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──明浦路司と岡崎いるかは仲が良い。
それは近頃のフィギュアスケート界隈で実しやかに囁かれる噂話だ。
競技者の多くが幼少から鎬を削るためわりあいに狭く濃い人間関係を築きがちな業界の中で、世界に誇る女子シングル王者と燦然と現れたクイーンメーカーの仲は寝耳に水の話題だった。
曰く、合同練習の休憩で二人でひっそり麦茶片手に談笑していた。
曰く、合宿所の広間で互いにペディキュアを塗っていた(保護者の目の届く範囲で)。
曰く、薄暗く人目につかない所でよく寄り添いあって昼寝している。
曰く、曰く、曰く……。この手の話を挙げ出せばキリがない。
事の真偽を気にした一部勇気ある者が彼ら二人に関わりのある筆頭人物、狼嵜光に並ぶ女王の双璧の片割れ、結束いのりに確かめたところ、
『……まあ……はい……私の先生といるかちゃんは仲がいいですね。私の先生だけど。私の! 先生だけど!』
との答えを頂戴した。真っ黒な目をした女王を前に訊いた側がモアイみたいな顔になったという。閑話休題。
これ以上ない確証を得て噂は事実となり、彼らと練習を共にできた人間は身をもってそれを理解する。
なにせいるかと司、距離が近い。警戒心の強いいるかや、あれで境界線はしっかり引くタイプの司が互いには遠慮なしに物を言いあい小突きあい、気の置けない雰囲気で和やかにお喋りする。鉄壁の倫理観を持つ司なので直接的な接触は少ないものの、「ネイル塗って」だの「アイシャドウの新色試させて」だのといういるかの願いに「はいはい」の一言で身体を貸し出すのだから仲が良くないはずもなかった。いるかもいるかで、まるで自分の身体を手入れするように司を扱うので、自然ふたりは年の離れた兄妹のような空気を醸し出していた。
触れ合いにも眼差しにも熱っぽいものがなく、また五里誠二による三者面談で恋人とかそういう線はバッサリ切り捨てられたのでコンプラ諸々の心配はないだろう。なんせ明浦路司だ、その辺りの信頼は余りある。
それでも接点や実際に体面する機会を考慮すると彼らの親密さは不可解極まりなく、本人たちに突撃した唯一の例、五里は『何でお前ら仲良いんだって訊いたら両方に”何言ってんだこいつ”って顔された。ありゃダメだ』とのことなので、司といるかの関係はある種の不可侵領域として認知されることとなった。
……そして、彼らにまつわる噂というのが、もうひとつ。
何故か仲が良いといういるかと司。少女と青年の微笑ましい噂話の影に潜み、囁かれるのは不思議な小噺。
曰く──”奇妙なこと。不可解なこと。怖いこと。当てはまる何かに出遭ったら、彼らを訪ねてみるといい。
正しい対価を支払うならば、必ず、あなたを助けてくれるよ”
狼嵜光のもとに不思議な贈り物が届いたのは、そんな噂を耳にしてしばらくした頃のことだった。
***
匣はこ。
匣である。
一見小振りの虫籠のような硝子の容器。それがクリスマスプレゼントの如く豪奢な包装に飾り立てられ、スターフォックスFSCへ届いた。
宛先は狼嵜光。添えられたメッセージカードには『あなたのファンより』のひと言のみ。奇妙な贈り物だが多様なファンを持つ選手にとってはままあることであり、事前の綿密な審査を経て、特に問題なしとしてそれは光の手元へやって来た。
受け取りの如何は選手本人に委ねられている。月に数度のプレゼント選別大会を迎えた光によって選ばれた貢ぎ物の中にその匣はあった。用途不明ではあるものの、匣を守る包装が質の良い黒絹で、光ひかりを捕え離さないほど深いその色にうっかり心惹かれてしまったからだった。
──別にあって困るものでもないし。
誰にともなく言い分け、光はのんびりとドレッサーに腰掛けた。
匣は自室の鏡台に置くことにした。備え付けのサイドチェストに包装の黒布ごと仕舞っている。まだ何も中を満たしていない空の器だが、目新しい硝子の匣は黒絹の上で淑やかに煌めいていた。
──きれい。まるで雪みたい。
自分でも不思議なくらい光はこの匣を気に入っていた。贈り主の真意は不明だが、曇りひとつなく磨かれた硝子とそれを縁取る金色は素直に美しかった。よく見ると黄金には精緻な幾何学模様が刻み込まれ、既製品にはない威風を漂わせる。涼しげな硝子に連想してしまうのは冷ややかなアイスリンク。
「……あ、そうだ」
それなら、と首元の飾りにそっと触れる。
「うん。丁度いいかも」
硝子細工に光り物。これ以上の組み合わせはないだろう。
お守りのペンダントを仕舞うのにぴったりだと思いつき、光は満足して微笑んだ。
──しかし、この数日後。
「………」
怜悧な金眼を険しく眇め、光は自室に置かれたドレッサーを見下ろした。正確にはドレッサーの棚に仕舞った誰かからの贈り物。小物入れ程度の硝子匣を。
華奢な匣はペンダントと他に少しの装飾品を入れたら手狭になってしまうほど小さな容物だ。曇りのない硝子の囲いが未だ目に涼しい。それがおかしな具合に様変わりしていた。匣そのものに変化はない。ただ、中に入れたはずの小物が放り出され、代わりに見覚えのない光沢が詰め込まれていた。
「織物……?」
ともすれば布地そのものが発光しているかのような特有の色彩だった。とろりと品良く、しかし豊かな鮮やかさを見せるそれは恐らく錦織。雪深い土地にも淑やかに咲く華を愛でるべく、狼嵜の当主が好んで着物を仕立てていた。光はそれを今でもよく覚えている。
──それがどうして、こんなめちゃくちゃに?
錦織は織られた布を染めるのではなく、あらかじめ染めた彩糸を機に張り経糸、緯糸として組み合わせることで紋様を織る。これにより彩り豊かな絵図を翳を伴い現実へ紡ぎ出すことが可能になるのだ。緻密で繊細な手作業を要するぶん当然に価値は高く、故にこそ本来手厚く世話をするべき代物が粗雑な扱いを受けているさまは異質なものとして光の目には映った。
──というか、そもそも。
織物を入れた記憶などない。もちろん光自身で所有しているはずもなく、ならばこの錦はどこからやって来たのか。心当たりが何も無かった。これではまるで、匣が勝手に錦を喰らったかのようだ。
「……嫌な想像しちゃったな」
らしくもない。そう頭かぶりを振って想像を追い出す。それよりそろそろ練習に向かわなければ。
粟立った肌に気付かないふりをして、光は自室を後にした。
その日の晩、夜半に差し掛かる間際のことだ。
休日を前にした午後の練習を終え、光はひとり寮へ戻っていた。
ライリーの指導はその日も細やかながら効率的で、不調を訴える隙無く夜を迎えられた。帰途につく頃には一日のノルマをすべて完了し、あとは自室で柔軟をして床に就くだけ。巣に戻る安堵から緊張が解け、意識は部屋に戻った後のことに向く。そうすると自然、光の胸中に今朝方の小さな騒動が蘇った。
──でも、あんなの。深く考えるようなことじゃなかったかもしれない。
辿り着いた自室の扉を開け部屋の明かりを点ける。白色光に照らされた室内。ほら、やっぱり何も変わりはない。片付いた部屋の定位置に荷物を置き、高く縛っていた髪ゴムを解いた。
「やっぱり考えすぎだったな。ライリー先生に相談しなくてよかった」
迷惑でしかないもん、と光は薄く唇を歪める。
時間の経過と共に光は今朝の出来事を寝惚けていたかもと考え直していた。
そもそも織物は匣とセットで、何らかの手違いで外れたそれを誰かが届けてくれたのかもしれない。もしくは自分こそが落としていたとか。そうと考えると急に今朝の怯えが馬鹿らしく思えて、光は苦笑してドレッサーの扉を開けた。
「…………は?」
箱庭は無惨な有様だった。柔らかな光沢を放っていた錦はひしゃげ、繊細な刺繍がぶつりぶつりと断ち切れている。小物入れにも小さな布の欠片がいくつも散らばっていた。その全てに鼠が齧ったかのような穴が穿たれ、匣の中は獣が去った後の狩場のような様相だった。
どう見ても何者かに荒らされたとしか思えなかった。光は昼から練習に出ていたため、犯人はその間に光の自室に立ち入ったということになる。
(でも、誰が? いやそもそも……何のために?)
