜鷹純の演技を本人のオーディオコメンタリー付きで見れるなんて!)
正直、クリティカルヒットどころではない。たった一撃で致命傷を負うほど威力のあるものだった。
理性と本能の間で揺れ動く司にダメ押しの一手が加えられた。
「衣装も残してあるよ」
「行きます」
本能が理性に屈した司は夜鷹の家に招かれるのであった。
訪れた時はまだ夕暮れ前だったのに、映像と夜鷹自らの演技の解説にすっかり夢中になっていたせいか、気が付けばとうに夜も更けていた。
閉じっぱなしになっていたカーテンの隅から街の灯りが覗いている。
「すみません!こんな遅くまでお邪魔してしまって。もう帰りますね」
(加護さん達はご実家でご飯食べてくるって言ってたから、夕飯の準備とかは大丈夫だけど、完全に気が抜けてた)
羊も年頃になった事とコーチとしての収入が増えたことで、数年前から加護家を出て一人暮らしをしようとしている司なのだが、なんだかんだ二人に流され、未だ自立できていない。いつも今年こそはと意気込んでいるものの、上手く躱されてしまうのだ。
絶え間なく流していた映像が途切れた事でようやく我に返った司が急いで帰り支度をすると、唐突に後ろから制止の声がかかった。
「帰る前に今日の分の血をちょうだい」
フローリングに座っていた司の後ろ、ソファに座したままの夜鷹がシャツの裾を掴む。
「そうですね。忘れてしまってすみません」
小脇にかかえていたジャケットとバックを一度床に降ろし、いつもと同じように左腕を差し出した。
「はい、どうぞ」
以前、この腕に残していた痕は綺麗さっぱり消え失せ、健康的な肌色とその奥に脈打つ太い血管が夜鷹の眼前に晒される。
面白くない。そう思ってしまったのだ。
折角、大きくはっきりと名前を書いた自分のものからそのサインが掻き消え、代わりにあの子どもの気配を強く漂わせている。あまつさえ、反対の手には自分のものより小さい牙の痕が見えた。十中八九あの子どもが付けたものだろう。
(気に入らない)
牙の根元が疼いて仕方がない。これは自分の獲物だと、方々に広く知らしめたかった。
だからだろうか。いつもと同じ、肉に牙を立ててその血を啜るだけでは収まりきらなかった。
夜鷹の牙が司の手首を穿ち、血液と熱が奪われ始めたその瞬間、司の身体に異変が起こった。
(え、なに⁉)
心臓が耳の裏側に移動したかのように大きな鼓動が脳裏に響いた。脈打つごとに体の熱が一度ずつ上がっていくような気さえした。
そのまま立ち続けることが出来ずフローリングに崩れ落ちる。
止めてもらおうと血を吸われている腕を引くも、思いのほか強い力で握られているせいで解放されることは無い。夜鷹の気が済むまで存分に司は血を奪われていった。
謎の動悸と急な体温の上昇に司が俯いて、片方の手を握りしめながら耐えていると、手首から牙を抜いた夜鷹の端正な顔が迫っていた。
常は静かな月色の瞳が今は毒々しいほどに美しい深紅に、鮮やかな血の色に染まっている。
「僕の家でよかったね」
激しい運動をした後、それこそいのりの手本として一曲通して滑った直後かそれ以上に司の息が上がっている。
呼吸は荒く、吐く息には熱が混じり、頬も真っ赤に色づいている。
「なん、今日、どうしたんですか?今まで、こんなことなかったのに」
混乱と熱で潤んだ瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。それを司のものよりも温度が低く白い指先が拭い去り、自らの口元に運んだ。
深紅のルージュを引いたように司の血で濡れた唇が、涙で僅かに色が薄くなる。
夜鷹の薄い舌が己の唇を染めている赤と透明な液体を絡めとった。
「君はなにも変わってないよ」
夜鷹の双眸は深紅から月色へとバイカラートルマリンよりずっと鮮やかなグラデーションで元の色へと変わっていく。司の変化を至極愉しげに眺めたまま、夜鷹は耳元でうっそりと囁いた。
