<紡織師>は人の肌に直接触れることで、悪意や敵意を感じ取れる特殊な能力を持っているが、実は感じ取るだけではなく、邪な感情だけを消し去ることができる。
その能力があったからこそ、アネモネはすんなりソレールの家に留まることを決めた。万が一、彼が人の道に反した行動を取ったとしても、阻止することができるから。
そんな便利な能力のおかげで、アネモネは<紡織師>となってから一度も危険な状況に陥ったことはない。
けれども<紡織師>には、一つだけ欠点というか……悲しい運命を持つ。
<紡織師>は仕事を終えると、それに関わった人々の記憶から、存在が消えてしまうのだ。
最初の<紡織師>は、神様になれると奢り高ぶった一人の魔法使いだった。
見境なく人々の願いを叶え続けた魔法使いは、とうとう人の命を奪うことにすら罪悪感を持たなくなってしまい、天罰が下りた。
神の逆鱗に触れた魔法使いは、全ての魔力を失ってしまったのだ。
しかし神様は、魔法使いにたった一つだけ慈悲───人が持つ願いや祈り、そして大切な記憶をそっくりそのまま他人に移すことができる魔法を与えたのだ。
ただし、その魔法を使えば使うだけ、魔法使いの存在は人々の記憶から消えていく。
沢山の人に崇め奉られることを望み、王すら跪かせる存在になりたかった魔法使いにとって、それはそれは酷なものだった。
でも魔法使いは、自らの罪を認め、贖罪の為に、魔法を使うことを選んだ。
かつての魔法使いは、名を捨て、自らこう呼んだ──<紡織師>と。
それから気の遠くなるような年月が過ぎ、アネモネは師匠からその名を受け継ぎ、<紡織師>となった。
師匠ニゲラとアネモネには、血の繋がりはない。
紡織師は、血で受け継ぐのではなく、継がせたいものと継ぎたい者の合意の上で成り立っている。
アネモネが、この職業を自ら選んだ理由は、その生い立ちにあった。
裕福な伯爵令嬢だったアネモネは、父親の再婚を機に壮絶な虐待を受け、10歳にも満たない冬に屋敷を逃げ出し、そして、逃げ出した路上で、師匠と出会った。
食事を与えられず、残飯すら漁ることも許されず、餓死目前だったアネモネは、あの頃から筋金入りの方向音痴だった。
今居る場所がわからない。さりとて、屋敷に戻ることもできない。途方にくれながら、アネモネは広い広い王都をさ迷い歩いた。
──そして、師匠であるニゲラと出会った。
『なんだい、あんた。随分と汚らしい格好だね』
師匠が最初にアネモネにかけた言葉は、これだった。
飢え死に間近の少女に、それはないだろう。でも口調とは裏腹に、師匠はかさついた手で、アネモネの乱れた髪を手櫛で整えてくれた。
そうとう臭かったはずなのに、顔をしかめることもなく。
『……あんた、迷子かい?』
間を置いて投げかけられた師匠の質問に、アネモネは即座にうなずいた。もう、お腹が空きすぎて、声を出すことができなかった。
『そうかい。なら、一緒に来るかい?』
この問いには、もっと早く頷いた。
『……わたし、おばちゃんといっしょにいきたい』
最後の力を振り絞ってアネモネはそう訴えると、師匠のスカートの裾にすがり付いた。
『こらっ!あたしゃ、まだ現役だよ。お姉さんとお呼びっ』
すぐに不機嫌な声が降ってきたけれど、師匠はアネモネの手を握って歩き出した。
それから師匠のことをお姉さんと呼ぶ機会に恵まれることはなかったけれど、アネモネは新しい生活を手にいれることができた。
飢えに苦しむあまり、アネモネは唯一の居場所を捨てざるを得なかった。
だから教会の神父だろうと、王様だろうと、他人を信じることなんてできないと思っていた。
そう……思っていたのだが、違った。
アネモネはあっという間に、師匠になついた。
生まれたばかりのカルガモの雛のように、師匠の後ろをくっついて歩いた。
四六時中、どこにいくにも後ろからちょこちょこ子供がへばりついてくるのだ。師匠は間違いなく鬱陶しいと思っていただろう。
でも、拒むことも嫌な顔をすることもなく、アネモネの好きなようにさせてくれた。
師匠と過ごした日々は、いつ思い出しても、ひだまりの中にいるように優しく光り輝いている。
ただ神様はとても意地悪で、アネモネがようやっと手に入れた2度目の幸せもずっとは続かなかった。
師匠ニゲラは若い頃、やんちゃと言えば可愛いけれど、相当過酷な生活を送っていたらしい。
そのせいか、まだ老婆と呼べる年齢ではないのに、老衰で土に還った。
既に<紡織師>を受け継いでいたアネモネは、師を失っても生活に困ることはなかった。
けれど、まるで肉親のように接してくれた温かく大きな存在が消えてしまったことを理解した途端、アネモネはタンジーの涙を奪ってしまうほど、沢山泣いた。
「……結局私は、師匠に本当の自分の気持ちを伝えることができなかったなぁ」
アネモネは屋台の主人から、お礼にと貰った肉串を食べ終えてからポツリと呟いた。
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