いったいどんな目的でこんな真似を?
考えても答えは出ない。他に手掛かりはないかと光は改めて匣を見詰めて──ふと気が付いた。
「何これ……汚れ?」
一瞬外装に何か付着したのかと思ったが──違う。内側だ。透明だった硝子は赤褐色の、何か繁吹しぶいたような痕に濡れていた。
──それはまるで、黒く乾いた血のような。
「……ッ!」
慄くまま後退り、光は今度こそ青ざめた。耳の奥で鼓動が存在を大きくする。明らかにおかしい。何だこれは。
距離を取ると視野が変わり匣の見え方も変化した。中身を覗く形から、透明な硝子越しに内部を観察するような体勢へ。そうして露わになった繁吹きの源らしき場所は錦がいっそう深く抉れていて、……光はぴたりと動きを止めた。後退ることも忘れてそこ・・を見入る。
……何か。いま、何かが。
匣の中で動いた、ような。
「……ぁ」
錦の影がもぞりと揺れた。やけに濃い暗がりが輪郭を濃くする。やがて現れたのは、物陰にも僅かな光ひかりを吸って蠢くモノの頭──。
光は息を呑み、声を上げかけた口を覆った。
硝子の中。匣の奥。錦の陰に潜み光を睨み上げていたもの。──それは鬱金の色をした、小さな芋虫だった。
*
朝が来た。
薄藍に霞む空が朱に染まり、まだ夜への畏敬を残した日がカーテンの隙間から射し込む。
帳をゆるゆると取り去っていく部屋の片隅で、光はゆっくりと体勢を崩した。
「……頭痛い」
こめかみだけでなく瞼までも重い。一晩中膝を抱えていたせいで身体の節々も気怠かった。アスリートとしては忌むべき『睡眠不足』という言葉が過ぎる。
(けど、あのまま寝られる神経なら象の方が繊細でしょ)
言い訳と思いながらも光は恐る恐るベッドから降り、ドレッサーのほうを窺う。
半端に開いた鏡台の引出からはタオルが一枚垂れ下がっていた。光が昨晩乱雑に詰め込んだものだ。不気味な匣を視界に入れたくなくて、けれど蓋に触れることも悍ましく思えて考えた末の苦肉の策だった。
──絶対に、自然のものじゃない。
何となくの確信があった。元は空っぽだった匣や突然現れた錦織もそうだが、あの蟲は極めつけに狂っている・・・・・。目を交わした一瞬にも臓腑が直接まさぐられた心地になった。そんなものがおいそれと居てたまるか。
そもそも光は虫が平気な方だ。芋虫程度でこうはならない。ただあのぶよぶよと蠢く体表が、小さく突き出たやわそうな脚が、黄金色に散った斑点模様がどうしようもなく悍ましく見えて。
吐き気を催すと同時、光は「全部こいつがやったんだ」とただ理解したのだ。
「……何も、いない」
意を決してタオルを退けて、露わになった匣を前に光は呟いた。匣の中には何もない。芋虫どころか錦織、赤錆色の穢れまでも。ただ日光を跳ねて煌めく硝子ばかりが美しくそこにあった。
まるで昨日の朝のようだ。……でも、もう誤魔化せない。
事のおかしさを身に染みて知ってしまった以上は。匣が光を騙すことも、光が自分を誤魔化すことも許されない。朝が来たとはそういうことだ。ありもしない罪を白日に曝された気分だった。
「………」
砂利を噛むような心地のまま、どうしようか、と地に足のつかない声が耳元で囁いた。
(誰かに相談するのは……でも誰に? 何て話すの?)
プレゼントされた匣に気付いたら虫が生まれました? 理由はないけどなんか気持ち悪いです?
馬鹿馬鹿しい。大人を揶揄うなと叱られて終わりだ。もしくはカウンセリングを勧められる。それでは意味がない。
ライリーや慎一郎は聞き入れてくれるだろうが困惑させるだけだろう。友人たちは以ての外だ。彼らを巻き込むくらいなら光は今すぐ舌を噛み切って死ぬ。……その程度の覚悟はありながら、姿なく擦り寄る重苦しい腥なまぐさな気配に冷たい汗が背筋を滑った。
「……あ、」
──そして不意に思い出す。現状と同等かそれ以上に眉唾めいた〈彼ら〉の噂を。
「………」
光は一度だけ瞼を瞑り、毅然とした足取りで自室を後にした。今度は見て見ぬ振りをしたのではない。ただ、現コーチと寮母に外出届けを出すためと──とある男に連絡を取るために。
***
三時間後。名古屋市は大須リンク、その階下に位置する某喫茶店にて。
「………」
「………」
「………」
奇妙な沈黙がある一席を支配していた。
ゆとりのある四人席に並ぶのは三つの頭。いつぞや鴗鳥親子が座った位置に明浦路司と岡崎いるか、その向かいに東京に籍を置くはずの狼嵜光が腰を下ろし、ポップな字体が踊るメニューをテーブルに広げている。
女子シングル女王の二名、昨今クイーンメーカーと名高いコーチと見るものが見れば「さすがスケート王国名古屋、神々が普通に紛れ込んでる」と騒ぎ立てるような顔ぶれではあったが、如何せんそれが許される浮かれた雰囲気は欠片も無かった。いるかは退屈そうに、光は険しい顔でテーブルの上のお冷を睨み、呼び出された側の司だけが気まずげに沈黙を食んでいる。白い曇りガラスには小粒の汗が伝っていた。それは即ち三人が顔を合わせて黙り込み経過した時間であり、明敏な少女がこの期に及んで手放せないでいる葛藤の表れでもあった。
「……あの、狼嵜選手」
ややあって口火を切ったのはこの中で最年長かつ唯一の大人だった。
頑としてグラスを見下ろしていた金眼がゆらりと司を収めて、許すように一度瞬く。
すると、その白い瞼に張り付いた隈に気付かないはずもなかろうに、律儀な男は深く問い質すことなくそっと本題へと切り込んだ。
「用件というのを訊いてもいいかな。オフシーズンとはいえ多忙なあなたが大須まで来るなんて、何かあった?」
「……用がなければ来るなと言いたいんですか」
「あ、いやそういう訳ではないけど……」
ほとんど反射で返した憎まれ口に深々とした溜め息が響いた。出処の少女、いるかは不機嫌に眉を顰め、
「そういう不毛なやり取りは他所でやってくれる? さっさと本題に入れよ狼嵜光。わざわざ私まで呼び出したんだ、それなりの要件なんだろうな」
「う、……」
光は気まずく唇を折り曲げた。もっともな指摘だった。彼らを朝っぱらから呼び出したのは光の方である。これ以上の沈黙は時間の無駄だし、何より突然の訪問に出向いてくれた二人への無礼だろう。
──ここに来るまでに覚悟は決めた。何を怯える必要がある、狼嵜光。
あとは動くだけだ。少なくともどうにかなりたいと思っている限りは。──目の前にあるのが流木だろうが藁だろうが縋ってみせると決めたのだ。
光はおもむろにグラスを傾け、温くなった水を流し込んだ。カラカラに乾いた裡側を水が満たしていく。次に少女が瞼を開けたとき、金眼は常の毅然とした眼光を取り戻していた。
「突然お呼び立てしてすみません。今日はお二人に……相談があって、来ました」
「相談?」
「ふぅん、私たちにね」
司に怪訝そうな、いるかには白々とした目を向けられる。素直に居心地が悪かったが、ここまで来たらと開き直って頷いた。そして東京からずっと抱き込んでいた〈荷物〉を手に取り、そっとテーブルに置く。
「これの扱いについて、何か……助言いただけたらと思って」
曖昧な言い方になったことを自覚する。それでも何か客観的な言葉が欲しかった。困惑でも嘲笑でも何でもいい、とにかくこれ・・にひとりで触れていたくない。
……後になって思えば。そのとき光を苛んでいた悪寒は紛れもない生存本能だったのだろう。
ことん、と。微かに震える指先が完全に離れ、小包がテーブルを叩いた。──瞬間。
「──いるか」
「分かってる」
名を呼び応えるだけの端的なやり取りが交わされ、世界は姿を一変させた。
*
「なっ──は、えっ?」
光はぱちぱちと瞠目した。鼓膜を震わす音、頬に触れる温度、鼻腔に流れる空気のにおい。そのすべてを強制的に切り替えられた獣の仕草だった。
微かに明滅の残る視界からは見慣れたチェーン店の内装が失せ、代わりに蒼い陰翳がさざめいた。通りに面した窓や天井から降り注いでいた白色光は影も形もなく、薄暗い世界を蝋燭が仄かに照らしている。灯火の源は木彫りの卓上、アンティークゴールドの身を火元に晒す燭台。熱に炙られ焦げ付く蝋の香りが鼻先に漂った。