「吸血鬼の牙には二種類の毒がある。一つは誰にでも効く麻酔みたいなもの。もう一つは今の君みたいに」
不自然に言葉が途切れたが、混乱の最中にいる司がそれに気づくことなど無い。
とっておきの秘密を告げるように耳元で吐息と一緒に優しく吐いた。
「好きな人にだけ効く媚薬だよ」
全身の血が沸騰したかのように熱く、頭もその熱に浮かされているのか、思考の輪郭が解けていく。
「首から直接もらうよ」
本能的な危機を感じた司は逃げ出そうと足を動かすが、力が入らない。フローリングの上で、僅かに身動いだだけだった。
「や、嫌です。離して、ください」
憧れの人を力任せに突き放す事なんて出来る訳がない。それでなくとも、今は全身に力が入らず夜鷹のなすがままになっているのに。
司の言葉も虚しく、無情にも首筋に牙が突き立てられる。今度は白い毒牙が身の内に入り込んだ瞬間から、何かが背筋を走り抜けていった。
「やめ、もう吸わないで、ください」
甘い痺れが司の全身を包み込む。どうにか止めさせようと、後から首筋に齧りついている夜鷹の肩を押すが、効果はない。それどころか、肩に突き刺さった牙はより深く入り込んだ。
「いっ……、もう、本当に無理です」
情けない涙混じりの声で訴えるも、夜鷹は音を立てながら司の血を容赦なく奪っていく。
ようやく牙が抜かれた頃には、赤く染まった頬を涙で濡らした極上の獲物が捕食者の前に転がっていた。
「美味しい」
興奮しているのか、どこか浮ついた声が司の耳朶を打つ。最早、身体を支えることも出来なくなっていた司はフローリングにその身を預けていた。恐ろしいほどに熱くなった全身に床の冷たさが染みわたる。
「いやだって、言ったのに」
涙にぬれた一対の琥珀が恨みがましく夜鷹を見上げている。それに得も言われぬ快感を覚え、睨まれている夜鷹の背筋は粟立った。
「聴いてあげる理由はないよ。それに、」
このままじゃ帰れないでしょ?その言葉と同時にスケーターらしい歪さを持った白い指先が、ぐりとある一点に力を入れる。
冷たい床の上で身を震わせる司の足の間、風通しが良く柔らかな素材でできたパンツの生地は、兆したそれ(・・)に持ち上げられてうっすら色が変わっている。
日に焼けていない白い爪先が角度を変えながら、甚振るように刺激を加え続ける。そのせいで苦しそうに呻き声をあげる司の耳元で悪魔が優しく嘯いた。
「楽にしてあげる」
力の入らぬ体で碌な抵抗も出来ぬまま、夜鷹に軽々と抱えられた哀れな獲物は寝室へと連れ去られてしまった。
広い寝台に転がされた司は早々に衣服を剥ぎとられ、裸身を晒す羽目になっている。室内の灯りが付いていないのが今の司にとって唯一幸さいわいと言えた。
「お願いですから、もう、やめてください。こんな事しなくても、あなたに相応しい人はいます」
熱で茹だった頭の中、どうにか紡いだ言葉は実を結ぶことなく散っていく。
よく鍛えられた司の身体を細いせいか節が目立つ、男性的な指が這いまわる。冷たい指が脇腹や腰を掠めると思わず背が跳ねた。
「言いたいことがそれだけなら、もういいよね」
情欲を帯びているのに冷えた声が託宣のように司に降りる。全身を這っていた指先が無遠慮に陰茎に伸ばされた。
「もう、いい加減やめろよ!」
羞恥に耐えきれず、初めて司は夜鷹に強い口調で怒鳴りつけた。
「まだ質の悪い冗談で済むので、離してください」
ろくに力の入らぬ手で夜鷹の手を押し返し、引きはがそうと説得するも、司の言動の一つ一つが火に油を注いだだけであった。
「冗談なんかでこんなことしない」
特別張り上げたわけでもないのに、いやに迫力のある声が広い寝室に響く。
顎を鷲掴みにされ、強制的に視線が交わる。
いつもは波一つない静かな水面のような月色の目が、今や血よりも濃い朱が混じり、情欲の炎が揺らめいていた。