宙を満たす薄藍と、橙。払暁を間際にした空に水膜を貼り付けたような世界。飴色の時間を混ぜ込むように大きな魚影が揺らがなければ、光はもうしばらく呆然と──あるいは陶然と、眼前の光景に魅入られていたことだろう。
「い、るかさん」
「ん」
海色の瞳が素っ気なくも光を見る。世界に呼応するように、そんな少女の装いもがらりと様変わりしていた。
──嘘みたい。
揺らぐ灯りに照らされたその姿をまじまじと眺めやり、光はごくりと喉を鳴らす。
「……か、」
「あ?」
「可愛い……ですね。すごく……」
「……案外図太いな、お前」
まともな第一声がそれかよ。苦々しく呟いたいるかが気怠げに頬杖をつくと、動きにつられ黒衣・・の裾がふわりと揺れた。余韻を残すその動きにますます動悸が強まっていく。
「えっ、いやだって……え? 可愛いです、本当に……え? すごい可愛い……」
「るっさいるっさい、ガラじゃねぇのは分かってるよ。私の趣味じゃないしほっとけ」
照れ臭さを不機嫌で覆い隠した態度はいつもの岡崎いるかだった。けれどもその装いがまるで違う。普段の彼女と真逆も真逆、なにせ──。
「ゴシックだあ……!」
「口に出すな!」
睨まれても跳ねる鼓動を無視はできなかった。
まず、深海に浸したような色味の深く淡いシースルーにどうしようもなく目が引かれた。薄手の生地が鎖骨を覆い、ホルターネックの形で少女の華奢な上半身を象っている。首元を引き締めるのは黒に近い濃紺のチョーカー、そこに吊り下がり煌めく陽ひの石はシトリンだろうか。深い藍色のなか橙は主を守るように輝き、昏い水底みなそこに咲く一輪の向日葵を想わせた。
艶やかに肌を切り取る衣装がそれでも清冽なのは、いるか自身が持つ清爽な気配ゆえなのか。濃紺を受けて腰元から波打つミッドナイトブルーには優雅な瑞々しさがあった。重く重く、鰭が重なるように広がりゆくシルエット。裾に近づくにつれ夜を深くする色彩の移り変わりは、あるいは海の世界を模しているのかもしれない。フィッシュテールのスカートから覗く脚はすらりと長く、太ももに巻き付く包帯すらも装飾へと魅せている。足首から爪先を覆う堅いブーツ、二の腕から手のひらまで伸びたレースの手袋はどちらも純黒に締まり、ある種放蕩な海の世界に密やかな秩序を齎していた。
……などと色々な言葉が駆け巡ったが、まあ、つまりは。
(めちゃくちゃ可愛い……!!)
これに尽きた。状況の異様さはさて置いて、決して既製品にはない『ゴシック可愛い』を着こなすいるかが輝いて見えた。油断すると叫び出しそうになる乙女心を何とか抑え、光は深呼吸を繰り返す。
「な、何でそんな素敵、いえ不思議な格好を? あと今更ですけど、どこなんですかここ」
「マジで今更すぎるだろ。危機感ないのかお前」
いるかはやり辛そうに後ろ頭を掻き、青眼をぐるりと周囲──様相をまったく異なるものにした室内へ向けた。
「ここは店。私たちの店だよ。工房って言い換えてもいいけど」
「店?」
「そ、業界専門通信販売的な。私が店主で、こっちが……何だっけ?」
不意に水を向けられ、黙って少女たちを見守っていた司が思わずと苦笑した。
「何だっけってあのね……強いて言うなら共同経営者? 店主はいるかさんだけど、土地の維持管理は俺の役目だし」
「じゃあ管理人とか?」
「もう仕事仲間とかでいいんじゃない。俺も地下借りてるし、そもそも俺らで始めた店でしょ」
「それもそっか。じゃ、それで」
うん、と肯うけがった司の頭上に大きな影が落ちた。ゆらゆらと揺らめく薄影の淡い。男の肩越しに垣間見た部屋の様相から、光は室内を満たす蒼い空気の出処を理解する。
「……水族館?」
呟きに、司といるかは揃って視線を光へ向けた。動きを同じくした二人の背後には壁の一面を埋める大窓──のような水槽が中に水を満たして佇んでいる。
冷たい色をした光ひかりは部屋のあちこちから射し込んで、いたずらに揺れる生き物の翳を床に落としていた。
──これじゃあ本当に水族館みたいだ。
幼い日、理凰と共に連れられて行った文化施設の記憶が蘇った。
明かりを落とした館内に射し込んだ光ひかりの色を覚えている。音が耳に籠る感触は快いものではなかったが、不思議と嫌いではなかった。影を濃くする在り方と端々に漂う冷えた空気がリンクを想像させたからかもしれない。水面の向こうにある照明は魚たちの輪郭を切り取り、空気のなかを泳ぐ魚影を光は存外気に入っていたのだ。
……すう、と頭が冷えていく。
ここは遠い日の水族館ではなく。また来店した通りの〈店〉では断じてない。世界と共に姿を変えたいるかと合わせていよいよ現実味を帯びつつある奇妙な事態が、微かな水音、融ける蝋のにおいとなって背筋を炙っていた。
「本当に……いったい何なんですか、ここは。店って何? 貴方たち、いったい何者なんですか」
ぱちり、と。琥珀と青藍の瞳が瞬く。
自然と寄り添う姿がいやに似合う男女はここでも仕草を同じくして、なんて事ない調子で答えてみせた。
「別に。どこにでもいるただの魔女だよ」
「いちおう俺は魔法使い。まあ、どっちも『絶滅寸前』『時代遅れの』が枕詞につくんだけどね」
「……。…………。………………は?」
*
魔女。そして魔法使い。
巷に流布された噂とは比にならない眉唾な話を持ち出したいるかと司は、硬直した光の前で様々な〈魔法〉を示してみせた。
それは例えば火を吹く薄水色のトカゲだったり。手のひらの上でくるくると回る向日葵の花だったり。謳う声に合わせて鳴る鈴音や、そっと差し出されたティーカップの中で仄かに輝く小さな満月だったり。
どこかの海に繋がっているという店の大窓の外を白鯨の巨体が擦れ違った頃には、光は既にこの二人を疑う気力を失っていた。
「魔法使いって実在したんですね……」
それと魔女も、と光はどことなく疲れた声で呟いた。「ついでかよ」と笑ったいるかの表情は常より妖艶さを薫らせて、なるほど魔女と思わせる気迫がある。それは彼女に隣り立つ男も同じく、陽光を固めたような色彩が何気なく場に溶け込んでいるのを見て光は軽い目眩を覚えた。
「もう流れついでに訊きますけど、お二人の関係は?」
「幼馴染兼友だち?」
「わりと気が合うお隣さんとか」
「……そうですか」
幼馴染み。友だち。お隣さん。
親友を筆頭に彼らの周りにいる人間が聞けば顎を落とすだろう単語がさらりと述べられ、光は乾いた笑みを浮かべる。かつて憧れた絵本の中の存在がよもや知人とは誰が知ろう。ようやく目に慣れてきたドレスの可愛らしさも相俟って、光の心情はなんとも複雑だった。
しかし、現実逃避の時間も間もなく途切れる。自分たちも三日月や星を浮かべた紅茶を啜っていたいるかと司はふとカップを置き、光を──より正しくはテーブルに放置されたままだった包みに視線を移した。
「時間もねぇし本題に入るけど。お前をわざわざ店まで連れてきて自己紹介までしてやったのはそいつ・・・が理由だよ。理由ってか原因? そんなもん、向こうでおいそれと開けられちゃ困るからな」
そいつ。そう指差さされた小包の中に何があるのか。光は知っていて、彼らはまだ知らない。そのはずだ。
「匂いからして物騒すぎたもんねえ。ちゃんと手放してくれて良かったよ、本当に。騙し討ちみたいになったのは申し訳ないけどさ」
「別によくねぇ? 生きてるなら儲けもんだろ」
「極端すぎ、とも言えない物騒さだな……うん、何度見ても気持ち悪い。狼嵜選手よくこれ東京から持ってこれたね。道中暴れなかった?」
言いながら光とは温度の違う金眼がミミズでも見るような目つきで包みを見遣る。
「暴れ……」
「そこまで育ってはないんでしょ。今もキモいけどまだ若い・・。時期が良かったな」
「若いって、そんな……生き物みたいな」
「へえ、生き物・・・じゃねぇって分かってるんだ?」
くく、と紅唇を引き上げたいるかの態度に光が得たのは戦慄と確信だった。
魔法に携わるという彼らは真実これ・・の異常性を理解している。ともすれば当事者である光以上に。それは同時に匣の異常性をこの上なく裏付け、光は知らず生唾を飲み下した。
「最初から気付いてたんですか? 今朝会ったときからここまでずっと? 私がどうして貴方たちに会いに来たのかも……」
「まあ大体は。ライリー先生や鴗鳥先生に言い出せない時点で何となくね。まさかそんな劇物とは思ってなかったけど」
「どうせ要らねぇ気でも回したんだろ。正解だったけどな。つかこんなもん傍に置いたら何か起こるに決まってるし」
「……あの噂は本当だったと」
「噂は噂だよ。掴むヤツもいれば掴めねぇヤツもいる。だから正直意外だった、お前は後者だと思ってたから」
いるかの言葉は事実だった。普段の光なら噂話など信じない。厄介さは身をもって知っているし、そんなものに振り回されるなど認められないからだ。
それでも光はここに来た。尋常ならざる事態への恐怖と未だ光明か定まらない囁き声に導かれて。
「………」
「その上でここに居るのならそういう道筋だったってことなんだと思うよ。ただ、まずはあなたの話を聞かせてほしい。──狼嵜光さん」
伸びやかな声に名前を呼ばれる。すると意識の輪郭が急にはっきりした。遅れて背筋を冷たい汗が滑り降りて、自分が存外に深い緊張の中にいたのだと自覚する。
二度、三度。深呼吸を繰り返し、光は少しだけ開けた視野に二人を映した。どちらにも揶揄う色はない。話すことを許される、そんな雰囲気があった。
「……実は──」
そして光は語り始めた。
突然贈られた硝子の匣と、それに纏わる奇妙な話を。
「ある日いきなり空の容器が送られてきて」
「またある日いきなり高そうな織物が突っ込まれてて」
「その中によく見たら金色の芋虫がいたような気がした、と」
うんうん、なるほど。なるほどね。
客人の話を聞き届けた少女と青年は腕組みしたまま頷き、
「──金蚕蟲じゃねぇか!!!」
吐血する勢いでそれ・・の正体を弾き出し絶叫した。
〈金蚕蟲〉とは。
曰く、蠱毒の一種。
古代中国における邪術のひとつで基盤は蠱毒に準ずるとされる。見た目は蚕そのものだが、互いを食い合わせた毒虫共の果てに生まれる妖虫であり、その性質は巫蠱の中でも極めて悪質。生涯尽きせぬ富と財を齎す代わり毎年誰かの命を求め、できない場合は血族の中から贄を捧げなければならない。
また錦のみを主食とするため高額な出費が続くことになり、金蚕蟲を飼う血筋は一生その枷を負うことになる。金は無限でも技術は有限だ。金蚕が満足するだけの錦を永久に用意し続けるなど現実的に不可能な話、負債と贖罪ばかりが積み上がっていく。
莫大な富とそれ以上に根深い罪科の螺旋──永劫傾き続ける罪の秤。
まあ、要するに外法である。
「うおお……おッ前、想像の百倍めんどくせぇ厄介事持ち込みやがって……」
「というか今時お手製金蚕蟲って……素人が手を出す域超えてるだろ、どこのどいつだマジで……」
神秘に長ける彼らがここまで顔色を悪くさせる理由は当然あった。すなわち、
「殺せないモンを生み出すんじゃねぇこれだから人間は……」
──これである。
金蚕蟲の最大の特徴だ。火や水、鉄。如何なる方法を用いても殺せない・・・・不死性。生み出したら最後、手を掛け続けるしかない特性はまさしく蚕そのもの。ある意味人間の業の極みのような存在なのである。
「金蚕自体に罪はないんだけどね……言っちゃえば全部自業自得だから……」
「呪いの本質なんてそんなもんだろ……だから嫌なんだよ素人が手ぇ出しやがって」
「あの、金蚕蟲って何なんですか?」
魔法使いと魔女のあまりの様相に光が冷や汗まじりに訊ねた。
「あー……蠱毒は知ってるか? だいたいそれ。詳細は後でネットで拾え、三割くらいは被ってるから。まあロクでもない外法だよ」
「素人作りなせいで余計ぐちゃぐちゃだし……うえ、気持ち悪い。誰だこんなもん作ったの、気合い入りすぎでしょうが」
説明を雑に放り投げ、魔法使いと魔女は包装を剥いだ硝子匣をしげしげと眺め回した。光の目には今はただの小物入れに見えるが、彼らはそうではないらしい。
「基本はそのまま蠱毒……あ、これ源流も混じってるな。どうりで。デタラメな割に本格的だと思った」
「ってことは原本が流出したのか、どっかの魔術師辺りが手を加えたのか。何にせよ今度集会で注意喚起しとくか……」
「なあこれ、いっそ嫁金蚕かきんさんって手は」
「業が深すぎる、却下」
「だよなぁ」
となると、といるかはガリガリと後ろ髪を掻く。
「こいつ自体をどうにかするしかないか。どーする? 私が引き受けてもいいけど」
「現役選手に触れさせるわけないだろ。ひとまず俺がやるよ、本業だし」
「ったく過保護……了解、任せた」
いるかは拗ねたように唇を尖らせたが、割合あっさりと肩を竦めて頷いた。手持ち無沙汰に紅茶を啜る光の前で仮の算段がついていく。その後も幾つか言葉を交わし、店の窓辺に再び鯨の影が落ちた頃、琥珀が硝子から光へ視線を移した。
「今回の『相談』は俺が受け持つことにしたよ。事がわりと大きな案件だからまだ下準備の手前みたいな状況だけど、場合に寄っては狼嵜選手にも幾つか手伝ってもらうことになると思う」
「構いません。そもそも私が頼んだことですから」
「分かった。じゃあ早速方向性から検討を──」
「待った」
「? なに?」
腰を据えて話し合おうとする二人にいるかが待ったを掛けた。きょとんと振り向いた司にいるかは溜め息を吐き、やれやれと髪を揺らす。「司お前なあ」という声には僅かに悪戯な色が滲んでいた。
「その格好で仕事する気?」
「へ、」
「ガキとはいえお客に失礼でしょ。はよ着替えろ、店主命令」
「……忘れてた。いやでもこのひと狼嵜選手…………う”〜〜〜……あの、狼嵜選手」
何故か悩ましげに手のひらで顔を覆った司が長い指の間から窺うように光を見る。逆光で潤む瞳が琥珀糖のようだと思うのと同時、司がぽつりと呟いた。
「引かないでね。いや引いてもいいけど頼むから通報は勘弁して。そこだけお願いします」
「は? それってどういう──」
ことですか。そう続けようとして、出来なかった。
視界に燐光が差した。茜空から西日が引くより自然な早さで男の輪郭が変化する。常のスポーティな服装が解ほどけ、代わり顔を出したのはとろりと重い生地のシャツだった。
「……え?」
光は知らず目を瞠った。動体視力に優れた視野が映し出した光景に脳内の処理が段々と追い付いてくる。
「え、えっ…………あ、な、なんッ服!」
袖口に進むごとに膨らみを増し、手首でキュッと締まる形が可愛らしいシャツのシルエット。袖口にあしらわれた幅の太いフリルレースは風に揺れて、同じものが襟刳からフロントまでを大胆に覆う。全体にシックな華やかさが漂う趣にごくりと喉が鳴った。
「……見苦しくてごめんね。これでも仕事着というか正装なんだ」
優しく擽る声が近くて遠い。堅く鋭利な男性性と仄かに甘い少女性が光の裡うちで混ざり合い、後戻りできない形に固まっていく。
「もっとシンプルなのもあるんだけど、ここは店だから。うちの制服みたいなものと思ってほしい」
そう穏和に微笑めば容易く甘露が滴るような顔立ちも合わせて、まるで蜂蜜酒のような印象の男だが、現実のミードがそうあるように〈甘い〉だけでは終わらなかった。
(……、………、…………脚と、腰)
柔和な線を描く生成きなりのシャツを仕舞い込むのは編み上げのコルセット。豊かな胸囲と相反する腰の細さに思わず目を奪われて、つられて視線が下へ向く。トップスの柔らかさに対して肌に張り付くような黒のボトムスは長い脚をこれでもかと強調し、足先へ続く重厚なブーツも相俟って男のプロポーションはいっそ非現実的なものに見えた。心臓がドクドクと鼓膜を叩く。
(かわ、いやかっこよ、ッ違う言わないまだ言わない!!!)