司の喉がひとりでにヒュッと音を立てる。
性欲なんぞ持ち合わせていないような、浮世離れした美しさの持ち主が、よく知っている情動を持ち合わせていることに驚き、次いで脳がフリーズした。
百歩譲って、普通の人間と同じ、そう(・・)いった感情があるのは飲み込める。だが、それを自分に向けられるのがサッパリ理解できなかった。
脳が処理落ちして固まったままの司を他所に、夜鷹の手は着実に進んでいく。
ベッドサイドチェストから取り出されたローションボトルがその手のうちにある光景は一層司の脳を混乱させた。
ありえない光景を目にすると人は現実を受け入れきれないということを、図らずも証明してしまった。
粘性のあるひどく冷たい液体が皮膚を伝っていく衝撃でようやく我に返る。
「やめ、放してください!」
目の前の男の乱心を止めようと、渾身の力を込めて頭上に拘束された手を動かした。
僅かに夜鷹の手の力が緩んだものの、凶行を終わらせるには至らなかった。
秀麗な眉を顰めた夜鷹は拾いベッドの上に転がしていた自分が剥ぎとった司が身に付けていたメッシュベルトでぎっちりと縛り上げた。
「少し静かにしてて」
再び夜鷹の牙が司の首筋を穿つ。上半身が跳ねあがり、抵抗するが、血が奪われないかわりに、別のものが牙を通して皮下に注がれる感覚がある。
どうにも嫌な予感が収まらず逃れようとする司だが、上から痣を作りそうなほどの力で押さえつけられて、シーツを乱すに留まった。
血を吸われた時とは比べ物にならないくらいの圧倒的な熱が司の内側を焦がす。夜鷹から逃げるためではなく、末端まで異様に熱くなった身体の熱を逃がすため、冷たさを求めて、身悶えながらシーツの上をのたうった。
「ねぇ、逃げないでよ」
そう言って司を己の下に組み敷いた夜鷹の肢体は随分と冷えていた。熱で火照った司の身体にとってなによりの甘露となる。
再び顎を掴まれたと思った次の瞬間、司の口の中に鉄臭さが広がった。
薄く、長い夜鷹の舌が司の口腔を蹂躙する。上顎の奥、柔らかな喉の肉や舌の裏、あらゆる場所を気儘に荒らしまわる。
(なに、すんだよ!)
鍛え上げた筋肉は脱力し、こういう肝心な時に役に立たぬ。だが、頑なな理性は司の味方になった。
縦横無尽に荒らしまわっているだけかと思えば、少しずつ司が快感を拾う場所に焦点を合わせてきている。
そう気が付いたとき、筆舌に尽くしがたい恐怖が司の身を襲う。このままだと戻れなくなる、と本能がけたたましく警笛を鳴らしていたのだ。
好き勝手に吸われていた自分の舌に力を込めて、侵入者を排除しようと夜鷹の舌を押し返す。
そんな予想外の司の動きに夜鷹は少しだけ目を丸くしたが、やることは変わらない。それどころかどうにか抵抗する司の舌を自分のものに絡めとり、薄く牙を立てた、
「ふっ……!んっ!…………うっ……!」
苦しそうに首を振るが、その程度で逃れられるほど甘くはない。
僅かな傷口から吸血鬼の毒がじわじわと沁み込んでいく。
ようやく離れた夜鷹の口の端からは飲み込めきれなかった一筋の唾液が零れる。名残惜しそうな一筋の銀糸の橋が二人を繋いだ。
「可愛い」
滅多に浮かべぬ微笑は凄絶な色気を放つが、彼に捕らわれてしまった哀れな美しい金色の青年が放つ色気は優にそれを凌いでいる。
人好きのする爽やかな好青年が跡形もなく消え去り、匂い立つようほど凄絶な色香を放ち老若男女を色事に誘いこむ男が転がっていた。
力無く、くたりとシーツや枕に身を委ねる様は。見た者全ての理性の箍を外すだろう。
極上の獲物を前にして、夜鷹は人生で初めて喉を鳴らし、舌なめずりをする。
(これが美味しそうって感情なのかもね)
人に非ざる者の血を色濃く受け継ぎ、かなり人外に傾いていた自分に、ここまで人間的な感情があるとは夜鷹も思ってもみなかった。
「いただきます」
美しい夜の生き物の、とっておきの晩餐が幕を開けた。