滲み出る甘い色香に反して肌の露出面積はごく少なく、その長い手指すらも黒い革手袋に覆われていた。装飾品と呼べる代物は両耳に留まった雫のみ。細長い涙は彼の動きにつられて揺れて、深海の昏い輝きを惜しみなく振り撒いている。焼き付く黄金を取り巻くモノクロ、完成された世界に差し込む碧は異質ではあったが、彼のもと以外で輝く姿が想像できないほど司に馴染む色彩だった。
このような情報が一気に脳内を駆け巡り、光の胸中は大いに荒れ狂った。夢を詰め込んだ衣装の数々と、それを難なく着こなす〈あの先生〉。店の雰囲気も相俟って眼前にあるのはかつて憧れ続けた幻想の具現だ。押し込んでいたはずの乙女心が尾を出し、ピコピコと耳を立てる。──要するに。
「……、………っぅ、〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」
今この時の明浦路司の装いは、光の趣味のど真ん中をどストライクの豪速球で突き刺したのだ。
「司、忘れ物」
「あごめん、ありがとう」
「ん」
必死で奥歯を噛み締める光を他所に当人たちは呑気に声を掛け合っている。寄り添う男女の姿は真っ黒で、けれど退廃的な華があって、そう誂えられた人形のようだった。困った。好きだ。シンプルに好みすぎる。
光が込み上げる熱にただ耐えていると、
「いるかさん?」
「頭下げて」
「……自分でやるよ?」
「やだ、私がやる」
「ふ、はいはい」
装いに漂う色香に反して稚いやり取りがごく自然に交わされた。これが例の噂の、と思わず見入ると、何事か呟いた司が僅かに身を屈める。同時にいるかが両手を広げた。一瞬の空隙が開き、嫋やかな手のひらに現れたのは細かに波打つ夜色の薄布──。
「……ベール?」
ひと目見て〈花嫁〉を連想させる装飾具だった。ただし色味は正反対、喪に服す黒檀が否応なく忌避感を掻き立てる。それでも紗うすぎぬを縁取る細かな刺繍は見事なもので、不吉な色合いを物憂げな美へ違和感なく昇華していた。
しゃらしゃらと極細の鉱石が擦れ合う音を鳴らし、いるかは手馴れた仕草でベールを広げた。空にふわりと開く透いた衣。翳は崩れゆく牡丹のように花弁を広げ、ただ帳を待つ金糸に黄昏ほどの夜を落とした。
「──ん、完成。魔法使いのできあがり」
「料理みたいに言わないでよ……」
ふふん、と満足げに微笑ういるかとそれに苦笑する司の姿を、光は今度こそ食い入る気持ちで見つめていた。
──何だこれは。
何だこれは。……何なんだこれは!!!
「…………ぐ、」
「「ぐ?」」
「ぐ、っううぅぅぅ〜〜〜……………ッ!!!」
後年の狼嵜光は言う。
私の性癖は間違いなくあの男に曲げられた、と。
「──明浦路、先生」
「は、はい」
ごく静かな低音が店に響いた。気圧され背筋を伸ばした司を下から睨め付け、可憐な唇がはっきりと告げる。
「立ってください」
「へ?」
「いいから立って。背筋伸ばして、手はこっち、顎逸らす! 今すぐ!」
「はい!」
目を白黒させる司を無理やり立たせ、光は息継ぐ様子も見せず檄を飛ばす。
「視線流して伏し目がちに、指先は柔らかく! ちょっと、表情硬い! 演技は得意でしょう!? ベールもう少し引いて、チラ見せがいいんだからこういうのは! ああもう何ボサっとしてるんですか、さっさとやって──今、すぐです!」
「えっ、……え? な、」
何この理不尽。
困惑する琥珀の双眸は光の視界に入っていたが、それはつまり男の全体像もよく見えるということだった。フリフリでヒラヒラの、少女の夢と幻想を形にしたような衣装。動きにつられゆったりと揺蕩う布の重み。溌剌とした色を抑えた表情が紗越し見え隠れして暴く快楽を想わせる。
「……え? ちょ、ちょっと狼嵜選手? 何でスマホ構えて」
「動かないで」
光はそれまでゴシックな可愛らしい服装は少女にこそ似合うと思っていた。もしくは男性であっても師のような、表情に影が付き纏う月夜の如き麗人にしか着こなせないものだと。少なくとも厚い胸板を持つ太陽の化身のような男には到底無縁の代物だと理解していたのだ。
「…………あの……連写は止めていただけると……」
だがしかし。ここに前提は覆された。
検討する余地もなく──何よりも確かな現実、眼前に立つ男の手によって。
すなわち。
(分かってたんだ本当は……圧倒的なプロポーションの前に性別は無意味!)
くっ、と歯噛みする勢いで光は唸り声を押し殺す。
被写体の声を無視してスマホに保存された画は光の感性をガンガンに揺さぶった。
──そうだ。そもそもこの男、ガワだけ見ればそこそこの素質をしている。あくまでもそこそこだが。まああの夜鷹純の隣りに立っても見劣りしない程度のものは持っている。手入れしないから余計に腹が立つのだけれども。
「……いや、むしろ普段がアレだから余計にくるの? この期に及んでまだギャップ萌え狙ってるんですか? あれだけいのりちゃんに王子様ムーブさせておいて? ──貴方あざといんですよ昔っから!!!」
「何の話!?」
「あー、まあ確かに司はあざといとこあるよな。取引先の連中、贔屓の仕方がえげつねえったら。食虫植物みてぇ」
「いるかまでなに人聞の悪いこと言ってんの!?」
「うるさい! いいからそこに立つ、明浦路先生! 二弾目いきますよ、できれば次はいるかさんも!!!」
この後「え、何で私まで?」と戸惑ういるかを勢いで引き摺り込んだ司によって、光のスマホには魔法使いと魔女の写真が瞬く間に溜まっていった。撮られる側の二名のテンションとは異なり、被写体の麗しさ、背景の雰囲気、撮影者本人の技量の向上も相俟って一般人であるはずの少女のメモリにはそのまま写真集にもなり得る作品が次々と生まれることになる。
金蚕蟲対策会議は依頼人の暴挙により一時中断。
代わり幕を開けたのは世にも奇妙な『人間による魔法使いと魔女の撮影会』。
世界の狭間、不思議の境界。その間際に建つ奇妙な店の時間はこうして過ぎていった。
*
「えーっと……狼嵜光さん。落ち着いた?」
「……はい。すみませんでした、少し取り乱して」
少し? といるかが呆れた顔を向けたが、光は素知らぬ振りで何とか通した。仕方ない、圧倒的な『可愛い』を前に人間は無力なのだ。新たな境地を身をもって教えた司が悪い。
突発した撮影会はそれなりの時間を有したが、疲弊感に満ち溢れたいるかの「本題に入ろうぜ」という一声でなんとか収束した。後にも先にもこんな所業で岡崎いるかと明浦路司を疲労困憊にした人間は自分一人だということを光は知らない。
司といるかは精神的疲労を癒すため、光は興奮を鎮めるため新たに注がれた茶に唇を湿らせる。香り高いベルガモット。柔らかく透いた紅に浮かぶ月は黄金色で、美しさと共に脇に置いた呪いの処置を思い出させた。
「それで──どうする?」
光の相談を受け入れた二人もそうだったのだろう。魔法使いと魔女は顔を見合わせカップを降ろし、淡々と打ち合わせを開始した。
「面倒そうだから委託、ってのも手ではあるけど。如何せん時期がねぇ」
「二月祭インボルクまでは?」
「そんな悠長なこと言ってらんないよ。そもそもシーズン中だろ、顔出したら三日は戻れなくなる」
「うっわ想像つく……つっても五月の前夜祭ワルプルギスは論外、蚕の市は絶対ロクなことにならねぇ」
「サウィンは向きすぎて逆効果、夏至祭はまあまあだけどそこまで待ってたらそれこそ手に負えなくなるね」
会話は小気味良く余分な言葉を挟まない。時の長さを感じさせる会話は続いたが、しばらくしているかが渋面のまま後ろ頭を引っ掻いた。
「あれもダメこれもダメ、他所を頼るのは悪手ってことか」
幾つか〈委託〉の検討を重ね、それでも駄目だという結論に達した魔女と魔法使いだった。心做しか萎れた妹分に苦笑を零し、司は「はいはい」と声掛ける。
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ」
「そりゃそうだけどさあ」
「そもそも呪いなんか解く方が面倒なんだし、実際手伝ってくれるかは怪しいだろ。半端に手間賃取られて終わるかも」
「……やりそう……でもお前が解くつったら……あー、やんの?」
「案内・・は頼むね」
やっぱりそうなるか。
朗らかに頷いた相方に、いるかは初めから司がそのつもりだったと理解する。いつまでも悪癖を直さない頑固者め。だがそれ以上に有効な手立ては無いことも識っていて、魔女は溜息を吐き仕方なさそうに光を振り向いた。
「復唱」
「え?」
不意に水を向けられた光がぱちりと瞠目する。
「私の後に続けて言いな、狼嵜光。おまえがおまえ自身を助けるために」
「……私が、私を……?」
「ああ。魔法ってのはそういうもんだから」
それ以上の追求を瞬きひとつで諌める。お利口に口を噤んだ少女が顎を引いたのを見て、いるかは微かに口角を持ち上げた。賢明で勘のいいことだ、訳も分からないだろうに。
(そういう小賢しいところ、司そっくり)
などという雑念は追いやり、いるかはそっと瞼を伏せる。綻ぶような空隙の後、紺碧の瞳に薄金が奔った。冷厳な北の海と同じ色。朝凪に透いた水面から打ち寄せる波の気配を覚り、光は知らず息を呑む。
(……あ。いるかちゃんと目が合って、)
紅を引いた花唇の動きに合わせ、光もまた、考えるより先に唇を動かしていた。
『──わたしは高音、おまえは低音
わたしの中には澱おりがある
澱を壊したわたしは高音ディー
澱を守るおまえは低音ダム
我らに明星輝くならば、誰がその名を告げるだろう』
そうして重なる少女の声に、翻るのは夜半のベール。
「告げるのは私、私は鴉。──おまえを喰らい、葬おくる者」
あ、と思う暇もなく。
詩を紡いだ唇から何かが抜けた。腹水にも似た淀みが溢れ、硝子の匣を満たして綴じる・・・。
外殻だけを残し一塊になった〈なにか〉は球体となって宙に浮かび──大きく開いた男の口へ吸い込まれた。
「えっ」
──ごくん、と。
仰け反った喉が嚥下する。
男らしく太い喉に浮いた丘陵がゆっくりと動き、真っ黒な星を呑み下すさまを光は釘付けになって見守った。
ささやかな沈黙が場を満たした。やがて黒星を丸呑みにした〈鴉〉は薄らと瞼を開き、ちろりと唇を舐める。あんな野卑ですらある〈食事〉をした後だとは思えないほど優雅な仕草だった。応えて、食はんで、呑んで。言葉にすればただそれだけの一連が夢のように彩やかで、ここに来て初めて光は「ああ、これが魔法なのか」と、ただ呆然とした頭で思った。
「星を食べる、魔法使い……」
──昔の私がなりたかったもの。
薄墨のベールの向こうにいたのは、紛うことなき本物だった。
無論それは比喩であり、スケート選手としての話だ。能あたうならば灰かぶり姫シンデレラではなく魔法使いに。光は魔法のような演技で世界を魅了した師のように、同じ奇跡を扱う存在になりたかった。だから彼らとは違う……けれど。ああ、けれど!
──正しくそれを行う者が現実にいると、どうして思えるだろう?
しかもそれが自分にとって気に食わない相手で、しかし、光のなかの〈魔法使い〉に最も似通う軌跡フィギュアを描く男だなどと。
(………ずるい)
滑稽にも程がある。こんがらがった自分が憐れで、目の前の男が憎らしかった。光の欲しいものをすべて持っている。完璧に演じずとも好かれる性質、あの夜鷹純に氷上を望まれる才能、弱さを隠しもしないくせに「あなたは強い」と信じてもらえる特異性。挙げ出すとキリがないというのに、ここに『しかもこいつは魔法使い』なんて項目まで追加されようとしている。
(今の服装のセンスはまあまあで、着こなしもまあまあ、スケーティングまであんななのも腹立つ……!)
容姿だけならまあそこそこ、という事実までも憎らしかった。
煮え滾る感情の行先に無言のまま惑っていると、
「……ご馳走さま。うん、もう大丈夫だよ」
余韻に浸るようにぼうっとしていた司が光を見て微笑んだ。そのあまりに毒気のない笑みに思わず奥歯を噛み合わせる。
……分かっている。これは癇癪だ。正当性もなにもあったものではない。
というか今回は分かりやすく助けられた側だ。気に食わない男で、頼りなくて情けない大人なのに、現在に至るまでの師との関係も含め借りばかりが大きくなっている気がする。
(それはムカつくし気持ち悪い……気持ち悪い、けど)
そもそも昔からこのひとには狼嵜光の弱く、醜く、矛盾した一面ばかり曝してしまうのだから今更と言えば今更な話かもしれなかった。
「……ありがとうございました。私には何がなんだか分かりませんでしたが、助けてもらったんですよね。なんか身体軽いし」
「俺はあなたがあなた自身を助ける、その手伝いをしただけだよ」
「それでもです。助けられたのは事実でしょう、私を礼儀知らずにする気ですか? 大人しく受け取ってください」
「あ、はい……」
情けなくも説き伏せられた男から先程の荘厳なまでの気配は失せていた。それでも瞳や髪の色味が記憶より少し白金に近く、象る笑みにも重さが漂う。皺が寄る眉根をそのままに「結局何をしたんですか?」と訊くと、
「秘密です。説明も難しいし。もうこれには何もない、これだけじゃ駄目かな」
曖昧に微笑まれて終わった。生意気だ。
思わずムッとして睨む。すると司は苦笑して「じゃあ概要だけね」と答えてくれた。
「金蚕蟲は殺せない呪毒だ。さっき俺は金蚕の呪いの大部分を向こうに返した・・・から今頃どっかで変死体でも上がってるんじゃないかな」
「死ぬんですか?」
「願いのために命を使ったからね。この手の呪まじないは作ること自体よりその後の扱いが難しいんだよ」
それで、と司はコルセットをするりと撫ぜた。
「残った残滓と毒の方は俺が処理・・しました。だから空っぽ、これはもうただの汚れた箱でしかありません。おしまい」
……いや。おしまい、じゃない。
処理ってそれは。つまり──つまり。
「意味が分かりません……」
「そりゃそうだろ」
呟きを拾ったのはいるかだった。
「今のはこいつの特性ってか、より原初の魔法に近いモノだ。隣人を介さない司自身の魔法きせき。超高密度の霊子集合体っていうか……あー、小型の太陽内蔵してるとでも思っとけ」
「太陽」
「そんなもんに取り込まれたら生半可な呪いじゃ情報量の過多に負けて分解されんの。金蚕蟲程度・・じゃ話にもなんねぇよ」
「はあ」
言葉の意味の大半を理解できなかったが、それはこの男の存在そのものもそうであるため光は「まあいいか」と思考を放棄した。助かったなら重畳。光が助かったせいで終わった命があるのだろうが、自業自得とだけ供えておこう。命の対価は命である。
そこまで考えて光ははたと気がついた。思えばここは〈店〉。彼らは店主。噂のことも考えると……相談料というものが発生するのでは。
その旨を訊いてみると、二人揃って実にあっさりと「あるよ」と答えが返ってきた。
「魔法って要は世界との契約なんだ。それをヒトと結ぶ以上、支払うものは互いに対等でなくちゃならない。でないとどっちかが過不足分を払うことになるし、そんなのは余程の三流か悪魔がすることだしね」
「不名誉ではあるよなー。魔女なら特に。ま、基本依頼した側おまえらが余計に払うことになるからきっちり清算しといた方がいいぜ?」
「出し渋るつもりはありませんが……手持ちで足りますか? 後日口座に振り込むとか、そういうのは可能だったり?」
訊くと、いるかが小さく首を傾げた。
「ん? ああ、別にお前から現金は取らねぇよ。私たちが貰うのはもっと違うものだ」
「違うもの?」
「現金支払いの宛ては見当つくし、詳しくは司に聞きな。私は場所とちょっとした手伝いしかやってないから」
なるほど、と光は頷いた。今回の契約主は明浦路司。そういうことらしい。
気に食わない相手だが対価は支払う。それだけの働きを男はしたし、そういう明瞭な道理が光は嫌いではないのだから。
(……そういえば)
契約と対価。書面どころか世界に根差すというそれに寄り添うこの人が、ひとり思う〈犠牲〉とはどういう言葉だったのだろうか。
なんとはなしに思いを巡らせながら、光は改めて魔法使いに相対した。
「それで──対価は」
「もう決めてある」
す、と長い指先が卓上を指した。
「それ・・を貰おう。どうかな、狼嵜選手」
「それって……」
木製の円卓に乗っているのは燭台、茶器、そして──例の硝子匣。
「願ってもない話ですけど……本当にいいんですか? こんな曰く付きの匣なんて」
「人間ならそうかもね。でも俺たちにはその手の”曰く付き”こそ利用価値がある。対価として十分に成り立つよ。……それに、随分満腹・・にさせてもらったし」
「──!」
息を呑んだ光の隣りで魔女がくつりと喉を鳴らした。
「ウッソつけ。喰った端から腹空かせる暴食・悪食・雑食のくせに」
「鴉だからね、仕方ないだろ。……ふ、でも嘘つきは心外だなあ。これでも魔法使いなのに」
「胡散臭いツラが出てるぞ明浦路先生」
「おっと」
わざとらしく戯けて、司はすうと居住まいを正した。
「言った通りこれは充分価値があるものだ。最近じゃここまで純粋な〈穢れ〉を帯びたモノは少ないし、俺の眼にもよく馴染む。──だから了承してくれますか、狼嵜光さん」
「……分かりました」
光は頷き、静かに魔法使いを見返した。
「これを対価としてお支払いします。あとは如何様にもなさってください。……あの、明浦路先生、いるかさん」
ん、と二人が揃って光を見る。兄妹でもないのに妙に似通う彼らから目を逸らし、光はぼそりと呟いた。
「今回は──本当にお世話になりました。…………助けてくれて、ありがとう」
最後は消え入るような声で告げられた言葉に、司は破顔し、いるかは呆れ顔で髪を揺らす。
「どういたしまして」
「べつに助けてないけど。……ま、次があったら話くらいは聞いてやるよ」
素直じゃないなあ。うるさい。はいはい。おい笑うな。分かった分かった。そうだ狼嵜選手、ついでだしお昼食べていかない? 戻ったらもう昼だろうし──。
一気に緩んだ空気のなかで魔法使いと魔女は軽快なお喋りを再開した。司に至ってはひと仕事終えたという風情で光のことまで昼食に誘う始末、どこまで行ってもお人好しらしい。手早く茶器を片す男の片手間に匣が黒絹ごと持っていかれて、その雑な光景に、何だか奥底にこびり付いていた最後のしこりが取れた気がした。
「はあ……いただきます。なんかお腹空きましたし。……あの、いるかさん。お昼ご飯の対価として少し提案があるんですが──」
***
──随分と獣臭い呪いが贈られてきたな。
夜半に包まれたリンクを前に、魔術師が真っ先に感じたものはそれだった。
真っ白で透明で清らかなはずのスケートリンク。それを蝕むように腥い獣臭が漂っている。生と死の気配が混濁したその香りはあろうことか銀盤に美しいフィギュアを描き奔っていた。
スケート好きの呪いでもあったか。──無いとは言いきれないのがこの世の常だが、今回は違った。
今も氷上を駆ける獣。夜を切り裂く雷いかずちの気配を放つ少女から、彼女に相応しくない醜悪なにおいが香っていた。
──これは久々に骨が折れそうだ。
遠目ながらに実感し魔術師は淡く苦笑う。そして翌日には遠き北国、雪に閉ざされて主を待つ故郷へ発ったのだった。
朝露と月光に晒した白樺、暖炉の火で丸三日炙ったナナカマドの実、砂鉄をまぶした鉄鎖かなつがり……見定めた期限の内に用意できた下拵えとしては上出来だろう。
あとは体力と気合い、根性だけ。醜いものが嫌いな男にとってあれ・・との勝負は気が進まないものだったが、仕方ないと己に言い聞かせる。より美しいものを守るためなら世界とだって切り結ぼう──いつかの日に立てた誓いは今も男の心臓を燃やし、新たな美へ駆り立てる原動力となっていた。
……だけれども。
世界とは予想以上に不条理なもので。入念な準備と覚悟を重ねた物事こそ、その労苦ごと誰かに持っていかれるなんてよくある話だ。
今回の騒動もまたその内のひとつ。諸々の準備と覚悟を済ませ、極東へ舞い戻り愛し子をリンクにて出迎えた魔術師──レオニード・ソロキンは色素の薄い眼をぱちりと瞬かせた。
「これはまた……随分な贈り物をされて来たんだね、ヒカル」
「レオニード先生」
地獄にでも出向いたのかい? そうおどけたレオニードに、狼嵜光はその香りと同じ鋭く明敏な眼差しを向けた。
「やっぱり……貴方もそう・・なんですね」
しなやかな躰をすっかり身綺麗に・・・・整えた少女の言葉に、北国帰りの魔術師は事態が既に終息したことを悟ったのだった。
それから数十分ほどレオニードの弁明──『どうして僕がロシアに渡ったか』説明大会が一方的に開かれた。無駄に口調に淀みがなく立て板に水とばかりに喋っていたので「だいぶ焦ってたんじゃないですか」とは後の光のコメントである。
「だからねヒカル、無論君を放っておいた訳じゃないんだ。むしろ血相変えて準備を重ねたさ。我ながら急拵えにしては中々の用意が出来たと思うよ? いや、まあ無駄になったようだが」
「あの、もう大丈夫ですからレオニード先生。貴方を詰るつもりはありません。それに聞いてしまいましたし」
「聞いた、とは?」
「私やコーチを守っていてくれていたのが誰だったのか、今回お世話になった人たちから少しだけ。お礼をするべきでしょうが……貴方への謝礼はスケートの形で。そうでしょう、先生?」
「──勿論だとも!」
整然とした少女の言葉にレオニードは一気に破顔した。世界に花が咲き蝶が舞う気分だった。友人に失望されるのは魔術師だろうが怖い。
胃の腑を冷やす未来を回避できたことにレオニードがささやかな喜びを天へ捧げていると、少女は微笑をおさめ、ふと居住まいを正した。
「……だから。これは私じゃなくて、あのひとたち・・・・・・からの伝言です」
「……?」
そう言って嫋やかな手に渡されたのは横長の包み紙。裏返すと古風な金色の封蝋がキラリと光った。そして下段、夜を思わせるミッドナイトブルーの紙に遊ぶように綴られた宛名は──〈揺籃の魔女〉。
「……、……、…………揺籃」
猛烈に。嫌な予感がした。
「読んでも読まなくてもご自由に、だそうです。お勧めはちゃんと目を通すこと。警告はしましたよ、だって」
「選択肢ないだろうそれ……」
ほとんど脅しじゃないか。
渋々ながら封を切り勿忘草色の和紙を取り出す。手触りの良い便箋を開くと、雨に濡れた鉱石とインクの香りが鼻をついた。
『拝啓 蒲公英の魔術師さま』
手紙はそんな一文から始まっていた。
簡潔な時候の挨拶が続き、柔らかな筆記は徐々に本題へと入り始める。
『この度は当店をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。
ご依頼されたお客様のお悩みは当店付きの魔法使いにより処理されました。当面の安全はお約束できると揺籃の魔女が保証いたします。また併せて積年の残滓も濯あらわせていただきましたので、今後一年の間は以後の対策に時間を充てることをお勧めいたします。つきましては──』
ぺら、とレオニードは二枚目の用紙を捲った。
『以下、ご依頼の請求金額を明記いたしております。本用紙を受け取った日から一ヶ月後までに当口座に振込みいただけますよう、何卒よろしくお願いいたします。
請求金額 $──,──,───.
ご多忙のなか恐れ入りますが、よろしくお願い申し上げます。
……弟子のため、友のため。何も問題はないでしょう? どうぞよしなに、小さな蒲公英の魔法使い・・・・さま。
魔道具屋〈湖水の鯨〉店主 揺籃の魔女。並びに──』
「──〈雪鴉の魔法使い〉だって!?」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も……!」
とんでもねぇ大物を釣り上げてしまった!
横並びのドルについたゼロの桁すら吹き飛ぶ衝撃がレオニードを襲った。雪鴉の魔法使い。よもや実在したとは。
「なんというッ……なんという幸運、なんたる悲運! ヒカル、やっぱり君は最高だな! 実在すら疑われる魔法使いの姿を見たばかりか、その神秘に触れただなんて!」
雪鴉の魔法使い。東洋に生まれた旧き神秘の担い手、その新参。神出鬼没の言葉のままに表社会を渡り歩き、増え続ける噂に反して容姿すら掴ませない足跡は今もって謎に包まれている。それでも耳に届く程度の評判から聞き取れて余りある功績の数々に、多くの魔術師は邂逅の機を得ただけで歓喜と憎悪に呑まれるだろう存在だ。
そんな相手に偶然見まみえ、あまつさえ手助け・・・されるとは。少女の形をした猛獣を取り巻く縁の奇抜さたるや、レオニードという芸術家の胸を熱く踊らせることに余念がなかった。
(流石はジュンの一番弟子といったところか!)
現役時代の夜鷹純を想起させる奇縁に「師弟揃ってこういうところが最高なんだよなー!」と感激に浸っていると、光が「いや」と呆れた目つきでレオニードを射抜いた。
「見たも何も、先生も顔見知りなんじゃないですか? 何度か会ったことありますよね」
「は?」
「本人は『長年のファンだった』とか言ってましたけど」
もちろんコーチの次の次くらいに。
やけに平坦な口調で告げた光の声がどこか遠かった。
──会ったことがある? それも何度も?
表社会で富も名声も浴びるほど得た自分だ、ファンは世界中どこにでもいる。現役時代の夜鷹純の振り付けを一任された実績は伊達ではなく、バレエの界隈ならばレオニードの名を知らない人間はそれこそモグリだろう。ならば現役時代に出会った誰かか? しかし光の物言いは相手がスケートに携わる人間だと指していて、……いや、というか。あの狼嵜光がこんな拗ねた眼で語る人間など一人しかいない。
「──……まさか」
金眼が睥睨するように眇められた。その鋭い視線の先にいるのはレオニードではない。
──あの青年、まさか。
「……彼が?」
「誰のことか知りませんけど合ってると思いますよ。まあ、あのひとは雪というかむしろ溶かす側に見えますが」
その言葉に確信した。雪解け水で雪すすいだ黄水晶の如き瞳を持つ彼。幼い仔狼が立派な成獣へ成長を遂げるさなかに巡り会った、光や夜鷹にとって無視できない存在のひとりだ。
幾年経とうと若葉のような印象が拭えない青年であり、とても神秘に根差した人種とは思えないが……いや待てとレオニードは思案する。
(魔法使いならば寧ろ得心がいく)
加えて魔女と共にある者ならば。無垢と老獪を併せ持っていても何ら不思議ではない。
自身も友人として──青年の方は恐縮しているが──付き合いを築きつつあったレオニードは衝撃の事実に沈黙し、ややあってぐにゃりと眉間に谷をつくった。
「……まったく。なんだい、みんなヒトが悪いじゃないか。これだから魔法使いも魔女も性悪なんだ。内緒と秘密ばかりで!」
「いや、人のこと言えないでしょう。私なにも知りませんでしたよ」
「いいや言うね、言わせてもらおう! ヒカル、君はこれから知るだろうが、魔法使いも魔女も魔術師とは別次元で捻くれてるのが多いんだ。愛と呪いを同一視する奴らだからね、まあ彼らにとっては違いないだろうが!」
「これからって何ですか……私、もう関わる気ありませんよ?」
「それは無理だね」
即座の断定に金眼が丸くなった。それを眺め、レオニードは教鞭の如く人差し指を天に向ける。
「いいかいヒカル。この手の話から逃れたいなら、端から縁を結ばないというのが肝要だったんだ。無論君に非はないけれども、既定路線でこう・・なったのならそれも君の運命さ。受け入れる他ない。君も僕も魔法遣いではないのだから」
「は?」
「それかまあ、完全に縁を断ち切るという路もなくはないが……それはつまり君の大切なライバルとの断絶を意味する。やるかい?」
「は? 絶対嫌です」
「だろうね。僕もお勧めしない。君から彼女の縁を剥ぎ取るなんてそれこそ魔法でもなければ不可能な話だ」
だからさ、とレオニードは一転してにっこり笑った。
「こればかりは諦める方が早いと思うな! 暴風のような存在だからさ、彼ら。望もうと望むまいとあるべき時が来れば自然そうなる」
何事か言おうとした光を指先で諌め、振付師であり踊り手であり、魔術師でもある男は告げた。
「なぁに、そう悪いことばかりでもないさ。要は簡単な話だ。君は神秘と秘密のベールの向こう側へ──こちら側の世界へ。立ち入ることが許されたというだけなのだから!」
***
「……もしもし。ええ、はい、手紙は先生に渡しました。顔引き攣ってたけど笑ってたのでいいでしょう」
照明を最小限に抑えた階段裏の影溜まり。その薄闇に溶け込んだ少女は、可憐な声に棘を含ませ電話口に語り掛ける。
「にしても何ですかあの反応。貴方の言う通りだったのが何よりも不愉快……チッ、言い間違いです。地獄耳」
毒を隠さない物言いは彼らにとって常のことだったため、特に差し障ることなく会話は続く。互いに剣先を向け合う関係が常態化した者同士のやり取りだった。
「はあ……まったくもう、怖いヒトたちですね、魔術師っていうのも」
少女が深々と息を吐く。想起した振付師はもはや魔術師という裏面を隠さず教え子に接した。明け透けな態度は隠匿されるより清々しくはあったが、同時に痛烈な現実を目の当たりにさせられた。
魔術師。時として外道に堕ちることを厭わないという合理性の化け物。そんなものが自分たちの庇護者であり裁定者とは何とも頭の痛い話である。
『──、──……』
「……平気ですよ。これくらい乗りこなせない器なら、あの子と奪い合う金メダルに相応しくないでしょう」
案じる声には強気で返した。それは当然の道理であり、〈彼ら〉に向けた宣誓。これを守りきることこそ狼嵜光の矜恃なのだから。
「ええ、はい。じゃあそういうことで。──対価の図案は完成したらそちらに送りますから、ちゃんと作って見せてくださいね。絶対ですよ。私、デザインの番号まで含めて全部覚えてますので。変な悪足掻きはしないように」
画面の向こうで喉が詰まるような音がした。意に介さず了承の言を引き出し、光は最後の言葉を告げる。
「それじゃあ、今度は氷の上で。いのりちゃんの足を引っ張ったら咬み殺しますから。その辺り覚えておいてくださいね、明浦路先生」
ピ、と。白魚の手は返答を待たず通話を切った。敵愾心からではない。ただ互いに交わす答えは分かりきっていて、それはあの男も同じだろうと判断したまでのことだ。
その証拠に電話はもう鳴らなかった。ようやく満ちた静寂に息を吐き、冷えたスマホをポケットに突っ込む。
「……行こう」
東京に戻った以上、やるべきことは山積みだった。わざわざ名古屋に行ってまで済ませた事情を必ず訊かれるだろう。開示と秘匿の塩梅を今から考えておかなければ。
(仕方ないとはいえやることが多いなあ。いるかちゃんとちょっとは仲良くなれたと思うけど、レオニードはなんかずっとハイテンションだし……絶対ライリー先生怪しむよね)
司たちとは違う意味で彼女も勘がいい。下手な嘘は吐かないように、しかし秘密を守れるように。──厄介極まりないタスクなのだが、どうしてか少女の口元は緩く弧を描いていた。
(……あ。そっか)
その理由に気がついて、光は今度こそ微笑う。
「秘密って──なんか、楽しいんだ」
こうして束の間の怪異譚を終え、少女は日常へと戻った。
しかし彼女は知らない。怪異に触れると怪異に遭う。魔術師が仄めかした性質を既にその身が帯びつつあることを。
その身を取り巻く奇縁によって、不思議が起こす騒動により深く関わることになる運命を。
そしてなにより、何某のせいで歪んだ性癖と優等生の仮面に隠した生来の破天荒さによって、しばしば暴走する未来が己に待ち受けていることを。
今はまだ誰も知らず、夜は更けていくのだった。
──ところで。ひとつだけ不思議に思ったことがある。
「そういば……レオニード先生のあれ、どういう意味だったんだろう」
出会い頭から獅子の如く鼻をひくつかせていた振付師は去り際に奇妙なことを告げてきた。それが頭にこびり付いて離れない。あれはそれだけ謎掛けめいた言葉だった。
『ねえヒカル、もしまた雪の君に会うのなら君から彼に訊いてみてくれないかい? 僕じゃ殺し合いになりかねないから。でね、そう。君、もしかして──』
本当に変なヒト、と呟く。
「”いつかの冬至ユールに星の巡りを謳ってやった男が居なかったか”なんて……そんな絵本みたいなこと、本当にあったりするのかな」